緊迫(5)
「中国に続いてインドか……」
ラヴロフ外相がインドを訪問したことを芯賀が報告すると、総理は悩ましげに首を振った。
「経済的、軍事的な協力関係を話し合ったようです」
芯賀は外相会談の概要を記したメモを総理に渡した。
そこには、『われわれは欧米の一方的な制裁による障壁を克服できるだろう。軍事協力についても間違いなく解決策を見つけられる』というラヴロフのコメントがあった。
「インドは歴史的な友好国だからな」
ロシアに対して直接的な非難をせず、経済制裁にも慎重な立場を取るインドにすがろうとするラヴロフの意図が見え見えのコメントだった。
「インドにとって最大の武器供給元がロシアですからね」
インド軍の武器の60パーセントがロシア製と言われており、最近も米国の反対を押し切ってロシア製の地対空ミサイルを購入したばかりだった。
「対パキスタンを考えると、この傾向は今後も続くでしょうね」
中国がパキスタンへミサイルを提供して開発を支援している現状では、安価で使いやすいロシアのミサイルを購入し続けなければならないという事情があるのだ。
「ああ、複雑な関係だからな」
インドとロシア、
インドと中国、
インドとパキスタン、
パキスタンと中国、
中国とロシア、
複雑に絡み合う利害関係を読み解くのは簡単ではない。
しかし、この絡み合う糸がどういう未来を導くのか、芯賀の関心は最近とみに高くなっている。
「中国とインドが抜け道になれば経済制裁の効果が減退してしまうことになりますが、会談後のインド側のコメントを見ると、若干の期待を持つことができるかもしれません」
芯賀はそのコメントを読み上げた。
『外相は暴力と敵対行為の停止の重要性を強調した。意見の違いや争いは外交と対話によって解決すべきだと述べた』
それは、これまでの主張を繰り返したものだったが、ロシアが期待した協力関係に触れる文言は一つもなかった。
「まあ、インドも国際世論を敵に回すわけにはいかないからな」
「確かにそうだと思います。表立った支援はやらないでしょうね」
総理は頷いたが、新たな質問を繰り出した。
「アメリカはどう動いている?」
それに対する準備はできていた。
新たなメモを総理に渡した。
「しっかり手を打っているようですね。大統領副補佐官のシン氏をインドに送り込んだようです」
ラヴロフが訪れた同じ日にインドの商工相や外務省幹部と会談を行い、ロシアに対する制裁の目標と仕組みを協議したと伝えられている。
更に、食糧やエネルギー供給での協力も話し合ったようだ。
もちろん、インド太平洋戦略に基づいたものである。
「生産的な対話が行われたようですし、協議も継続されるようです」
「なるほど。したたかにやっているわけだ。それに、派遣したのがシン氏というのが見事だ」
ニューヨーク連邦準備銀行の市場グループ責任者であったシン氏は、現在国家安全保障担当の副補佐官を務めており、過去にはオバマ政権下の財務省で金融市場や国際問題を担当していた。
もちろん、その名前からインド系であることは容易に察することができる。
「北朝鮮担当特別代表に韓国系のソン・キム氏を選んだ時もなるほどと感心しましたが、今度も機を見るに敏の対応でしたね」
総理は〈その通りだ〉というように深く頷いたが、それは、浮き彫りになった日本の課題を認めることと同じだった。
「日本政府にも、もっと多様性が必要だな」
画一化から抜け出せない閣僚や官僚の顔を思い浮かべているのだろう。
もしかしたら内閣改造とスタッフの入れ替えに思いを馳せているのかもしれない。
そう察した芯賀は「島国で、かつ、単一民族という特徴が負の遺産とならないようにしないといけないですね」と応じたが、総理はそれに答えず、「クアッド(QUAD)を……」と呟いただけだった。
芯賀はその呟きの意味がわからなかったが、翌日、それを理解することになった。
インドとオーストラリアが経済連携協定に暫定合意したというニュースが飛び込んできたのだ。
それは、両国にとって最大の貿易相手国である中国への依存度を下げる狙いが込められていた。
インドは中国と国境問題を抱えて度々武力衝突を起こしているし、オーストラリアもパンデミックに端を発した経済的虐めを受けている。
両国共に中国との関係が急速に悪化しているのだ。
そのため、中国に代わる貿易相手国を必要としているのだ。
外務省から届いた報告書には、オーストラリアからインドへの輸出品の85パーセント以上が関税撤廃になると記されていた。
対してインドからオーストラリアへは更に高く、96パーセントとなっていた。
「これで、クアッドの連携が一層強くなる」
満足げに総理が独り言ちた。
クアッド(QUAD)とは、日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国による安全保障や経済を協議する枠組みである。
この4か国はインド洋と太平洋を囲むように位置していることから、中国の進出に目を光らせると共に、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観を守り抜くための役割も担っている。
その背景には中国の巨大化がある。
それは経済面だけでなく、軍事面でも脅威となるレベルに達しようとしている現状がある。
GDPはアメリカに次ぐ世界第2位の規模になり、軍事費も26兆円を超え、アメリカには及ばないものの日本の4倍に相当する巨額になっているのである。
対して4か国が手を組めば、GDPで中国の約2倍、軍事費で約4倍の規模になる。
地理的にも経済的にも軍事的にも包囲ができるのだ。
「インドを更に引き寄せなければならない」
総理が強い決意を滲ませた。
その時、外相からの電話が取り次がれた。