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呪術臨界点(旧版)  作者: 冬至 春化
6章 古道を拓く
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34 公爵閣下の権力濫用講座・上級編



 サリタは微笑みを絶やさないまま口火を切った。

「僕が離反したことから分かる通り、我々も一枚岩ではありません。けれど、単独で大っぴらに行動すれば、すぐに本国――あなたがたのことです――の攻撃に晒される。ですから、我々は自ずと団結するようになり、今は本国の目につかないところにいくつかの集落を作って暮らしています」


 頭では分かっていても、声変わりもしていない少年が代表者として語り出すと混乱するらしい。にわかにざわつき始めた参加者の中で、アルラスだけが微動だにせずサリタを注視していた。

「そちらの成り立ちについては、把握している」

 落ち着き払った声でアルラスが応じると、ざわめきはゆっくりと沈静化される。


 もはや会話はサリタとアルラスだけのもので、二百年すら生きていない人間に口を挟む余地はなかった。


「各集落をまとめるのは、我々の隔離が行われる以前に生まれた者に限る、というのが我々の取り決めでした。不死者二世以降ではない、本国を知る人間のみです」

 言いながら、サリタが胸を張って頷く。そのうちの一人が自分だと言いたいらしい。


「しかし、時代が下るにつれて、不死者と思われていた中にも、死亡する者や、肉体や意識が保てない者が出てくる。博士が台頭してきたのはその頃でした」

 そうして、それまでサリタがナァナとともに管理していた集落は、博士によって乗っ取られたという。


 リンナは密かに得心した。

 言われてみれば、あのコロニーの住人は、博士の支配に怯えつつ、サリタの顔色を窺うような様子があった。


「その、『博士』というのは一体何者なんだ」

「フェメリア・ウォゼルベルの弟子の一人です」

 サリタが答えた瞬間、アルラスの顔色が変わる。

 誰だっけと他の参加者らが顔を見合わせているなか、その顔が見る見るうちに青ざめる。


「ご存知ですか? フェメリア」

 サリタは手を緩めることなく問いかけた。アルラスは肘を支えながら口元を押さえた。

「昔の呪術師だ。組織立った呪術師の集団をつくった人間で、残党は当時の王家によって弾圧された」

 一旦言葉を切り、彼の口から小さな呻き声が漏れる。


 ……ひとり残らず断頭台に送ったのに。


 物騒な一言に、サリタは目を細めただけで答えなかった。

「フェメリアは早世しましたが、その遺志を継いだのが博士です。呪術師を掛け合わせて、より強い呪術に耐えられる呪術師を作り出したり、それを量産したり」

 一同の視線がいきなり集中して、リンナはどきりとした。この顔の女がたくさん存在することは、既に知られていることのようだ。


「すみません、呪術師を量産というのは?」

 険しい表情で手を挙げたのはファランだった。誰もが口を挟みたそうにしていたから、諫める者はいなかった。


 リンナは長く息を吐くと、サリタに代わって口を開く。

「呪術によって、生物の形質を変えることができるんです。例えば、既に咲いているヒマワリをバラに変えることは現実的ではありませんが、赤いバラの種子を白い品種に変えることなら、私にもできると思います」


 と、そこで続けるか迷って、リンナは口を噤んだ。どんなに言葉を選んでも平和的に表現できそうになかった。


「それと同じように、人間を、胎児もしくは出産直後に」


 皆まで言わずとも誰もが理解していた。

 おぞましい解説に、辺りは水を打ったように静まりかえる。

 恥じるべきことなんて何一つないはずなのに、自然と顔が下を向く。


 激しく椅子が動く音に、リンナは顔を上げた。

 見れば、ぶるぶると手を震わせて、父がこちらを指さしていた。


 脂汗を滲ませ、恐怖に顔を歪める姿を見た瞬間、心臓が冷える。

「じゃあ、私の娘は、幼いうちに、こんな化け物に変えられていたとでも言うのか?」

 掠れ声に、全員が素早く目を逸らす。


 剥き出しの敵意に晒されて、足の震えが止められなかった。

 恐怖に腹が竦む。感情を消してしまいたいのに、片手は折れているし、もう反対は固定されている。

 呪術が封じられてしまえば、自分は何もできない。慣れ親しんだ無力感が全身を覆い、リンナはきつく目を閉じた。



 父に優しくされた記憶なんてない。そもそも、幼いときの思い出なんて、ひとつもない。

 覚えているのは誰もいない屋根裏部屋の壁と、方々から向けられる嫌悪の目ばかりである。


「セラクタルタ卿……冷静に話が聞けない状態なら、退室して頂いて構わない」

 全身を縮めたまま、アルラスの声を遠くに聞いていた。

「この件については、また別の機会を設けることとしよう」

 彼が間に立ってくれていることが、ありがたかった。一刻も早く父の重圧から解放されたかった。


 ……でも。

 でも今、ここで父が席を立ってしまえば、もう二度と顔を合わせることはないのだろう。ふとそんな思いが去来して、リンナははたと目を開いた。


「順序が逆だわ」

 気付けば、震え声で答えていた。心臓が今にも喉から飛び出しそうだった。


 リンナは顔を上げると、浅い呼吸を繰り返して父を睨みつけた。

 父の目が、ゆっくりと大きく見開かれる。

 父の顔を真正面から見たのは、これが初めてのような気がした。


「あなたが、私やお母様をいじめたりしなきゃ、私はただ、顔が親に似ていなくて髪が白いだけの、善良な娘だった」


 父は真っ赤な顔で怒鳴り返そうとして、言葉に詰まる。

「博士は、私をフェメリアの再来にしたくてセラクタルタ家の娘を選んだそうです、お父様」

 改めて正面から向き直った父は、記憶の中より小さく見えた。あれほど恐ろしかった拳も、今は決して届かない距離にある。


「フェメリアはかつて領主の娘として生まれ、同じように白い髪を理由に迫害されて、ついには死の呪いを生み出し、家族を全員殺したんですって。博士は同じ条件を再現したかったみたい」

 死の呪いと口走った瞬間に、室内は騒然とした。

 セラクタルタ卿は狼狽を隠しきれない立ち姿でこちらを睨んでいる。

 父に反抗するのも、生まれて初めてのことだった。


「お父様や他の家族に呪いをかけたことは謝ります。でもお父様だって、私のことを化け物呼ばわりする前に、お母様が死にたくなるほど追い詰める前に、するべきことがたくさんあったはずだわ」

 大きく息を吸う前に、臆して視線がふらつく。

 そのとき、アルラスがこちらに向かって、小さく、しかし確かに頷くのが見えた。


 震える足を踏みしめて、リンナは父を敢然と見据えた。

「私とお母様に謝ってください。……私が、死の呪いを作らなかった幸運に感謝して!」


 残響が消えたあとの静寂は、耳に痛いほどだった。リンナは激しく胸を上下させながら、一瞬たりとも父から視線を外さなかった。

 数秒の睨み合いの据え、先に目を逸らしたのはセラクタルタ卿の方だった。


 全員の視線が向けられていることに気付いて、彼は似つかわしくない動揺を見せる。扉の方を窺う素振りに、リンナは「待って」と一喝した。


「娘の晴れ舞台ですよ。最後まで聞いてください」


 糸が切れたように腰を下ろしたセラクタルタ卿を、アルラスが横目で一瞥する。

 軍の重鎮が捕虜に恫喝された場面のはずなのに、なぜか満足そうな態度だった。




「さて、話を戻そう」と、アルラスは片手を上げた。


「その博士というのは、何の目的で不死者の集落を掌握したんだ」

「恐らくは、本国の侵略」

 サリタは間髪入れずに答えた。

 彼の思惑通り、室内は大きなどよめきに包まれる。


「国内では既に呪術を用いた犯罪が数件確認されており、博士の犯行と見られている。敵情視察か」

 アルラスの問いかけに、サリタはゆっくりと頷いた。



「僕達は長年に渡って、不死者への攻撃の停止を要求し続けてきました。博士の所業を見逃せば、今度こそ共存への道が完全に断たれてしまう」


 どうか、彼を止めてください。

 そう告げて、サリタは深々と頭を下げた。



 彼の切実な訴えに反して、参加者たちの反応は冷ややかだった。感動的な演説に同調する素振りはなく、サリタよりむしろ、左右にいる同胞たちの出方が気になるようだった。

 誰もが気にしているのはアルラスの反応だが、彼は腕を組んで沈黙している。



 代わって応えたのはファランだった。

「あなたの協力には、心から感謝します。条件付きではあるものの、あなたの身柄を保護する意思もあります。ですが、あなたの期待に添えるとこの場で断言することはできかねます」


 こちらも普段の友好的な口調とは打って変わって、慎重で控えめな態度だった。

 サリタの眼差しに失望の色がよぎったが、一瞬のことだった。老獪な少年の横顔にはすぐに波のない闘志が浮かぶ。


「どうしてですか?」

 好戦的な問いかけに、ファランは穏やかに語りかける。

「……博士とやらの侵攻を食い止め、国土を守ることは、あなたに言われずとも、元から我々の使命です」

 相手が二百年以上を生きている海千山千と分かっていても、王子の口調には子どもを宥めるような節があった。


「二百年前に端を発する異常事態を解決するため、我が国は多大な犠牲と予算、時間を費やしてきました。周辺各国からも長年にわたる援助を受けています。我々の計画は既に最終段階に入っているんです。不死者の無力化と格納。……ご存知のようですね」

 硬い笑顔を浮かべたサリタを、リンナはこわごわ横目で見た。

 少年の横顔に失望が滲んだ。


 間をおいて、彼は唇を動かさずに呟いた。

「なるほど。あなたがたにとって、僕たちは人間ではなく、捨て方に困ったごみなのですね」

 そのとき、注目を集めないゆっくりとした動作で、アルラスが顔を上げた。


 目線は逸らさないまま、しかし、サリタの全身から、音もなく力が抜けてゆく。

「不死者も生き物なので、子を産みます。今では、本国を知らない不死者が大多数を占めている。彼らにとってあなたがたは同じ人間ではありません。あなたがたの土地も、いつか帰るための場所ではなく、いつか奪い取るための敵地です」


 背筋に冷たいものが走った。初めて不死者たちが暮らす集落へ足を踏み入れたときの、あの疎外感。結局、こちらへ近づいてきたのは子どもたちばかりで、大人の背格好をした者とはほとんど話はできていない。

 サリタの諦念が見え隠れする言葉は、だだっ広い会議室で空振りをした。


 けれどただ一人、アルラスの眼差しには、はっきりとした痛みが迸る。

 リンナは確かにそれを見た。




「――待ってください!」

 咄嗟に大きな声を出していた。

 大きな声を出してから、ばくばくと暴れている心臓に気付いた。


 少しでも距離を詰めたくて、リンナは前のめりになった。拘束具が腹や手に食い込み、痛みを訴える。

「私にひとつ、提案をさせてください」

 数秒前まであんなに気になっていた父の視線が、意識から消えた。他の誰も、目に入っていなかった。

 視界の中心にはアルラスだけがいた。

「何だ」と、彼が応える。


 ひとつ息を吸って、リンナは明瞭に告げた。

「呪術を活用した手段で、不死者の問題を解決できないでしょうか」


 告げた瞬間、アルラスの表情に呆れがよぎった。言いたいことは分かっている。……呪術師のせいでこんな状況に陥っているのに、この期に及んで何を言っているんだ?


「どうして呪術が、道具で代替できないと思いますか?」

 以前にも、アルラスに説いたことがある。あのときと同じように、彼は怪訝な顔でこちらを見ていた。


「呪術は、生物に干渉します。生物は通常、一瞬たりとも同じ状態であることはありえない。同じ肉体を持った呪術師が、同じ呪文を唱えても、結果が全く同じとは限らない。呪術において最も重要なのは、術者の強い思いです」


 届いてほしい。私が重ねた言葉の一端だけでも、あなたに届いてほしいのだ。

 強く祈りながら、リンナは再び口を開く。


「呪術の起源は、ささやかなおまじない、ひとの祈りにあると言われています。なにか叶えたい願いがある。一秒だって逃さずずっと心に留まりつづける思いがある。それを強く念じるから、願いが叶うのです。呪術はその過程の手段として発展したに過ぎない」


 だから、ほんとうに力のある言葉というのは、生半可な呪術をはるかに凌駕しうる。

 私はそれを既に知っている。


 アルラスの眼差しがまっすぐにこちらを射貫き、互いの視線がかたく噛み合うのを感じた。たったそれだけの事実で、胸が打ち震える思いがした。

 いま自分は呪術の起源と同じ場所に立っているのだと思った。

 生物が生物へ影響を与えるために、道理を超えようとしている。


「この世に、人を不幸にするために生まれた技術なんてない。どんな技術だって、本来は、人々のより良い生活のために発展してきたはずです。どんな技術だって、悪用すれば人を殺すことはできる。だから、だからこそ――」

 口の中がからからに乾いていた。



 アルラスがわずかに顎をもたげた。瞬間、トンネルを抜けたように視界がひらけた。

 前に並ぶ人々の姿がみえた。じっと耳を傾けているひとも、胡乱な目つきで腕を組んでいるひとも、薄ら笑いで隣と顔を見合わせているひともいる。

 それでも、全員がこちらの言葉を聞いている。


 リンナは額を振り上げた。

「――私は、呪術で人を救いたいんです!」


 拘束さえなければ、立ち上がって拳を握っていた。リンナはじっと椅子の上に身を沈めたまま、唇を引き結ぶ。


「具体的には、どうやって?」アルラスが端的に問う。

「不死の呪いの解呪を試みます。その研究を行うために、私は違法と知りながら国境線を越えました」

「その甲斐はあったのか?」

「はい」

 リンナは勢い込んで頷いた。

「不死の呪いの分類と、それらの解呪方法について、多くのサンプルを元に検討済です」


 歪み、複雑に絡み合った呪いをたった一言で消し去る呪文など存在しない。

 呪いを逆算し、それらの効果を打ち消すことで、不老不死に見える症状は必ず解消される。


 ただひとつ、気がかりなのは……


 リンナの回答に、アルラスはゆっくりと頷いた。

「なにか問題がありそうな顔だな」と指摘されて、リンナはいちど目を伏せる。


「解呪には、時間がかかることが予想されます」

 呟き、傍らのサリタを一瞥した。


「現在、国外にいる不死者の数は?」

「ざっと四万人といったところでしょうか」


 続けて顔を正面へ戻す。

「既に収容済みの不死者は、どの程度ですか?」

「五体満足で収容されることは稀だから正確には答えかねるが、少なく見積もっても六万人強にのぼる」


 リンナは一度唇をつよく噛んだ。胸を膨らませると、昂然と額を上げる。


「合わせておよそ十万人、不死の呪いをかけられている計算になります。たとえ私が明日にでも不死の呪いを解けるようになったとして、一日ひとりずつ解呪を行ったとしても、二百年以上かかる。そのまえに私の寿命が来ます」


 アルラスの眉間に剣呑な気配が宿った。膨れ上がった警戒に、うなじの毛がびりびりと震える。

「では、自分自身には特例で不死の呪いをかける許可をよこせとでも?」

「いいえ!」

 地響きのような詰問に、リンナは明朗な声音で返した。


 額に光を感じた。胸の奥まで息を吸うと、鼻の奥がひんやりとした。

「呪術師の育成をするんです、閣下」


 頬に笑みを浮かべて、リンナは言い放った。

 一瞬の沈黙ののち、ほうぼうから押し殺した悲鳴が上がる。リンナは微笑みを崩さなかった。


「これから長い年月をかけて不死者問題を解決するためには、もし私が道半ばで死んでも、途中でどんなに状況が変わっても、意志を継いでくれる次の世代が必要です。――それが、人が永遠に生き続けるということです」


 呪術師の教育機関をつくり、全国から適性がある子どもたちを招聘する。それらは必ず国の名の下に、公に行われなければならず、常に外部からの適切な監査を受けなければならない。


「馬鹿な」とアルラスの唇が動いた。

「なにも馬鹿なことじゃありません」とリンナは真正面から応じた。


「どれだけ大それたことを言っているか、分かっているのか?」

「わたくし、非現実的だとはちっとも思ってませんわ、閣下」

 やり取りを交わすうちに、アルラスの瞳に徐々に光が宿る。リンナは胸を高鳴らせながら口を開いた。



「ま……待ってください! 国が呪術師の教育機関を作る!? そんなことに議会が予算を割くはずが――」

 アルラスが取り込まれかけているのを見て、机を叩いたのはファランである。

 この局面になって頼りにならなくなった叔父に向ける目線は、責任感の裏返しだ。


「使える予算も手間もあるはずです、殿下」

 リンナは素早く切り返した。

 それだけ告げて押し黙ると、つり上がっていたファランの眉が徐々に下がる。

「まさか」と、彼は顔を横に向けた。

 窓から遠く見えるのは、二百年近く前に打ち捨てられた土地である。



 声には否応なしに熱がこもる。リンナは三角巾の中でつよく拳を握りしめた。

「国民に『魔獣』の真実を伝えないまま、国境防衛費として計上されている分。数多くの不死者を収容するまでに必要な、莫大な労力。その収容所を維持するため、これから未来永劫にわたって費やし続ける資源。……問題が解消された世界へ向けられる期待と関心!」


 大きく息を吸うと、一同が身構える。

 限界まで張り詰めた空気のなか、リンナは静かに、深々と頭を下げた。


「それらを、どうか、呪術という一つの文化へ、投資していただけないでしょうか。……お願いします」

 しばらくの間、誰一人、息継ぎひとつしなかった。



 ……どんなに言葉を尽くしたって、思い通りにならないことはある。

 奥歯を噛み締め、頭を上げようとしたそのとき、不意に前方から弾けるような笑い声が響いた。

 目を丸くして顔を向けると、アルラスが身を捩って涙を拭っている。


「面白い!」


 呆気にとられるリンナをよそに、彼はゆらりと立ち上がった。口の端を上げたまま指をさす。

「俺は投資家なんだ。突飛な事業案は嫌いじゃない」

 リンナは息を飲んだ。じわじわと喜びが込み上げてくる。


「良かろう、俺が後援する。貴様の言う呪術師の未来とやらを見てみたくなった。もし国の予算が降りなくても不足分は俺が出す」

「叔父上!」

 ファランが掴みかかるが、アルラスは小揺るぎもしなかった。

 挑戦的な眼差しに、かつて向けられていた温かさや親しみはない。けれど紛れもなくアルラスの笑顔だった。


 彼は確信を持った口調で告げる。

「これは勘だが、以前の俺は君に首ったけだったに違いない」

「いいえ、全然。あなたそんなに素直な人じゃないでしょう?」

 冗談めかして答えると、アルラスは降参の姿勢になった。


 ファランはへなへなと腰を下ろし、父は魂が抜けたように固まっている。

 騒然とする会議室で、アルラスだけがのんきに顎を撫でていた。


「じゃあ、まずは手始めに――」

「『五百人くらい呪術師を育成するか』って?」


 先回りしたリンナの顔を、アルラスはまじまじと見た。

 見開かれていた目がゆっくりと細められ、感傷的な苦笑を浮かべる。

「……前にも俺は似たようなことを言っていたか?」

「はい」

 背筋を伸ばして答えながら、リンナは口元だけで微笑んだ。


 人前だと分かっていても、どうしても寂しさを隠しきれなかった。

 記憶を失う前の、三日間のアルラスに思いを馳せる。彼が味わった喪失感は、こんなものではなかったはずだ。


 考え事の内容を知ってか知らずか、「エディリンナ」とアルラスはおどけた口調で呼びかけた。


「君のような才媛と二回も劇的な出会いを経験できるとは、俺は果報者だと思わないか?」


 一拍困惑してから、思わず笑い声が出た。おかしいやら悲しいやらで、また涙が転げ落ちる。

 だってこの人、一度目の出会いと全然態度が違う!


 彼の性格がすっかり矯正されているのが誰の影響かなんて、自明のことだ。

 呪術で彼を操っていたら、こうはならなかったに違いない。

「果報者は私の方だわ」

 小さな声で呟いて、リンナは大袈裟に笑顔を浮かべた。これなら、遠くのアルラスにだって見えるはずだ。

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