32 後編
砦の内部では未だに話し合いが紛糾している。
『門を開けろ』
『しかし、この状況では……』
『想定よりも妨害が多い。横転する前に不死者ごと車両を迎え入れる。迎撃準備を』
抑揚のない指示に対して、『危険です、閣下!』と悲鳴が上がる。
外が見えなくても、事態はおおよそ察せられた。この車は、上にも横にも、下にも不死者たちがしがみついているのだ。
このままでは砦に入ることができない。
『鎮静剤はすぐに用意できるか』
『できますが、あの数の魔獣を完全に制圧できるかは怪しいです』
緊迫したやり取りに、こちらの息が詰まってくる。
リンナはぼんやりと瞬きをした。
(そっか、鎮静剤……)
再生力に優れた不死者が相手では、通常の武器では通用しないだろう。
重い顔を上げた。鼻をすすり上げ、一拍おいて、口を開く。
「……私にやらせてください。身体の損傷が効かない相手の対処は、呪術の範疇だわ」
通信機の向こうの声が、水を打ったように静まった。その場にいるわけでもないのに、刺すような沈黙だった。
エディリンナ、とサリタが袖を掴む。
「国境を越えたことに関しての咎は甘んじて受けますが、国外に出て分かったこともたくさんあります。少なくとも今、この地上に私より優れた呪術師はいません」
少々のはったりに、握りしめた指先が震えた。
「私が不死者を無力化します。便宜を図ってください」
ようやく我に返り、異論の声を上げ始めた背後の面々とは対照的に、アルラスの返答に躊躇の色はなかった。
『これより、車両および不死者を門の二重扉の間に誘い込む。前室はそれほど広くない、不死者は最大でもせいぜい四十人程度だろう。制圧できるか』
「可能だと思います」
言葉尻が震えているのは、聞こえてしまっているだろうか。ナァナの手を強く握りしめながら、リンナは挑むようにスピーカーを睨みつけた。
『信用できるのか』
「行動で示します」
そうか、とアルラスが答えた。
『ならやってみろ』
はいと答える前に、車両は一気に速度を増した。壁に押しつけられながら、リンナは額に手を当てて息を吐く。
「エディリンナ。もう丸一日以上食事を摂っていませんし、一睡もしていません。僕たちはまだしも、あなたはかなり疲弊しているはずです」
サリタが声を潜めた。「問題ないわ」と答えながら、心臓は嫌な脈拍を打っていた。
***
「前門、開門します!」
緊張の隠しきれない上ずった声で、歳若い操作員が告げる。
画面を睨みつけながら、アルラスはゆっくりと唾を飲んだ。
砦の防衛において最も重要となるのは、不死者を内部へ侵入させないことである。
門を開くとは、自ら急所を晒すも同然の行為。忌避感は非常に大きい。
遠隔で操作されている軍用車両が門を通過する。
ほとんど凹凸のない車両にしがみつく者、その足にさらに掴まる者の姿は、磁石に引かれる砂鉄を思わせた。
間髪入れずに前門が閉じる。ぱっと上がった血煙から目を逸らして、アルラスは額に手を当てた。
レイテーク城に緊急の通信が入ったのは、今朝方のことになる。
南部戦線の砦のすぐ近くに、投降を求める様子の人間が三名ほど確認された。
うち一人は少年、一人は異形不死者、そしてもう一人が、つい昨日の作戦が壊滅するに至った原因とされる女――セラクタルタ家の長女、エディリンナとみられる。
この三人を砦内に入れるか否かで、軍部の意見は真っ二つに分かれた。
年の功で南部戦線の特別顧問に置かれている身だが、今回は自ら発言を慎んだ。
エディリンナという女は、どうやら自分の妻らしい。そして自分はそれを覚えていない。
明らかに自分は彼女による呪術の影響下にあり、かつ身内である。正当な判断を下せるかは怪しい。
同様の理由で、父であるセラクタルタ卿にも発言権は与えられなかった。もっとも、本人は父ではないと強弁している。懲罰房で状況を聞いた三男のティメリトは大変なショックを受けているという。
半日にわたる会議のすえ、十分な警戒のうえで三人を収容することが決定した。
相手が呪術師であることから、人間を初めとしたすべての生物を近づけさせないことを提言し、自分は後ろで静観に徹することを決めた。
そのつもりだった。
管制室から双眼鏡を覗き込んで、草むらのなかに座り込む女の姿を見るまでは、そう思っていた。
最初に目を引くのは、長い黒髪の不死者である。体の各部位が異常に増殖し、長い胴に多すぎる腕が生えている。顔までははっきりと窺えないが、女だろう。
同じ特徴を持つ不死者には心当たりがあった。記憶よりも腕が増えているのを見て取って、アルラスは陰惨な気分になる。
どうやら風が冷たいらしい。蛇のようにとぐろを巻いた不死者の懐で暖を取っている小柄な女が見えた瞬間、心臓が妙な跳ね方をした。
膝を抱え、彼女はじっとこちらを見据えていた。
目が合った、と思った。冷静になってみれば、肉眼でこちらの様子が見えるわけもないのに。
気がつけば、司令官をも押しのけて操縦桿を握っていた。
静観するだのと言っていたのに、このざまだ。恥ずかしい限りだが、開発車である自分より装甲車の操作に長けた者がいるとも思えない。
熱に浮かされたようだった。
三人を格納した車両が近づいてくるのを睨みつけながら、相反する感情が常に激しく渦巻いていた。
あの女は、国の命運をかけた作戦を、いとも容易く壊滅に追い込んだ。戦車の供与に際してどれほどの時間をかけ、無理を通したことか。
それを、あっさりと出鼻をくじいた張本人が、のこのこと出頭ときた。
絶対に信じてはならない女を、こんなにも信じたい。明らかに異常な精神状態だったが、どこか意識の隅で確信もあった。
俺は、間違っていない。
砦の構造は至って単純である。背の高い壁が国境線沿いに立ち上がり、その背後に関連施設が並んでいる。防壁に設けられた通用口は二重扉であり、やむを得ず開門する場合は、前室ですべての敵を制圧できる条件が必須となる。
入国者三人を腹に抱えた装甲車が、前室で沈黙した。
前室には車両が一台、そして残りの空間を不死者の群れが埋め尽くしている。
本来なら、一斉射撃や各種薬剤によって無力化を試みる場面である。危険が伴う作業であり、物資を出し惜しみする訳にはいかない水際だった。
一度、門を開閉するだけ。それだけのことに、恐ろしいほどの注意と時間と金を要するのが、この国の国境防衛という代物だった。
(それが、本当に、あの女ひとりで何とかなるのか)
誰もが固唾を飲んで、前室の様子を注視していた。
不死者たちは砦内へ続く扉に向かってしがみつき、拳や簡単な武器でもって攻撃を繰り返している。その表情や一挙一動までもがありありと窺え、アルラスは暗惨たる気分になった。
ただ愉快で戦っているのではない。彼らはただ、真っ当な人間としての権利を要求しているに過ぎない。
(……それは分かっている)
同じ立場なのに、どうして俺だけがこちらにいるんだろう?
考えるほどに自己嫌悪で死にたくなった。
「閣下。エディリンナを信用してはいけません。あれは、およそ人間の情緒というものを持ち合わせない化け物です」
なおも背後で言い募るセラクタルタ卿を黙殺し、アルラスは腰を浮かせた。
管制室を出て、足早に門の方向へ向かう。
昇降機から降りてすぐに、ぴったりと閉ざされた門扉が見えた。
管制室と同様に、前室の状況が画面に大写しになっている。しかし、そんな映像などなくとも、扉一枚隔てた向こうの状況はよく分かった。
絶え間なく続く殴打の衝撃音と、いくつもの叫び声がくぐもって聞こえる。
あの向こうに、いかなる攻撃もほとんど通用しない『魔獣』が詰め込まれている。
銃を携えて門扉を取り囲む兵士たちは、皆一様に青ざめ、緊張を隠しきれない様子だった。
「あなたは騙されているんです! 私の話を――」
追って来たセラクタルタ卿が、大きな声を出して手を伸ばし、アルラスの肩を掴もうとする。
その瞬間、全ての音が止んだ。
弾かれたように画面を振り返る。映像が止まったように見えたが、違った。
扉を破ろうとしていた不死者が動きを止め、地面へと転がる。
壁を殴ろうと振り上げた腕が、その形のまま石像のように固まり、均衡を失って仰向けに倒れるのを、アルラスは呆然と見つめていた。
まるで顔色の精彩さえ欠いたように思えた。
我に返ったときには、もはや画面内に動くものは何もなかった。
『車の扉を開けてください』
平坦な声が告げる。
開けてやれ、とアルラスは掠れた声で指示した。ややあって、滑らかな動きで装甲車が口を開ける。
億劫そうに姿を現したのは、可愛い顔をした若い女だった。乱れた白髪を手櫛で直しながら、眩しそうに目を細めて車から降りてくる。
次いで、同じく白髪の少年と異形不死者が顔を出す。全員揃って髪や衣服がもみくちゃになっており、装甲車の劣悪な乗り心地が窺える。
堂々と前室を横切り、三人は並んで扉の前に立った。
その間、足元に転がった不死者たちは身じろぎ一つしなかった。
「化け物だ」とセラクタルタ卿が呟き、その場にへたり込む。
アルラスは大きく両目を見開いたまま、凍り付いたように立ち尽くした。
「構えさせなさい」
呟くと、指揮官が手を挙げて合図を出す。待機していた兵は一斉に銃口を門に向けた。
物々しい警戒態勢のなか、扉が開く。扉を中心に、大きな半径で包囲網が築かれている。
その更に背後に立って、アルラスは目を眇めた。
扉が開いた瞬間、熱気と砂煙が押し寄せる。
人ひとりが辛うじて通れる幅から、人影が静かに進み出る。三人が門を通過すると、扉は音を立てて再び閉じた。
視界を遮る砂埃が流れ去ると、一同の喉から堪えきれなかったような悲鳴が漏れた。
見上げるように背が高い女である。長い黒髪が垂れ幕のように顔に影を落とし、多足類のような手足はいかにも恐ろしく見えた。
「……不死者コロニー内の分裂により離反しました。身柄の保護と、講和に向けた話し合いを要求します」
声変わり前の少年の声が、静まり返った砦に朗々と響く。
先頭に立つのは最も小柄な少年だった。
その背後で両手を上げたまま、白髪の女が目だけで左右を窺っている。
落窪んだ目と、血の気の失せた頬や唇。遠目には分からなかったが、ひどく憔悴した姿をしていた。
(随分痩せた)
咄嗟に思い浮かんだ感想を振り払う。
「僕たちの持っている情報は全て教えます。ですから……」
少年の声が、ふと耳に入ってこなくなった。
聞こえなくなってから、原因が分かる。
飴玉のように丸くて艶のある瞳だった。それがこちらを向いていた。
視線がかち合った瞬間、エディリンナが目を見張る。唇が薄く開く。
彼女は思わずといったように足を踏み出した。
一歩目が地面に着くより先に、包囲していた兵が一斉に殺気立つ。彼女は鞭で打たれたようにびくりと動きを止めると、こちらをじっと見た。
「閣下」
小さな声なのに、呼びかけははっきりと聞こえた。
リンナが微笑む。
「ただいま」
言い終えるか終えないかのうちに、ふっとその目の焦点が合わなくなる。
顎が上がり、小さな体が、膝から崩れるように地面へ倒れるのを、アルラスは遠くからただ見ていた。
細い腕はぴくりともせずに投げ出されている。
「……リンナ!」
気がついたときには駆け出していた。三歩進んだところで、腕を取られてつんのめる。
「駄目です、閣下!」
見れば、四人ほどの兵がしがみつき、必死に首を横に振っていた。彼らを乱暴に振り切るわけにもいかず、アルラスは顔を歪める。
威嚇射撃をものともせず、長い胴の不死者が体を折り、リンナをゆっくりと抱き起こした。
いくつもの腕で、まるで赤子でも抱くようにリンナを丸く包み込むと、軽く頭を振って髪を払う。
皮肉なほど目を引く顔立ちをしていた。まだ成人していないような少女の顔に、毒気を抜かれたような呻き声がいくつか漏れる。
「医師を呼んでください。リンナさんは、呪術が使えるだけの、ただの人なんです」
知ったような口を聞きやがって、と苛立つ自分がどこかにいた。そのことにアルラスは驚いた。
リンナは驚くほど遠くにいた。
呪術師に相対するときは、決して、呪術が届く半径に入ってはならない。鉄則中の鉄則だ。
大した距離ではない。銃弾なら確実に当たる距離だ。会話をするのにも支障はない。内緒話は難しい。
たったそれだけの距離が、今はまるで地の果てのように感じられた。原因も分からないのに、胸を掻きむしりたくなるような渇望感があった。
こうなると認めざるを得なかった。
どうやらあの女は、本来なら自分の大切な人だったらしい。
 




