26 砦のさき
高らかに汽笛を鳴らして、列車が駅へと滑り込んだ。扉が開くと同時に、ホームへ降り立つ。
ほかに汽車から降りた旅客は多くない。大小の荷物を携えて、摩耗して時おり剥がれたタイルの上を歩いてゆく。
まばらな人影を眺めながら、リンナはサイズの合わない上着の袖をまくった。
レイテーク城を飛び出し、旧都からいくつもの汽車を乗り継ぎ、ひたすら南下すること早半月余り。検問を避けるため、途中、馬車や徒歩も使ったため、余計に時間がかかっている。
けっきょく、23番と名乗った彼女とは合流できなかった。追っ手を避けて潜伏しているのだろうか、それとも軍に捕まってしまっただろうか?
なんどか新聞も確認したが、自分のことが大っぴらに報道されていることはなかった。しかし、軍の内部では既に情報が共有されているはずだ。
(人目を避けなきゃ……)
顎の高さで切り揃えた茶髪が、乾いた風に吹かれて揺れる。目深に被った帽子のつばを引き下ろして、リンナは大股で改札へ向かった。
駅を出れば、視界を遮るもののない大きな広場がある。
駅前には小さな商店が看板を出しているのみで、あとはごく普通の民家が並ぶ住宅街である。一方で、駅を出て真正面に延びる目抜き通りは幅が広く、いかにも頑丈な舗装が敷かれていた。
理由は単純である。ここは南部戦線のお膝元。この駅と道は、軍用に造られたもの。
道中で地図を確認した。この周辺に大きな街はなく、広大な牧草地に畜産家が点在しているのみである。
目的地は、そのうちの一つ。
その畜産家が牛を放牧している区域は、国境の砦が途切れた先にある。背の高い壁のない国境は、等間隔に設置された杭で結界が貼られたのみである。
(結界は、物体の出入りを制限するものではない)
これでも砦を守るセラクタルタ家で育ったのである。国境警備の仕組みはおおよそ知っている。砦は『魔獣』の出現が多い地点に築かれ、ほとんどの国境線は単なる監視用だ。
(国境を横切る物体の大きさと温度を検知し、中央に情報を集約する。異常を感知すれば、結界は物理的な障壁に即時切り替わり、その日のうちに国境警備隊が確認しにくる。検知する高さは、およそ建物三階分)
頭上を、猛禽が翼を広げて横切ってゆく。黒々とした影が、青空を裂いて見えなくなるのを、リンナは目を細めて見送った。
(どうやって、この国境を越えるつもりなのだろう)
23番に伝えられたとおり、駅前の広場を右に曲がった先の倉庫脇で待つ。毎日同じ時間に、とある畜産家がこの場所へ訪れるのだという。
歩道脇の柵に浅く腰かけると、リンナは帽子のうえから更にフードを被った。こうして道端で待っていても、人通りはまるでない。家々からも、あまり人の気配はしない。もしかしたら、空き家も混じっているのかもしれない。
駅から大通りが向かう先を見やる。南部戦線の砦は遠く、影すら見えないが、家々の隙間には背の高い見張り台が設置されている。
(この二十年余りで、戦線は五度に渡って後退している。そのたびに砦を放棄し、背後に新たに築いた砦へと移る)
今いるこの町も、このままではいずれ放棄することになるのだろうか。
23番の言を信じれば、砦の向こうにいるのは、不死の呪いによって作り出された被検体なのだという。
(閣下と同じ、どれだけ殺しても死なないひとたち)
いや、不死の呪いを再現するのに、最初から人を使って実験はしない。
(たとえば、不死のハエ、不死のマウス、モルモット、不死の犬や猫、不死の大型動物、不死の――人間)
そういう存在が、壁一枚を隔てた向こうにいるのだ。
どれだけの銃弾を撃ち込んでも死なない生き物を、どうやって退けるというのだろう?
どこまでいっても終わらない戦いじゃないか。だからこうして、二百年ものあいだ続いているのではないか。
途方もなさに、リンナは天を仰いだ。
遠くから、車輪の音が近づいてくる。はっと息を飲んで、リンナは視線を戻した。
ゆるい上り坂を、大きな荷台付きの馬車がこちらへ向かってきていた。あれだと直感して、リンナは勢いをつけて柵から降りる。
御者台で男が顔を上げるのが見えた。が、すぐに顔を背ける。まるで、見てはならないものを避けようとする仕草だった。
フードを下ろして、肩から落ちた上着を手で直す。背筋を正して馬車を待ち受けていると、御者台の男は観念したように横目でこちらを見た。四十がらみで、着古した作業着姿の中年男だ。無精髭を手のひらで撫でながら、目を細める。
すれ違いざま、馬車が速度を緩めた。「こんにちは」と愛想良く声をかけると、男は曖昧に頷いた。
男はそれ以上なにも言わず、もう少し進んで、倉庫の目の前で馬車を止めた。御者台を降りて馬を繋ぐと、荷台に回る。胸の高さほどもあるタンクを両手で持ち上げ、歩道に下ろすと、次々に倉庫へと運び込む。
リンナは道端に立ったまま、遠巻きにその様子を眺めていた。
男は倉庫から出てくると、軽そうな素振りでタンクを荷台へと積み直す。それから馬に合図を出して、転回するとこちらへ戻ってきた。示し合わせたわけでもないのに、目の前でぴたりと馬車が止まる。
「牛乳ですか?」
もう一度、明るい声で話しかけると、男は困惑したように瞬きを繰り返した。にこりと微笑みかけると、ごくごく潜めた声で「はやく乗ってくれないか」と険しい顔をする。
すぐに合点して、リンナは御者台に飛び乗った。すると、男はぎょっとしたように仰け反った。
「どうしました?」
「……いつもは、荷台だろう」
「あら」
リンナはミルク缶でいっぱいの荷台を振り返った。普段なら、あの隙間に潜り込むということ? 乗り心地は良くなさそうだ。
「私がこちらに乗ったんじゃ、都合が悪いかしら?」
男はすっかり困り果てたように黙り込んでしまった。気味悪げにこちらを一瞥し、渋々手綱を握り直す。音を立てて馬車が走り出し、なだらかな下り坂を通って町の外へ出る。
町の影が見えなくなり、行く手にどこまでも続く草原をゆく。
あまり話しかけてはいけなかったみたいだ。リンナは口を噤んで、景色を眺めたり伸びた爪を見下ろしたりしながら、馬車が目的地へ到着するのを待っていた。
気詰まりな空気に限界を迎えたのは、男が先だった。
「いつもと、雰囲気が違う」
「ん?」
「愛想が良い。発音も、どこかのお嬢みたいだ」
ああ、とリンナは斜め上を見る。どうやら、リンナたちの事情については知らないらしい。
「どこまで、ご存知なんですか?」
「……いつも詮索するなと釘を刺すのは、そちらの方だろう」
男は怯えたように、こちらの出方を窺いながら答えた。
「俺たちは、爺さんの時代からずっと、言われたとおりにしているだけだ。何も知らない」
「ふぅん?」
リンナは膝に頬杖をついて男の顔を覗き込む。決して目を合わせまいとするように、男はそっぽを向いた。
爺さんの代からということは、きっとリンナと同じ顔をした女を複数人みたことがあるはずだ。こちらがただの人間ではないことも察しているだろう。
男はため息をついて吐き捨てた。
「とにかく、いつものように国境を越えてくれていいから、うちの子どもには決して近づかないでくれ」
「国境を越えて良いの?」
「牛をたくさん放し飼いにしていれば、うっかり境界線を越えちまうことくらいあるだろう。うちの牧草地帯では、特例で物理障壁が作動しないようになっている」
なるほど、とリンナは合点して頷いた。人の居住地と魔獣の棲む秘境の境界は、案外ゆるいらしい。
拍子抜けして、リンナは唇を尖らせる。国境警備だとかいって、これじゃ脱走も侵入もし放題じゃない。
「言っておくが、うちみたいに特例が認められている家は、抜き打ちで軍が調査に来る。もしバレたら匿ってはやれないからな」
わ、と声を上げて、リンナは首を竦めた。ちゃんと監視はしているらしい。
分かりました、と物わかりの良い笑顔で頷いて、リンナは左手に併走する壁を見つめていた。それからずっと、沈黙が続いた。お互いに、深入りしない方が良いと分かっていた。
どれほど進んだか、遠い地平線の上に平たい厩舎が乗っているのが見えた。指をさして「あれですか」と男の横顔を窺った瞬間、男の顔色が変わった。
「伏せろ!」と大きな声を上げて、片手でリンナを座面の上に押し倒す。リンナは咄嗟に両手をついて座面へ頬をつけた。どきどきと心臓が嫌な音を立てる。
「どうしたんですか」
「軍の自動車が家の前に停まっている」
男は呻いて、リンナの頭をなお一層下へと押し込んだ。
「見えないように、そっと荷台へ移動してくれ」
言われるがままに、リンナは限界まで身を低くしたまま後ろへ下がる。転げるように荷台へと降りれば、ミルク缶に強く背を打ち付けた。小さく呻いて、痛みを感じないよう呪文を唱えた。
「家に着いたらすぐに馬車を倉庫へ入れる。俺が軍人の対応をしているうちに、勝手に裏口から出て行ってくれ」
はい、と頷くしかできなかった。リンナは荷台に畳んで置かれていた帆布を広げると、その下に蹲って息を殺す。
いざとなれば、呪術でどうとでもなる。なるけれど、使いたくない。
否が応にも馬車は進んでゆく。鼓動は早まり、手のひらがじっとりと汗ばんでゆく。
馬車が止まる。「どうされました」と、御者台で声がする。
「どうも!」
明るく歯切れの良い声が応える。
「見回りに来ました。この付近で、何度か生き物が国境を出入りした形跡があったもので。なにか不審なことはありませんか?」
帆布を被ったまま、リンナはそっと外の様子を窺う。二人分の長靴が、ミルク缶の隙間から見えた。
動きのない方の一人は、制服が真新しいように思える。話しているのが上官で、もう一人は新米の補佐といったところだろうか?
「ああ……うちの牛が勝手に柵を出ちまうんです。ご迷惑をおかけしてすみません、きちんと全頭回収しております」
「いえいえ! 家畜はどうしようもないですよね」
見回りに来た軍人のはずなのに、思いのほか愛想の良い対応である。定期的な調査で、慣れた相手なのだろう。
大丈夫そう、と詰めていた息を吐く。直後、不自然な沈黙が落ちた。
「でもね――出入りした質量の足し引きが合わないんですよ。ちょうど、小柄な人間ひとり分くらいかな?」
静かな水面に石を落としたように、その声は緊張感を持っていた。
「なにか、心当たり、ありませんか?)
(あの子……23番だ)
両手で口を覆って、リンナは耳を澄ませる。
「ほう」と、畜産家の男はそれだけ答えた。しばらく黙ってから、白々しく続ける。
「それは気がかりですね。ヤギ泥棒かな」
まずい、とリンナは目を見張った。「え?」と軍人がすばやく食いつく。
「それでは、あなたは、国境の向こうに人が住んでいるとお思いなんですか?」
罠だ。わざと引っかけたのだ。
唇を噛みしめて、リンナは更に胸を荷台の床へ寄せた。
「申し訳ありませんが、一旦馬車を停めてきてもいいですか。話はそのあと伺います」
「はい、もちろんですよ。ただ念のため、荷物のほうだけ確認させていただいてもいいですかね?」
音は聞こえないが、御者台で男は動揺したのだろう。
「確認してきなさい」と合図があって、こちらへ足音が近づいてくる。
御者台で身じろぎの音がした。「いや、別に怪しいものは何も」と言い繕う。
「見ない顔ですね。新しい人ですか?」
「はい、もうじき騎士学校を卒業して、南の国境警備部隊に配属されるエリートですよ。今は研修でね」
必死に話を逸らそうとしているのを、リンナはぼんやりと聞いていた。
……どうする? どうする、このままでは、あっさりと見つかってしまう。見つかってしまえば軍部に連行され、逃げ出す前に逆戻り。こうなったらアルラスはもう金輪際リンナの言い分を聞こうとはしないはずだ。
足音が、傍らで止まる。空のミルク缶に手が触れる音。荷台が揺れて軋む音。
(見つかるわけには、いかない)
手の形をした影が伸びる。
いちど深く身を沈めて、リンナは一息で布を押しのけて飛び上がった。
荷台を飛び降り、目の前にいた軍人を地面に押し倒すと、御者台の近くで銃を抜こうとした軍人に指をさす。
『硬直』
短く唱えた瞬間、腰の銃に手を当てたまま軍人は動かなくなった。一拍おいて、地面に横倒しになる。
馬乗りになった軍人に向かって、同じ呪文を唱える。体の下で藻掻いていた若い軍人が、ぴたりと動きを止める。
その顔を見た瞬間、リンナの息も止まった。
「姉さん……?」
震える声で呟いた青年の顔を、リンナは呆然と見下ろす。
胸を上下させたまま、訳も分からずにその肩に触れた。張りがあって、新品の制服。
目の前にいるのは、紛れもなく自分の弟である。「ティム」と声が漏れる。
どうしようと考える思考が、空回りして収束しない。
「……希望通りの配属になったのね。おめでとう」
咄嗟に、そんな場違いな言葉が出た。
南部戦線へ行きたいのだと、以前に言っていた。めでたく国境警備部隊への配属が決まったらしい。
(一番会っちゃいけないタイミングだわ)
リンナは内心で歯噛みした。国境越え以外なら、いついかなるときでも嬉しいのだけれど……。
「セラクタルタ! 知り合いか!?」
硬直の呪いは、あくまで四肢を封じるだけのものである。倒れたままこちらを向いて叫んだ上官に、ティムが目に見えて狼狽えた。
リンナはゆっくりと片腕をもたげる。指先をひたりと据えられて、軍人は怯えたようにかぶりを振った。
どうしよう? 口封じをする方法ならいくらでもある。唇を薄く開く。かぼそい悲鳴が、男の喉から漏れる。
「エディリンナ」と、風に乗って呼び声が聞こえたのはそのときだった。
振り返る。頬にかかった髪を片手で耳にかけ、柵の向こう――魔獣の棲む土地を見た。
白い髪をした少年が、腰ほどもある草原の中で、静かにこちらを見ていた。視線を動かせば、まるで一定の距離を取るように、人影が転々と佇んでいる。
(いつの間に……)
ざわりと風が大地を撫でてゆく。
「こちらへ、エディリンナ」
若い女が、手を差し伸べる。
「お待ちしていました」
少女が微笑む。
ようやくそこで、リンナは違和感に気付いた。柵の向こうにいる人間は、十人を超えている。髪色や服装、体型はさまざまだが、全員が若い。最も年上でも、リンナとさして変わらない。
そのなかに、白髪が五、六人。リンナと同じ髪の色をした人間がいる。
伝承によれば、『白い髪の子どもは災いを招く』らしい。当たり前だ。両親のどちらとも異なる髪色をしてきては、家庭内に不和を招いて当然だ。
「どうぞ、こちらへ」
白髪の少年が、小指に口づける。吸い寄せられるように、腰を浮かせていた。行かなきゃ――と、もやのかかった思考で手を伸ばす。
「駄目だ、姉さん!」
つよく腕を掴まれて、リンナは我に返った。怖い顔をして、ティムがこちらを見上げていた。
小指に唇を寄せたまま、少年の目が細められる。魅了の呪いだ。リンナは鼻に皺を寄せると、「やめてちょうだい」と指を鳴らす。
優しくティムの手を振り払い、リンナは地面に手をついて立ち上がった。硬直が解けるのが、思ったより早い。呪いがかかりきらなかった。ふらりと頭が揺れた。疲労が溜まっているのだ。
目の前が眩む。
銃声が幾重にも響く。弾かれたように振り返る。ティムの上官が、既に立ち上がって銃を構えていた。
柵の向こうで、赤い飛沫がぱっと散る。弾丸が命中して、先頭にいた少年が仰向けに倒れる。けれどすぐに起き上がる。
何度撃っても、どこを撃っても、立ち上がる。決して死なない。
(これが、私たちが魔獣と呼んで、遠ざけてきたものの正体……)
「はは」と、まだ年端もいかない少年の声が笑う。老獪な、いじわるな響きのある笑い声だった。
その光景を、リンナはぼんやりと眺めていた。
『我々は、二百年前に生み出された不死の呪いの被検体、あるいはその子孫です』
同じ顔をした少女が語る声が蘇る。
当時、王家は不死の呪いの存在を消し去るため、彼らの先祖を辺境の荒野へと追いやった。居住区との間に砦を築き上げ、以来百年以上もの間、戦闘が続いているのだ。
くさはらの中に倒れては、再び立ち上がる。全身を血にまみれて、それでも真っ直ぐにこちらを見ている。ティムが声を漏らす。視線を向ければ、その表情には怯えが浮かんでいた。
リンナは緩慢な動きで頭をもたげ、国境線の先を見据えた。
「エディリンナ」
彼らは自分に向かって手を伸ばしている。なんど体を撃ち抜かれようと、視線を逸らさない。
胸の中で鼓動が早まってゆくのを感じていた。食い入るように、リンナは彼らの様子を見つめる。
(閣下の不死の呪いに似ているけど、どこか違う)
回復が遅い。あるいは、完全には治りきらない。
「傷の治りを早める呪術は、はじめに傷口を覆うように皮膚が再生するけれど、これは違う……まるで内側から押し出されるみたい」
ぶつぶつと呟くリンナを、ティムが呆然と見上げていた。尻餅をついたまま、縋るように裾を掴む。
弟はいつだって、リンナの手を引いてくれる存在だった。年下のはずなのに、いつも頼ってばかりだった。
こんな弱々しい顔をした弟は初めて見た。
「ティム」
優しく声をかけて、手を離させる。
ティムへ微笑んだまま、リンナは指を打つ。視界の隅で、軍人と畜産家が崩れ落ちた。数分もすればまた目が覚めるはずだ。
「ティム」
もう一度呼んだ。今度は、姉さんとか細い声が返ってきた。
「……何を、するつもり」
額に指先を当てられて、彼は奮い起こしたように強い声を出す。けれどその言葉尻に、不安げに垂れた眉の端に、可愛らしさを見出してしまうのだ。リンナはくすりと笑う。
「向こうへ用事があるの。あなたは止めようとするだろうけど、私、戻らないわ」
「お義兄さんはどうしたの」
「ちゃんと説明したわよ」
手紙を残しておいたので完璧である。
そんな問答をしながら、リンナは頭の片隅で焦っていた。
忘却、と、たったそれだけの呪文が、喉でつかえて出てこない。
忘れさせてしまえば簡単だ。言いなりにしてしまえば一瞬だ。
でも、それができない。
『ひとの心を、知らないうちに操るような真似を、もう二度としないで欲しい』
なにひとつ視界を遮るもののない、一面の草原に立っているというのに、手を伸ばせばアルラスに届くような気がした。
『君は、呪術を私利私欲のために悪用するような人間ではない』
乾いた風に頬を吹かれているのに、目を閉じれば、あの湿りに湿ったレイテーク城にいるみたいだった。
世の中には、言葉を尽くさなければいけない場面がある。呪術に逃げてはならない場面がある。
そう言い聞かせてくれたひとがいる。
いちど頭を左右に振ると、リンナは明るい声を出した。
「ティム。私が帰ってくるまで、ここで見たことを、誰にも言わずにいてくれる?」
約束して、と手を握る。ティムはただ呆然と首を横に振るばかりだった。
「何をしに行くの」
「死の呪いを作るために行くの」
笑顔で答える。言い終えた瞬間、ティムの顔色がさっと変わるのを見た。
「分かってる。もし完成しても、すべては私の胸ひとつにしまっておくわ。決して流出させない」
弟の頬を撫で、リンナは『硬直』と改めて囁いた。首を伸ばして、ティムは顔を歪めた。
「どうして姉さんが死の呪いを」
「だって頼まれちゃったんだもの」
今思えば、特大の口説き文句だった――俺のために死の呪いを作ってくれないか。
手を緩めれば、手のひらからするりと弟の指先が落ちてゆく。リンナは帽子を取ると、片手の指を組み合わせて印を結んだ。
『真実を顕せ』
毛先に向かって、髪の色が抜ける。ティムの両目が、おおきく見開かれる。
真っ白な髪をそよがせて、リンナは微笑んだ。
「必要とする人がいるなら、それで世の中が良い方向に変わる可能性があるなら、私は努力を惜しみたくない」
どんな技術も、人々の生活をより良くするために発展してきたはずなのだ。
「私は、呪術でひとを救いたい」
天を仰いで、リンナは数秒かけて涙を堪えた。
「……私は、呪術を使うために生まれてきた」
だから行ってくるのだと、声を震わせずに言い切る。
ティムはかぶりを振って聞いていた。
「おれはやだよ、姉さんが向こうに行くなんて、絶対……」
「ありがとう」
それだけ言って、リンナはきっぱりと弟へ背を向けた。弟がこのことを通報するなら、それはそれで構わないと思った。
可哀想なことをしたな、と後悔が頭の隅をよぎる。忘却をかけなかったから、ティムはこの先ずっと思い悩むことになるだろう。
「一年以内に、ぜったい戻ってくるから……だから、心配しないでね!」
杭と杭の間で振り返って、大きく手を振る。ティムがなにかを叫んでいる。リンナはもう返事をしなかった。
「体調には気をつけるのよ!」
大きく息を吸うと、勢いよく一歩を踏み出す。
そうしてリンナは国境を越えた。
 




