16 後編
温風が頭を撫でる。初めはくすぐったかったのに、慣れると気持ちがよくて、何だかふわふわとしてくる。魔術で起こした風で髪を乾かすなんて、発想すらなかった。
「魔術って、便利ですね」
あくびを噛み殺したリンナの背後で、アルラスがわざとらしく渋い口調になった。
「うっかり真似しようとするんじゃないぞ。慣れない人間がやると暴風で根こそぎ持っていかれる可能性もある」
「やらないですよぉ、私、魔術の才能ゼロですもん」
あふ、と堪えきれずにあくびをして、リンナは重い瞼を上下させる。
眠気に抗おうとするが、大きな手が髪をかき混ぜるたびに目が開かなくなってくるのだ。うとうとと舟をこぎ始めたリンナを覗き込んで、アルラスが笑ったのが聞こえた。
「どうする、自分の部屋まで戻るか」
「うん……」
頷きはするものの、とてもではないがベッドから立ち上がって廊下を歩いて行ける自信はない。アルラスは一向に動こうとしないリンナを一度抱き上げようとしたが、やめたらしい。
「君の弟に別室行きを見つかったら面倒だからな……」
髪を乾かしていた風が弱まり、止まる。肩を押されて、促されるがままに体が傾いた。
頭を支えられながらそっと枕に横たえられ、ますます体から力が抜けてゆく。
立ち上がったアルラスが、潜めた声で囁く。
「朝になったら起こしてやるから、早く寝なさい」
瞼ごしに、照明が絞られたのが分かった。けれど彼の気配は遠ざかることなく、ずっと枕元に佇んでいる。
目を開いて何の用だと問いただす元気もなくて、視線を感じたまま微睡んでいた。
かち、こちと、柱時計で振り子が揺れている。風が建物の隙間を吹き抜けて、唸りを上げる。
「なあ、リンナ――」
もう完全に眠ったと思ったか、アルラスは掠れた声で囁いた。
「――呪術研究は、君の命を削ってまで、急がなければならないものなのか?」
短い一言に責めるようなニュアンスがあった。リンナにはそれが理不尽なものに思えてならなかった。
(……あなたが、私に、死の呪いを作れって言ったんじゃない)
あなたが、置いて行かれるのが怖いって、寂しいって言うから、私にできるやり方であなたを助けようとしただけなのに。
あなたが、期待してるって、言ってくれたから。
(私が、ちっとも死の呪いに近づけなかったら、あなたに失望されると思ったから、)
雨が降り始めたらしい。森の中に降った雨が、遠くでさあさあと音を立てている。
アルラスの声が響く。
「俺は、君がどうしてそんなに呪術に取り憑かれているのかを、知りたい」
ゆっくりと、大きな手が規則的に頭を撫でた。その手が頬に触れて、リンナは細く目を開ける。
視線が重なる。彼は暗い部屋のなかで、じっとこちらを見下ろしていた。
「君のことが知りたい」
頬を優しく撫で下ろして、彼は静かに瞬きをした。リンナは緩慢な動きで、上を向いていた顔を横に倒す。
こちらに降り注ぐ眼差しに耐えられなかった。
だって……と、声にならない呟きが唇をなぞる。
「……呪術がないと、誰も、私を好きになってくれないんだもの」
舌足らずに呟くと、暗い部屋の中でアルラスが目を見張ったのが分かった。
ふ、と息を漏らして自嘲する。
だから、買いかぶりすぎだと言ったのだ。人のために呪術を発展させたいとか、呪術を認めてほしいとか、そんなの嘘っぱちだ。
頭を撫でる手が止まった。遠くで雨が降っている。
「リンナ」
呼ばれて、寝ぼけまなこで瞬きをする。
「……自分でも、分かっているんだろう? 自分で認めないから変なことになるんだ。前に君が俺に言ったことと、丸きり同じだぞ」
何のこと、とリンナはぼんやりとアルラスの顔を見上げた。彼は一瞬たりとも視線を逸らさずに、こちらを見下ろしている。
彼の唇が動く。
「君がもし呪術なんて使えなくても、俺は君のことが好きだよ」
その言葉の意味を理解するより先に、目尻からぽろりと涙が零れていた。咄嗟にかぶりを振る。
「嘘です」
強い口調で告げたのに、アルラスは「嘘なわけあるか」と呆れ顔になる。
(どうしよう、)
凍り付いたように体が動かない。
絶望しながら、震える唇で囁く。
「まさか私、知らないあいだに閣下に魅了の呪いをかけてしまったの?」
だって、そうでもなきゃ、彼がこんなことを言うはずがない。呪いをかけていないのに、私を好きになってくれるひとなんて、ティムのほかにいるはずが……。
アルラスの言葉を信じたいのに、腹の底でなにかがずっと喚くのだ。――そんな言葉、信じられるはずがない。
「そう思うなら、今すぐここで解呪を試みなさい」
背に手を差し入れて強く抱き起こされ、リンナは震える手をそっと口元に寄せた。小指に口づける、たったそれだけの動きが、魅了の呪いを解く方法である。
それなのに、できない。
「いやです」
涙ながらにふるふると首を横に動かすリンナを、アルラスはずっと黙って見守っていた。
「大丈夫だから、やりなさい。このままでは君も釈然としないだろう」
「やなんです、怖いの」
全身を震わせて泣きじゃくる。駄々をこねる子どものように否定を繰り返しても、彼は少しも動じないようだった。
「俺の、君に対する感情は、今に至るまでずっと地続きだ。君は俺に呪いなんてかけていない。魅了の呪いにかかっていたら、どこかで齟齬が生じるはずだろう」
「生じないんです。心を操っても、記憶を補間してしまえば、呪いにかかった側は気づけないんです」
両手で顔を覆い、リンナは嗚咽する。あまりのいたたまれなさに胃が小さく縮こまって、息もできない。
強情に言い張るリンナに、アルラスの声にも一抹の苛立ちが滲んだ。
「どうしてそう言い切れる」
「だって、やったことがあるんです!」
悲鳴を上げて、リンナは頭を振り仰いでアルラスを睨みつけた。
雨音も、風の吹き抜ける音も、何も耳には入らなかった。
かつての記憶が、大波のように押し寄せる。
もう何年も前のことなのに、まるで昨日のことのように思い出せる。
「九つのとき、呪いをかけたんです」
リンナは唇を動かさずに囁いた。
「家族が、私のことを好きになってくれますようにって。あのときは、おまじないのつもりで」
あの夜は激しい嵐で、荒れ狂う風が屋敷全体を強く揺さぶっていた。大きな雨粒が絶え間なく叩きつけ、滝のように窓を流れ下っていた。
時おり雷が落ちると、暗い部屋の隅まで、一瞬だけ昼間みたいに眩しく照らされるのだ。
分厚い雨雲が垂れ込める夜に、順に部屋を回った。握りこぶしで厚い扉を叩いて、声をかける。
訝しげに扉を開けた父の顔が、一変する。
不機嫌そうに腕を組んでいた兄が微笑む。
母が笑ってわたしを抱き寄せる。
翌朝は、嵐が過ぎて晴れ渡った青空だった。食卓に揃った家族はみんな笑っていた。
あんなに嬉しかったことは、他にない。
自分が、崩壊寸前の家族を救ったのだと思うと、誇らしくてたまらなかった。
呪術には、ひとを幸せにする力があるのだと知った。
背を撫でていた手が、はたと止まる。「……何だって?」と、アルラスが掠れた声で呟いた。
「だってそうしないと、お母様が、死んじゃうんだもの」
あの頃、父による母への折檻は苛烈を極めていた。自分のせいで、母はいつも泣いていた。
母はあの日、遺書を書いていた。
次第に息が苦しくなり、喉を鳴らしてしゃくり上げていた。リンナは何度も手で目元を拭いながら、切れ切れに言う。
「わたしが悪い子だから、セラクタルタ家に相応しくないから、いつも家族みんな仲が悪くて、だから」
でも数年もすれば、あのとき自分が何をしたのかも分かる。けれどそのときにはもう引き返せないところにいた。
リンナは深く俯いたまま、感情のこもらない声で呟く。
「私は、立派な娘にならなきゃいけないんです。家族が誇れるくらい、良い娘に」
それなのに、どこまで行っても足りないのだ。
どんなに学問で優秀な成績を修めても、大きな賞金をもらっても、人から評価されても、人を助けても、駄目なのだ。
胸のうちにぽっかりと大きな穴が空いていて、手にしたすべてが全部そこを落ちてゆく。
どこまで歩いても、どこにも辿りつかない。
そんな道を、もうずっと歩き続けている。
アルラスは声も出ないまま凍り付いている。その蒼白な頬を見上げて、リンナはぎこちなく微笑んだ。
「ごめんなさい、やっぱり、言うべきじゃなかったですね」
記憶を消してしまおうと、彼の額に手を伸ばす。その手首を掴まれる。彼はしばらく俯いたまま何も言わなかった。顔に影が落ちて、どんな表情をしているのか分からない。
そうしているうちに、峠を越えたように、冷静さが戻ってくる。リンナは唇を引き結んだまま、掴まれた手を軽く揺すった。アルラスの手は離れない。
「……話してくれて、ありがとう」
長い沈黙ののち、彼はそれだけ呻いた。それ以上の言葉もなく、ただ抱きしめる。背に回された腕に、強く力が込められる。
「大丈夫だ。大丈夫……」
どういう訳か、アルラスの声も泣いているみたいに揺れていた。大丈夫、と何度も繰り返しながら、その背が波打つ。
「ティムは何も覚えていないんです。……何も言わないでやってください」
腕の中で体を縮めて、リンナはそれだけ絞り出した。
息を飲んで、少しして、「わかった」と彼がしわがれた声で答える。
「君が言ったことが本当なら、俺は、君のしたことを全面的に肯定してやれないよ」
彼が肩に顔を埋めるのがわかった。体を締め付ける腕がさらに狭まり、これではどちらが縋りついているのか分からない。
「でも君が、君なりに考えてやったことだということも、わかる」
アルラスが呻く。必死に言葉を選んでいるのが透けて見える口調だった。
「頼むから、俺には、そういうことをしないでくれ。ひとの心を、知らないうちに操るような真似を、もう二度としないで欲しい」
そんなのは優しさじゃない、と彼が言う。間違っている、と。
「呪術なんてなくたって、君の価値はなくなりやしない。呪術を使わなくたって、君を好きな人はたくさんいる。だから……」
ずっと、心のどこかで望んでいた言葉のはずだった。
それなのに、心のどこかで、古い記憶がこびりついたようにうるさく主張し続けている。
アルラスの腕の中で、リンナはそっと目を伏せた。
彼は知らないのだ。
呪術という手段がないと、己の居場所すら守れない子どもがいるということを。
彼の目に触れるような場所に、自分のような子どもはいなかったのだ。
暗い部屋、布団の中で目を閉じたわたしを見下ろして、母がささやく――「この子は、本当に私の娘なの?」




