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呪術臨界点(旧版)  作者: 冬至 春化
2章 楽しい(?)お城生活
13/39

11 後編



 暗い廊下を、あえかな月明かりだけが照らしていた。月が明るいから平気と思ったが、少し前が見えづらい。


『暗視』


 つぶやいて、リンナはそっとこめかみを指先で突く。それまで闇に沈んでいた絨毯の模様が、鮮明に目に飛び込んでくる。行く手の扉の姿が見えた。あの扉の向こうには行ったことがない。


 足音はしない。薄らと埃を被った絨毯が、彼女の足音を吸収していた。


 長く息を吐くたびに、口元から白い息が立ち上る。両手をポケットに突っ込んだまま、リンナは顔を月明かりの方へ向けた。

 もう時計の針はてっぺんを過ぎてから一、二時間が過ぎている頃だった。城はすっかり寝静まり、明かりのひとつも見当たらない。



 脳内を回っているのは、今日の夕方にイーニルから届いた調書、その内容である。


(嫌なことを、思い出した)

 後頭部に手をやり、大きく髪をかき混ぜる。最悪な気分だった。はあ、とため息をつけば、また視界が一瞬霧がかる。


 こんな心持ちのまま寝ても、ろくな夢を見られなさそうだ。

 自室を出てあてどなく歩き続けているうちに、気がつけば用もない城の外れの方まできていた。


 もうずっと使われていない一角なのだろう。渡り廊下の突き当たりにある扉は、鍵こそかかっていないが、ひどく軋んだ。長く尾を引く音を立てて、扉が開く。かび臭い、湿った空気が一気に押し寄せて、リンナは思わずよろめいた。


(勝手に入っても、いいのかな……)

 躊躇ってから、リンナは慎重に扉の向こうへ顔を覗かせた。長い廊下が横に伸びている。会議室、とプレートが扉の上に掲げられているのを見て、彼女は数度まばたきをした。どうやら、かつてはここで人が働いていたみたいだ。


 いくつかの部屋のプレートを見比べる。見る限り、行政というよりは、軍の事務仕事なんかを行っていたみたいな風情だ。

(そういえば、閣下は昔は軍にいたみたいなこと、言ってたっけ……)


 廊下はすっかり片付けられていて、通路に放置されたものはひとつもない。定期的に保守点検がされているのか、建造物自体も安定感があった。


 廊下から覗ける部屋のどれもが、がらんと冷え切った空間である。時おり机や椅子のひとつふたつが壁際に寄せてあるのみで、閉めきられた窓から月明かりが板張りの床に反射している。


 空のキャビネット。丁寧に重ねられた椅子。人がいなくなって随分経つのが、見ただけで分かる。


 もの悲しさに息が詰まった。この城が国の中枢だった時代のことなんて何も知らないのに、今にもたくさんの足音や話し声が聞こえてくるようだ。

 端に寄せられて束ねられたカーテンのほつれ。床の木目に残った傷。塗装が剥がれて丸まってしまった机の角。


 そうしたものを眺めながら、なにひとつ手を触れてはいけないような気がして、リンナは胸の前で拳を握った。



 ひとつひとつ部屋を見ていった先で、リンナはふと足を止める。一番奥の部屋。重厚な両開きの扉が、こちらを威圧するように立ちはだかっている。

「執務室」と、扉の上のプレートを読み上げた。……誰の執務室?


 ここはほかの部屋と、何かが違う。そう直感して、ドアノブに伸びかけた手が空中で止まった。

 きっと、この部屋は、アルラスの部屋だ。理由も確証もないけれど、リンナはそう思った。


 たぶん開けるべきではない。そう思うのに、怖い物見たさで手が動いていた。もう深夜である。こっそり中を覗いたって、誰にもばれやしない。



 扉は思いのほか音を立てずに開いた。

 顔だけを隙間から覗かせて、リンナは息を飲んだ。


「これって……」

 息を殺して、部屋へと滑り込む。部屋の中央に立ったまま、リンナはぐるりと辺りを見回した。

 ひゅう、と音とともに髪が揺れて、窓が細く開いていると気づく。


 部屋は散らかっていた。しかし、放置されて荒廃した景色とは違う。

 床に転がったままのおもちゃ。机の上に丁寧に並べられたぬいぐるみの横に、ひとつだけ倒れてしまったものがある。端がめくれた絨毯と、中途半端に本の入った書棚を順に見る。


 この部屋はやはり、他の事務室や会議室と違う。

 この部屋だけ、気配がする。


 ――まるで、ほんの数秒前まで、ここに人がいたみたいな。



 今にも誰かの吐息が聞こえてきそうな部屋に、魅入られていたのだろう。足音がすぐ背後まで近づいていたことに気づかなかった。


「ルロル!」

「わっ!?」

 いきなり視界の外から腕が伸びてきて、後ろから抱き竦められる。悲鳴を上げて首を縮めたリンナの頬に、温かい手が触れた。


「よかった、無事だったんだな……」

「はい? ちょっと、なに……やだっ、お酒くさい!」


 首を捻って振り返れば、アルラスの顔である。酒のにおいで、彼が泥酔していると悟る。しかも、さっきの言葉からして、リンナを誰かと間違えているらしい。


 頬を叩いて正気に戻してやろうかと思ったところで、リンナはふと言葉を失った。


 顔を伏せたまま、彼は声を殺して泣いていた。

「閣下……?」


 おずおずと呼びかけると、アルラスは顔を見られまいとするようにリンナの首元に顔を埋める。うなじを毛先がかすめて、思わず顔が引きつった。


「……お前がいつ帰ってきてもいいように、ずっと部屋はそのままにしてあったんだ」

 どうりで生活感があると思った、とリンナは首を巡らせる。


 ルロルというのは、アルラスの昔の恋人か何かだろうか?

(もしかして、前の奥さんとか……)

 甘えるように背中に張りついて離れないアルラスを振り返りながら、リンナは眉をひそめた。ルロルさんは、どうやら随分と部屋の片付けが苦手だったらしい。



 腹に回された腕に力がこもる。アルラスがかがみ込むのに引っ張られて、リンナも床に膝をついた。

 体をひねって、そっとアルラスの肩に手を添える。

「……閣下。私、ルロルさんじゃありません」

 アルラスは動かず、返事もしない。


 やはり、リンナのことをルロルという別人と思い込んでしまっているようだ。


 腕が緩んだので、リンナは改めて体を反転させ、アルラスの頬に両手をあてた。顔を上げさせる。

「泣かないで、閣下」

 濡れた目尻を親指で拭ってやって、リンナはアルラスの目を覗き込んだ。


 普段酒を飲むことのないアルラスが、こんなになるほどの深酒をした理由には想像がつく。

 今日の夕食の席でも、アルラスとロガスの態度は険悪そのものだった。要は親子喧嘩である。



「ねえ、……みんな、あなたのことが大好きなんですよ。ご自分でも分かっているでしょう? それを認めないから、受け入れようとしないから、変なことになるんだわ」


 色の濃い瞳が、じっとリンナを見つめ返している。濡れた両目が何度か瞬きをするのを、彼女は微笑んだまま見下ろした。


「離してくれ」と、彼が掠れた声で囁く。


「離しません。あなたが泣き止むまで、絶対」

 暗い部屋の中央に、月明かりが降り注いでいた。遠くで風が吹いている。


 アルラスの唇が小さく動く。やめてくれ、と囁く。

「誰にも、情を移したくない」

「どうして?」

「失ったときに、耐えられなくなる」


 机のうえに積もった埃が、まるで雪のようにほの白く光っていた。倒れたままの人形と開きかけの本の存在が、人の不在をいっそう強く印象づけるのだ。


 部屋の中央に向き合って座り込んだまま、リンナはアルラスの手を取った。大きな手が握り返してくる。硬い手のひらだった。


「さみしい」と、彼は消え入りそうな声でつぶやいた。


「とても生きていけない」

 その目の縁を、大粒の涙が越える。

「自分の体が恐ろしい。他の人間とはまるで違っている体が、気味が悪くて仕方ない」

 繋いだ両手は、まるで縋るようだった。


「これを失ったら自分はもう自分ではないと思うほど大切な人や物、場所をいくつも失ってきた。それなのに俺は死ななくて、俺だけ、今でもあの戴冠式のときに取り残されたままで、」


 自分より頭ひとつほども大きな体が、まるで濡れた子犬のように震えている。

 咄嗟に手が出ていた。

 腕を伸ばして、広い背に手を回す。



「アルラス」

 胸元に彼の頭をかき抱いて、リンナは丸まった背をゆっくりと撫で下ろした。

「私がいます。大丈夫だから……大丈夫……」

 冷えきった部屋の中に、白い息が立ち上る。彼に触れる手だけが熱を持っていた。寝巻きの袖から出た指先や足首は、夜の空気に痺れるようだった。


 これでは彼を抱き寄せているのか、こちらがしがみついているのか分からない。


 溺れるように腕を上げたアルラスが、強く背をかき抱く。

「おいていかないで」


 今にも泣き出しそうな声だった。幼子が親を探すような切実さがあった。


 根拠もなく頷くのは簡単だった。けれど、身を絞るような寂しさに苛まれているアルラスを前にして、言葉が出なかった。

 そんな、無責任なこと、言えるはずがない。





 何も答えられずに、リンナはただアルラスの背を強く抱いた。

「春が来たら、一緒に、花壇に新しい土を入れて、種を蒔いてみませんか」

 街に出て、花屋に声をかけて、どんな色の花がいいか考えましょう。


 呆然と顔を上げたアルラスの頬を撫でてやる。

「……花はいつか散るものだけど、また咲くものだわ。手をかけてやれば、毎年顔ぶれを変えつつ何年だって咲き続けるものです。このお城だって、いつも使っている区域は、形こそ変わっても、今でも生き生きとしたままでしょう」


 冷えた手のひらに驚いたか、アルラスが身震いをした。彼はもう泣いていなかった。


「姿を変えながら続いてゆく営みのなかに、あなたと同じ永遠があるの。何も怖くないわ。無理に遠ざける必要なんてない。何も特別なことじゃない」


 火の気のない部屋のなかで、アルラスの双眸が大きく見開かれる。彼の唇がいちど薄く開かれて、しかし、また閉じてしまう。


 ……こちらを一心に見つめる視線が痛くなって、リンナは大げさに咳をした。


 腰に手を添えて、立ち上がるよう促す。

「部屋に帰って休みましょうか」

 声をかけると、アルラスは大人しく従った。




 部屋を出て、扉を閉じて、通路を戻る。 何も話さなくなってしまった酔っぱらいの手を引いて、部屋まで連れていってやるのだ。


 部屋の前で、アルラスはぴたりと立ち止まった。扉を開けてやっても、部屋に入らない。業を煮やして、リンナは繋いだままの手を軽く揺すった。


「あの……」

「実は俺は酒を飲むとすべての記憶が飛ぶ体質なんだ」

 いきなり早口で宣言したアルラスに、リンナは片眉を上げた。


「なんですって?」

「つまりだな、俺は、明日の朝になったら何も覚えていない訳だ」

 歩いているうちに正気になったとみた。リンナはさっさと手を振りほどくと、半目になって腕を組んだ。


「酔いが覚めたんですね?」

「酔ってる。どう見ても前後不覚だろう」

「どう見てもピンピンですよ。嘘つかないでください」

「嘘じゃない。普段使っている万年筆を賭けてもいい」

「それほど思い入れのない品を賭けるのやめてもらっていいですか? 一昨日買ったやつですよね」

「いちいち記憶力が良い……」


 不満げにアルラスがため息をついた。片手で頬を掴まれて、リンナは唇を尖らせたまま彼を睨みつける。


 少し待ってろ、とアルラスが部屋に入った。

 ひとりで廊下に取り残されると、途端に寒さが押し寄せてくる。両手をポケットに突っ込んで足踏みしていると、少しして再び扉が開いた。


「わ、まぶしい!」

 鼻先に強力な光源を突きつけられて、リンナは両手で顔を覆った。

「そんなに眩しいか……?」

 怪訝そうなアルラスの声に、リンナは慌ててこめかみを指で叩く。暗視の呪術がかかったままだった。


 気を取り直して見てみると、アルラスが持ってきたのは古めかしい作りの角灯だった。持ち手が付いていて、ガラスの中では小さな炎があかあかと揺れている。


「暗くて足元も見えないだろう。部屋までこれを持っていきなさい。下のつまみをひねれば消せる」

「あ、ありがとうございます……」

 角灯を受け取った瞬間、油のにおいと温かさがリンナを包み込んだ。冷えきっていた手をかざして、息を吐く。



「と、いうわけで」

 ぽんと肩に手を置かれて、リンナは顔を上げた。目と鼻の先にアルラスの顔がある。やけに真剣な顔である。


「俺は酒で普段なら言わないようなことを言っていただけだし、明日になったら本当に何も覚えていないから、そういうことで頼むぞ」

「私は絶対忘れませんからね! だってそれ、どう聞いても嘘っ……」


 呆れ顔で反駁する声が、途中で立ち消えた。アルラスが身を乗り出して、焦点が合わないほどに顔が近づく。片手で前髪を持ち上げられる。



「……ありがとう。君と出会ってから毎日が楽しいよ」

 額に温かいものが触れて、体が動かなくなった。何かの呪いかと思ったが、違うらしい。


「閣下、」

 何が起こったのか分からないまま、リンナは呆然とアルラスの顔を見上げた。

「おやすみ」

 頭をひと撫でされて、手が離れてゆく。一言も発せないまま、扉は静かに閉じてしまった。


 額を押さえて立ち尽くしたまま、リンナは瞬きを繰り返す。

 普段のアルラスが、こんなことをするはずがない。だから、彼はよっぽど酒に酔っているわけで、つまりは、

「やっぱり、私も明日なにひとつ覚えてない、かも……」


 よろめきながら自室を目指す廊下を、角灯の小さな光が照らしていた。



 ***


 久しぶりに随分な寝坊をしてしまった。皆もう朝食は済ませてしまった頃だろう。

(変な夢みた……)

 アルラスが歯の浮くような台詞をのべつまくなしに語っている夢だった。思い出すだに鳥肌が立つ。

 ……もしかしたら、昨晩のことも、実は自分の見た夢かもしれない。

 のそのそと身支度をして、リンナは食堂に下りてゆく。



 あくびを噛み殺しながら扉を開けようとして、中の会話が漏れ聞こえた。思わず耳をそばだてる。


「――知ってのとおり、俺は投資家だ」

 アルラスの声は何気ないようだったが、その端々に緊張感が滲んでいた。

「ええ」「そうですね……」と、ヘレックとリピテが困惑混じりに応じる。


 ロガスの声はしないが、部屋の中にいるらしい。リンナは水を差さないよう、そっと扉の脇に身を潜めた。

「君たちをここで雇っているのも、その一貫だ。ここでの実証実験を、若い才能に手伝ってもらう目的もある」


(若い才能って、あなたも大して変わらない見た目ですけど……)

 失言を内心でつつきながら、リンナは腕を組んで壁に寄りかかる。自然と口元が弧を描いていた。


「ここで経験を得た君たちが、大学や研究機関なんかに行って、魔法技術をさらに発展させてゆく。その将来性に、俺は投資をしているんだ」

 アルラスの声は柔らかく、そして朗々と響いた。

「だから俺は、あくまでここを踏み台と考えてほしいと思っている。君たちを信用しているから、期待しているからこそ、ここから羽ばたいて欲しいんだ」


 彼の語る言葉を聞きながら、リンナは顎を上げて天井を見やった。知らず知らずのうちに笑みが漏れる。

 旦那様、とリピテが感激の声を上げた。


「そう長い間ではないかもしれないが、ここでの生活が実りあるものになるように、俺も尽力したい」

 アルラスがそう結んで、食堂の雰囲気がしっとりしたのを感じてから、リンナは勢いよく扉を開けた。


「おはようございます!」

 わあ、今日も美味しそうな朝食、とヘレックを見る。ヘレックを見て、驚愕する。

「え、ヘレックさん、泣いてる?」

 リピテがぎょっとして縦に伸びた。

 ヘレックは目を真っ赤にして鼻を啜っていた。見られまいとするように、片腕で顔を隠してしまう。


「ごめんなさい、ちょっと、嬉しくて……」

 ぐす、とヘレックが鼻を鳴らす。

 肩を揺らして笑っているロガスに、リンナはちらと目配せをする。ロガスは茶目っ気たっぷりにウインクで返してきた。



 それから、アルラスはどんな顔をしているだろうと目を向ける。

「おはようございます、つい寝坊しちゃった――」

 何でもないような顔をしていたアルラスと、視線が重なる。


 ――瞬間、アルラスは耳まで真っ赤になって顔を背けた。


「ちょっと!」

 瞬発的に大声が出ていた。ずかずかと大股で歩み寄り、鼻先に人差し指を突きつける。


「何も覚えてないって言ってましたよね!?」

「なんのことだか……」

 どう見たって全部覚えている顔である。両手を胸の高さで掲げながら、アルラスは小刻みに首を振っている。


 睨みつけている間に、つられてこちらまで耳が赤くなってくる。とてもではないが顔を見れる気がしない。

「本当に何も覚えてない……。……ほんと」

 アルラスは否定するが、その目は部屋の四方八方を泳いでいる。

 もう、とリンナはその場で地団駄を踏んだ。


「春までに、お花屋さん! 手配してくださいね!」

「もちろん。五百人くらい呼ぶ」

「自分ちの庭が地の果てまで続いてると思ってる?」








 ――ヘレックは頬杖をついた。

 顔を突き合わせてやいのやいのと言い合っている当主夫妻を眺める。


 リピテと顔を見合わせれば、考えていることは同じである。

「やっぱりお二人って、」

「ほんっとさぁ……」

「とっても仲良しよね!」


 わたし、何だか考えすぎていたみたい、とリピテがあっけらかんと笑う。明るい声で笑う同僚を眺めながら、ヘレックはまだ涙の残っていた目尻を手の甲でで拭った。


「……今日の夕飯さ、超ごちそうにするよ」

「え、やったぁ! どうして?」

「僕が嬉しい日の記念。食材の買い出し、手伝ってもらえる?」

「荷物ぜんぶ持ちます!」

 リピテが手を叩いて喜ぶ。


 食料庫の中身を思い浮かべて、ヘレックは今日のメニューを考えた。明日のメニューも、この先の毎日の食事のことも。


 おいしいものを作ろう。自分と、自分の大切なひとたちのために。








 ***


 ヘレックとリピテがにこにこと街へ出かけていくのを見送ってから、リンナは腕を組んでアルラスを窺った。

 昨晩から気になっていた疑問をぶつける。

「それで、ルロルさんって誰なんです?」

「え? 前に飼っていた猫だ」

「なんで?」


 もはや人違いなんてものではなく、猫と間違われていたらしい。咄嗟に掴みかかろうとしたリンナを、慌ててロガスが捕まえる。

 羽交い締めにされながら、「放して下さい!」とリンナはアルラスを指さした。


「この人、昨晩、私のこと猫と間違えて抱きついてきたんです!」

 三秒ぐらい考えてから、ロガスは「お好きにやってしまってください」と手を離してくれた。



 のしかかられて長椅子にひっくり返っているのに、アルラスが真剣な顔で言う。

「だってすごく似てるんだぞ」

「猫ちゃんと、私が!? どこが似てるんです」

「小さいくせに態度ばっかりでかくて、そのくせビビりで、賢いのにすぐ要らんことをしてトラブルを起こすから目が離せない」

「なにそれ……」


 リンナは唇を尖らせて身を起こした。これ見よがしに体を払う仕草をしながら、アルラスも長椅子に座り直す。

「旦那様は、ルロルを本当に可愛がっていましたからね」

 食卓を拭きながら、ロガスが苦笑した。


 アルラスは遠くを見るような目で呟く。

「毛並みも似ているんだ。あれは縞があったが、同じような明るい色をした猫でな。抱きかかえるといつも温かくて、まるで太陽みたいな子だった」


 もしかしたら生まれ変わりかもな、と彼が笑いながら言う。

「ぜったい違いますからね」

「冗談だって」

 首を振ると、アルラスは静かに下を向いた。空の両手を見下ろして、曖昧に笑う。



「……今でもたまに、気配を感じるような気さえするんだ。ルロルのふさふさした尻尾が、ほんのすぐそこの角を曲がるのを見たように思って、覗き込んでしまう」


 ヘレックとリピテがいないからか、アルラスは淋しげなのを隠さなかった。


「もう随分経つのに、未だに夢に見る」


 目を伏せた彼の横顔を、リンナは黙って見つめていた。



 それでも、あれと一緒に過ごせた日々は幸せだった。

 そう語るアルラスの声が、耳を上滑りする。


 アルラスが、さみしいと言って静かに泣く声が、耳に残っていた。

 どうせ置いていかれると分かっていても、愛さずにはいられないのだ。

(私、やっぱり、この人を救いたい)

 認めるしかなかった。


 自分が自由の身になるためだけじゃない。好奇心ひとつのためじゃない。


 このひとのために、私は、死の呪いを作りたい。




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