第1話婚約破棄
―ブールス王国貴族学校卒業パーティーにて―
「マリア。残念ながらお前との婚約は破棄する」
ダンスホールにはブラン王子の声が響き渡った。ブールス王国の王位継承権第1位であり、今回の卒業パーティーの主役でもある彼の怒号に参加者たちは狼狽する。あろうことか、主役の第一声が長年付き添った婚約者に対する婚約破棄宣言だったこともその混乱を助長した。
本来であれば、王子と婚約者は卒業ダンスパーティーの中央で踊る主役なのだ。にもかかわらず、マリア公爵はひとりでパーティー会場にやってきた。その一方で、王子は婚約者ではない女性をエスコートしながらパーティーに参加したのだ。
異様な光景。
おそらく、王子の傍らにいる女性は、新しい王子の恋人であり婚約者になる予定の女性だと会場の全員が察していた。
「なにを……」
マリアは肩を震わせている。その表情には絶望の色が見えた。
彼女の美しい金髪の震えが、彼女の心情を物語っている。
王子は、その元・婚約者の様子を見て満足そうしていた。ピンク色の浮気相手の髪を優しくなでている。
「お前の今までやってきた悪行はわかっている。まさに、物語に出てくる悪役令嬢その人だ。このミーサを田舎者だとバカにして、取り巻きと共にいじめていたようだな。そのような慈愛のない女が次期国母になるなど、言語道断。お前は、我が婚約者にふさわしくない。よって、ここから消えろ!」
マリアは、その様子をぼう然として見ている。
「私はいじめなどしておりません。ミーサ様には、社交界のマナーをお教えしていただけで……」
「言い訳は見苦しいぞ」
「ですが……」
王子は青い髪を振り乱した。短気な性格と言われている彼だが、今日は特に気が短かった。
「口ごたえは許さないぞ。すでに、不敬の域まで達している。お前たち、この女を逮捕しろ!!」
マリアは兵士たちに取り囲まれた。
「お待ちください。殿下!!」
ダンスホールに若い男の声が響いた。王子の側近である執事・ラファエルだった。王子とマリアの幼なじみで年上の兄のような関係だった。
「ラファエル!? お前まで私に逆らうのか!!」
「違います、殿下。ここで婚約破棄をしてしまえば……国王陛下派との融和の象徴だったこの婚約をどぶに捨てることになってしまうのです。お考え直しください」
「うるさい!! マリアをかばうならお前も敵だ。お前はクビだ。ここからいなくなれ!」
王子は怒りに狂い側近まで解任してしまう。
「ぐっ……仰せのままに」
そう言ってラファエルは会場を後にする。
マリアはその光景を見たことで怒りに震えていた。
「もう一度繰り返す。マリア、お前との婚約を破棄する。わかったか!!」
王子は怒声を繰り返した。
マリアは目を見開き、さっきまでの弱さを捨てて切り返した。
「《《はい、喜んで》》!!」
公爵の思わぬ返事に会場は凍りついた。
「なんだと!?」
「婚約破棄を喜んで受け入れると言っているのです。ただし、殿下は王位継承権を持っていると言えども、法令には縛られます。わかっていますか?」
「……えっ!?」
王子は震えた。
「これは一方的な婚約破棄です。であれば、婚約破棄した側である殿下は、私に慰謝料を払う義務が発生します。当然ですよね」
この言葉で場の流れは完全にマリアに傾いた。彼女は続ける。
「さらに、こんな公衆の面前で罵倒されて、我が家名は大変に傷つきました。当然のことながら、その影響で慰謝料は増額されます」
「金を払えというのか!? この女狐めっ。いくらだ。いくらでも払ってやる」
「であれば、この場合の慰謝料の相場は年間収入の半分とされています。殿下の内廷費の半分。つまり、5000万ルーブルをお支払いください」
「5000万だと!! 庶民が一生遊んで暮らせる金額だろ。それはいくらなんでも……」
「であれば、どうしてこのような場で婚約破棄など申し出たのですか? 王族が公共の場で嘘をつくことがどれだけ危険か、わからないのですか、殿下は?」
会場もマリアに同情的だった。王子は、要求を受け入れざるを得ない状況に追い込まれていた。
「わ、わかった。その金額を支払う。それで、俺とお前は終わりだ。いいな、わかったな!!」
さきほどまでは、マリアを追放してやるくらいの勢いを持っていた王子は急に弱気になって、彼女に全面降伏した。大それたことをしてしまったのかもしれないと、後悔しながら。
逆に、マリアはつきものが取れたかのようなすっきりした顔になっていた。
「(ああ、よかった。だって、政略結婚でしかたなく婚約したのに、このバカ王子は浮気ばっかりで。さっきは、腹が立ったけど……これはむしろ幸運だったのかもしれないわよね。だって、あんな嫌な男と一生添い遂げなくちゃいけなかったのに、向こうから大金を積んで私を追い出してくれたんだし)」
彼女はポジティブになっていた。
「(そもそも、私には身寄りがいない。お父様とお母様は早くに亡くなってしまったし。学園卒業後は、王子と結婚するつもりだったから働く予定もない。私は完全に自由の身よね。遺産と慰謝料があるから、しばらく困ることもない)」
王子とマリアの婚約は、国王派とその弟派の対立を和らげるためのものだった。国王に子供はなく、弟の子供である甥を王位継承者に指名するにあたって、せめてもの抵抗で国王の側近の娘だったマリアが王子の婚約者に指名された経緯がある。
彼女は公爵家の一人娘であり、両親が亡くなってからは公爵の当主でもあった。
「(このままじゃ社交界にも居場所がないから、旅行でも行こうかな?)」
彼女は自由の身になった反動で、今まで許されなかった旅行に憧れを抱いた。見知らぬ土地で美味しいものを食べて、素敵な景色を見る。
「最高ね、決めたわ!! これからは旅行三昧ね!!」
彼女はウキウキしながら、会場を後にするのだった。
※
彼女は、消えるように卒業パーティー会場の外に出た。
彼女が外に出るのは不自然なことではなかったし、注目は狼狽している王子に向かっていたから、めんどくさいことも一切なかった。あそこまで公の場で婚約破棄を宣言してしまえば、もう何の余地もない。国中のいたるところに、噂は駆け巡るはず。そうすると、いろいろと面倒だからできれば明日の朝には旅行に出発したい。
そして、会場の外にはさきほど、王子の執事を解任されたラファエルが立っていた。
「ラファエル様……」
思わずマリアは、執事に話しかけてしまう。なぜなら、自分のために職を失ったラファエルを不憫に思っていたからだ。
「申し訳ございません。マリア公爵。あなたの名誉を傷つけてしまいました。主人に代わり、お詫び申し上げます」
ラファエルは、王子の執事。執事と言っても、その高い能力からボディーガード兼政策秘書のような役割を持っていた。貴族階級出身者ではないが、その有能な能力で王子の側近まで登りつめた男である。
「それは大丈夫ですよ。むしろ、すっきりした気もしますし……それよりも私をかばったせいであなたまで解任されるなんて。本当にごめんなさい。でも、きっと大丈夫よ。殿下は、あなたなしでは何もできませんから。きっと、数日もすればすぐに呼び戻されると思いますが……」
ラファエルは、マリアが王子の婚約者になった3年前と同時期に王子に仕え始めたため、ふたりはよく顔を知っている。
「いえ、今回の件で、さすがに愛想がつきました。私は転職させていただきますよ。あのまま王子の側近でいれば、自分にまで火の粉が飛んできそうだ」
まるで沈没船から逃げるネズミのようなことを言うのね。マリアはそう思って笑う。そして、彼女は公爵家当主としてすぐに思いついた。この有能な執事をわざわざ他人に取られたくはないと。
そもそも、さすがに女一人旅は危険だ。しかし、家を守る側近たちは若い者はほとんどいない。ボディーガードとしても有能な彼が旅行に一緒に来てくれるならこれほど心強いことはない。
そして、ひそかに有能な執事に憧れていた淡い気持ちもあった。
彼女は、勇気をこめて彼を誘う。
「ねぇ、ラファエル様? もしよろしければ、私に仕えては下さりませんか?」
王国の有力な貴族であるマリアの申し出に、ラファエルは驚きの声を上げた。
「なっ……」
「実は先ほど、殿下から莫大な額の慰謝料をいただくことになったのよ。だから、そのお金を使って国中を旅行しようと思って……でも、さすがに女貴族の一人旅は危険だから、あなたに一緒に来て欲しいのよ。あなたはこの3年間、ずっと私たちのために頑張ってくれていた。だから、あなたなら絶対に大丈夫だと思うの」
「ですが、マリア公爵は未婚の身ですよね。そんな方が男と二人で旅をしていいのですか?」
「それは問題ないわ。だって、さっきのような騒ぎを起こしてしまったのよ。国内で私と結婚しようと考える人なんているわけがないじゃない。王太子ににらまれている女だもの……自分で言うのもあれだけど、かなりの地雷物件になってしまったのよ。だから、いろいろと落ち着くまではどこか遠くに行きたいのよ。ねっ、いいでしょ?」
今まで王子の婚約者という重い仮面を被っていたマリアは急に年頃の女性のようにラファエルに甘えていた。本来の性格はこちらなのかもしれないとラファエルは感じている。
年相応の好奇心と、ユーモアのセンス。美しさはもちろんありつつも、まるで少女のように甘える姿はこの3年間見てきた公爵とは別人のようにも見える。
その姿が執事には、魅力的に映ったのかもしれない。
「よろしいのですか……私で?」
「違うわ、ラファエル。私はあなたがいいの。あなたじゃなきゃいけないのよ。だから、お願い。私の手を取って?」
女は力強く断言して、彼に向かって手を伸ばす。
「あなたが選んでくれてよかった」
ラファエルは、安心したように笑ってゆっくりと右手を女の手に伸ばした。
「えっ?」
「いえ、こちらの独り言です。マリア様のように聡明な方に仕えることができるのは、光栄です」
ふたりはお互いに手を握り合う。
お互いの体温がしっとりと伝わっていく。
「不思議ね。私たちはさっきすべてを失ったばかりなのに、もう新しいものを手に入れることができた。人生って不思議だわ。さっき失ったものよりももっと大事なものをつかんだように思えるのだから」
ふたりはまるで共犯者になったかのように力強く手を握り合う。
「では、マリア様……」
だが、マリアはラファエルの言葉をさえぎった。
「ちょっと待って、ラファエル様。私は、お嬢様って呼ばれたいわ」
「えっ!?」
「イケメン執事にお嬢様って呼ばれるのが、女の子の夢みたいなところあるじゃない。それに、旅先でもマリアと呼ばれる身分がばれちゃうかもしれないし。そこはごまかしましょうよ」
「では、お嬢様。私もラファエル様はよしてください。私はあなたの執事で……」
「ダメよ。そこは譲れない」
そして、ふたりは笑い合う。
「でも、まさかここまでとは……」
「なにが?」
「殿下ですよ。まさかここまで暴走するとは思いませんでした」
「仕方がないわ。もう、我々には過去の人よ。この際は過去は振り返らないで楽しむしかないわ。それでいいでしょ?」
「はい、お嬢様!」
そして、ふたりはゆっくりと歩きだした。