*9* 山道の貴婦人
「それって、俺の、名前……」
「あれ、中性的な美人さんだから、響きの綺麗なチョイスにしたつもりなんですけど……やっぱり男性ですし、もっと強そうなほうがいいです? ムム……わりと語彙力がげんかい……」
「嫌じゃないです! ただ……俺には、もったいない名前じゃないかなって」
「そう、ですか……名前を呼び合ったりするの、打ち解けたみたいで、なんかいいなって思ったんですけど」
「……は」
「ぷーすけみたいに、仲良くしたかったです……お兄さんと」
しょんぼり肩を落とされる光景に、込み上げる罪悪感が胸を掻き乱す。
「咲でいいです」
「ふぇ?」
「じゃなくて……咲がっ、いいです!」
しょうもなく濁していた本音を、なりふり構わず叫んで、我を取り戻して。
「……呼んで、ください……きみさえよければ」
意趣返しにしてはたよりない語尾が、届いたかどうかは知らない。
「咲さん?」
「……っ」
「咲さん」
「……は、い」
「敬語、ナシにしませんか? たぶん咲さんのほうが、わたしより年上な気がしますし」
「でも、はとこさん……」
「さん付けもいらないです。そっちのほうが、仲良しさんな気がするかなぁって!」
ここぞとばかりに畳み掛けてくるのは、ちょっと、反則なんじゃないかと思う。
「……そんなこと言うなら、俺も……はとちゃんって、呼ぶけど」
これがなけなしの反撃だなんて、笑える。
それでも、俺だけがこんなに一喜一憂するのは、フェアじゃないだろ。
「咲さん咲さん、それはご褒美です」
「……きみが、言えることではないかと」
「ねぇ咲さん、咲くんって呼んでもいい?」
「……あぁ」
「咲くん、咲くん」
「……なに? はとちゃん」
「仲良くしてくれて、ありがとう! すごく嬉しい!」
笑顔の威力は相変わらずだったけれど、今度は何故か、視線を向けてしまう。
飾りけのない言葉が、するりと胸に入り込んできて、俺を絡め取る。
「……俺も」
うれしい……うれしい、うれしい。
曖昧だった俺の輪郭が、かたち作られたみたいで。
お礼を言いたいのに、語彙力の欠片もなければ、行動で示せるほど器用でもない。
どうにも逃せない熱い感情は、代わりにぷーすけを抱きしめることで、なんとかごまかした。
「あらまぁ。どこからか、甘酸っぱいかほりが致します」
頃合いを見計らったような声が届いたのは、そんなときだ。
俺と、はとちゃんと、ぷーすけ。
いままで2人と1匹しかいなかった山道に、さくり、さくりと足音が響く。
いち早く振り返ったはとちゃんが、あっと声を上げた。
「ウワサをすれば、ミヤ姉!」
「はい、あなたの親友であり、美しい姉、みやびでございます。ぷーちゃんに素敵な殿方もご一緒で、にぎやかですわね。うふふ」
一体どこの貴婦人が現れたかと。
言葉を失うほど、ゴシックなマーメイドドレスにパラソルを差した麗人の登場は、衝撃的すぎた。
まさか、うり坊がいるようなこんな山道で、まさか。
「わたくしに、ご用でしょうか」
「そうそう、ちょうどお家にお邪魔しようと思ってたんだ。はい、回覧板でーす!」
「まぁ、そうなのですか。ありがとうございます」
流石はとちゃん、動じない。浮世離れした女性を前にして、ごく普通にトートバッグから回覧板を取り出しては、手渡している。
山道、貴婦人、回覧板。なんだろう、この落差は。
「それはようございました。わたくしもそろそろ、はとちゃんをお呼びしなければと思っていたところでしたの」
「あっ、それじゃあ!」
「えぇ。彼もすっかりお元気になりました。早くお迎えにいらして。あなたの恋人が、首を長くしてお待ちですわ」
「…………え?」
ドレスと同じ艶のある黒髪を滑らせ上品にほほ笑む女性の姿を、どこか夢物語のようにながめていたら、殴られたような衝撃で現実に引き戻される。
「うんっ! お言葉に甘えて、早速!」
絶句する俺をよそに、ひときわまぶしい笑みを浮かべるはとちゃん。
「せっかくご足労頂いたんですもの、アフタヌーンティーはいかがでしょう? もちろん、そちらの殿方もご一緒に」
優雅な所作でパラソルを回転させた女性は、俺の胸さわぎを知ってか知らずか、意味深長な笑みで追い討ちをかけてくるのだった。




