*7* おやとひな
病人といえば、蒼白い顔でベッドに臥せっている――そんなイメージは、もう時代遅れなのか。
「〝健康とは、完全な肉体的、精神的、および社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない〟……」
あてがわれた六畳間で、ふと目についた本棚。
ふぞろいな背表紙をながめているうちに、いつの間にか物語でもなんでもない、事実だけを書きつらねた分厚い本を抱え、畳に座り込んでいた。
「〝健康とは――……〟」
黄ばんだページのかすれ文字を、反芻する。
単調な文字列をなぞり終えるまでに単語毎の意味は理解できても、納得までには至らない。
ただ、このWHO憲章に則るとすれば、俺は健康ではないということになる。
満たされているのは五体だけ。己の喜怒哀楽をかたち作る記憶がなければ、何者かを証明してくれる家族も知人もいない。
……いやしないのだ。
「あっ、いたいた。おにーさんっ! お散歩に行きませんか!」
だとするなら、この子は、なんなのだろう。
「俺が……外に出ても、いいんですか?」
「もっちろん! 誰かに感染る病気じゃないって頼さんも言ってたし。気分転換も大事ですよ!」
空っぽな俺の、漠然とした焦りと強迫観念にひょっこりまぎれ込んでは、はにかみひとつで全部を吹き飛ばしてしまう少女。
彼女は俺にとって、どんな存在なんだろう。
「いま、行きます」
間違っても、赤の他人じゃない。
手にした辞書が、きちんと元の場所へおさめられたかどうかを見届けることすら放り出して、駆け寄るくらいだから。
自分が歩んできた道や、一寸先さえ見えないのに、少女の周りには、地面がある。草花がある。瑠璃色の空がある。
だから、安心して踏み出せる。
後をついて回る俺がひなどりと称されるのも、なるほど、妥当なのかもしれないな。
* * *
「なに、遠慮することはないさ。どうやらはとちゃんが、キミの〝おやどり〟のようだからね」
かつて、ここ蛍灯村で流行したという〝ひなどり症候群〟……
一般には知られていない奇病とされてこそいるけど、過度に危険視する必要はまったくないと、朗らかな紳士は言い切った。
拍子抜けを食らう俺に与えられたのは、〝正しい知識〟に、ごく普通の民家の六畳間、そして、陽だまりの香る布団だった。
「はとこさんは……迷惑じゃないですか」
「えっ、それって、お兄さんのことが、ですか?」
とりとめのない会話をしながら、木漏れ陽の山道を歩いていたけれど、ふと訪れた沈黙がどうにも息苦しくて、言葉が口を衝く。
見ず知らずの男の世話をいきなり任されて、迷惑でないはずがない。
それなのに、足を止めてぎょっと俺を見上げた少女は、そんなこと、言われるなんて思いもしなかった、とでも言いたげな顔だった。
「お兄さんこそ、迷惑じゃないですか? わたしおせっかいなんで、普段からアレコレ首を突っ込んじゃいがちなんです。ほっといてくれー! とか、静かにしてくれー! とか、ホント遠慮せずに言ってもらって、おっけーですからね!」
「いや、その」
助けてくれたきみに、俺からそんなことを言うなんて、あり得ないです。
喉のすぐそこまで出かかって、はたと気づく。口にするのは、やめた。だって。
「だいじょぶです、お兄さんが迷惑ってことは、絶対ないですから!」
だって、同じことを言っている。俺も、彼女も。
だから、この話はおしまいなんだ。主張を曲げる気がないのは、俺だって同じ。