*4 * 緋色の風
「病み上がりのところごめんなさいですけど、ちょっと歩けそうです?」
「……どう、して」
「帰るんですよ、お家に!」
「あのっ、それは困りますっ!」
「待ってくれ。彼はもちろん、きみだって……!」
「門限が迫ってるんで、わたしたちはおいとましますね。遅くまですみませんでした~」
言い募るふたりをヒラリとかわしながら、腰を上げる女の子。
つられて、俺も立ち上が……嘘だろ、立て、た?
さっきまで、思うように足が動かなかったのに。
「すこし、お待ちいただけるかしら」
手を引かれるまま病室を後にしようとした、まさにそのときだ。入り口のドアがスライドし、新たな人物が姿を現す。
新雪を彷彿とさせる長髪をうしろでひとまとめにし、膝丈まであるラボコート型の白衣(色はなぜか黒だが)を身にまとった婦人。
「所長!」
キーを半音上げて、女性が婦人を呼ぶ。対して男性のほうは、ばつが悪そうにうなだれた。
「所長……すみません」
「いいえ。私のほうこそ、遅くなってしまってごめんなさい。翠くん、紫ちゃん」
穏やかに語りかけた彼女は、次いでこちらへ向き直り、ふわり、花も恥じらうような笑みをこぼす。
美しい。いっそ恐ろしいくらいに。身を縮こませる俺を、オニキスの瞳がしかと捉えた。
「考え直しては、いただけないのね」
人形のように整った顔立ちを、ほのかな寂しさに歪め、彼女は問いかける。俺を背にかばった女の子へ。
「治外法権です」
にこにこと可愛らしい声音で告げられた言葉が、どんな意味を持っているのかはわからない。
それでも、対峙した全員の表情をかげらせるカードであることだけは、たしかだった。
「ただまぁ、わたしみたいなひよっこの独断じゃどうこうはできないので、いったんお持ち帰りさせていただくってことで、ここはひとつ」
「俺は反対ですよ、所長!」
「あたしもです!」
「さぁて、行きましょっか!」
白衣の若者たちが声を張り上げるが早いか、いま一度腕を引かれる。呼び止める声も知らんぷりで、廊下へ飛び出して。
「色々あったときはですね、美味しいものいっぱい食べて、ぐっすり寝るのが一番だと思うんです。だからはい、早くお家帰りましょうね、見知らぬお兄さん! わたしは、木ノ本 はとこです!」
自信満々になにを言い出すかと思えば、そうか。俺たちは、面識がなかったらしい。
赤の他人を放っておくどころか、ましてや連れ出すなんて。
――はとこさん。
初めて耳にする音を、そっと紡いでみる。吐息も同然のそれに、当然ながら返事があるはずもない。
……のに、俺を振り返った女の子が、はにかんで。ただでさえまぶしい笑顔を、こがね色の光が覆い尽くす。
サァッ――……
通りすがりのそよ風に前髪をなでられて、無意識のうちにかざしていた右手を下ろした。
はるか頭上で揺れる木漏れ陽。こがね色のカーテンがそよぐ度、キラキラと、こまかな雫が反射する。
「よかった、お天道さまも、泣き止んだみたい!」
一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまったのは、まぶしすぎる景色だけが理由じゃない。
ふるえる深呼吸をすれば、爽やかな若葉の香りが、鼻腔をすぅっと吹き抜ける。
胸の奥にぽっと灯をともすような、あたたかな生命の息吹。
白で統一された、無機質で硬質な場所から1歩踏み出ただけで、世界はこんなにも違うなんて。
「さぁさぁ、帰り道はこっちですよ。たぶん!」
「……ははっ」
自分が誰なのかも、どこへ行くのかもわからない。不安がないと言えば、嘘になる。
それでも、不思議と心の波は穏やかだ。
おかしくて、うれしい気持ちでいっぱいなのは、俺と彼女が、手と手以上のなにかでつながっているからなのかな……って。
駆け出した爪先が、水溜まりを蹴る。小気味いい音を奏でて、光の微粒子が弾けた。
藍色のにじみ始めた鮮やかな空を頭上にとらえて、こがね色のカーテンが揺れる坂を駆け下りる。
はやくこいよって、はじめの1歩を後押しした風が俺たちを追い越して、あっという間に緋色になって、消えてった。