*3* 差しのべられた手
「だいじょぶ。怖いものは、なんにもないよ」
からころ、と。硝子を鳴らしたような、澄んだ音色。
とたん、赤いペンキをぶちまけられたような視界がクリアになる。
いつからだろう。白衣の男女より1歩近い場所に、女の子がひとりしゃがみ込んでいた。
くりくりと黒目がちな瞳を細めたかと思えば、血濡れのシーツに膝立ちをして、正面の俺の頭をそっと抱え込む。
「いいこ、いいこ」
真っ暗にさえぎられた視界では、歌うようなそれが、より鮮明になる。
とくん、とくんと、心地よい心音を頬で感じられる。
荒れ狂う思考のさざなみが、すぅっと引いていくのがわかる。
「はっ、はっ…………ふー……うぅ」
整いゆく呼吸の中、優しすぎるくらい頭をなでる手と、力強く俺を抱きしめてはなさない腕の感触が、無性に泣かせてきた。
不安なんじゃない。ほっとしたんだ。
あたたかいのがうれしくて、わけもわからず、ぎゅっとしがみつくことしかできない。
すぅ、はぁ……と、何度呼吸を繰り返したときだったか。
「……止まった、かな?」
ぴたりと寄り添っていた身体がはなされ、反射的に手で追いかける。
そんな俺のすぐ目の前で、女の子が満足げにはにかんだ。
「うん、止まったね。これでだいじょぶです」
なにが、と口を動かしかけて、気づく。
俺が我を忘れているときに、点滴の外れた右腕を痛いくらい圧迫して、止血してくれたんだろう。手にした、シーツの端で。
「すみません、なんか拭くものって、もらえますか?」
「……アルコール綿と、止血パッドがあります」
「ありがとうございます」
呆けているうちに、女の子は白衣の女性から受け取った手のひらサイズの袋を破く。
取り出したアルコール綿で血まみれの右腕を綺麗に拭うと、まだ熱の残る傷口にふわりとテープを貼ってくれた。
一部始終を黙って見守っていたふたりの若者は、俺の警戒を感じ、あえて手を出さなかったのかもしれない。
「ありが、とう……」
「えへへ、どういたしまして!」
そこでようやく、自分を助けてくれた子の姿を映すことができる。
ふんわり丸みを帯びたボブが小顔によく似合う、可愛らしい女の子だった。
首を傾けた拍子に、長い襟足がさらりと細い肩を滑る。
その瞬間、時が止まった。
青みがかった灰色。見覚えのある藍色鳩羽。
弾けた笑顔を前にしたとたん、それまで胸にはびこっていた得体の知れない焦りとか不安の残り香が、嘘みたいに吹き飛ばされる。
「さて、これで一件落着したことですし!」
まばゆい笑みのその子は、ぱんっと打ち鳴らした手のひらを、いまだ夢見心地の俺へと差しのべた。