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おやばと  作者: はーこ
17/26

*17* 一度殴られたほうがいいかもしれない

 凍える寒さは苦手だ。

 でも目が覚めたとき、意識が冴えて自然と背筋の伸びる空気感は、心地がいい。


 蝉もまだ寝ぼけている時間帯は、夜通し励んでいただろう蛙の鳴き声が、水田の方角から、透明な水の粒子をまとった涼やかな風に運ばれてくる。

 ひとときの生を叫ぶ合唱とは違う。存在をたしかめ合うような、輪唱だ。


 耳を傾けながら口をつけた湯飲みから、じんわりとぬくもりが咽頭に流れ込んだ。


「えっちゃんなぁ、アサリたぶるるかえ?」


 会話のはじまりは、脈絡もない。

 それでいて今日の天気について振るような、自然なもの。

 まだちょっと慣れない響きは、聞こえた音を脳内で復唱、知っている単語に変換して、あと少しの推理を加えたら、あぁ、と理解できる。


「食べられると思います。たぶん」


 アサリは食べられるか、という質問だった。

 直近で目にした記憶がないから、どうしても想像での返事になってしまったけど。


「そうな! うち、好きなんよねぇ。けんど、こげな山ん中住んじょると、そうそう食べられんけん」


「それじゃあ、ご馳走ですね」


「あっちぃ中辛抱しち働きよんき、たまにはよかろうもん。明日から、お味噌汁はアサリやねぇ。あれ、ぷーちゃんは食べるんかいな?」


「きっと食べますよ。食いしん坊ですから」


「あっはは! じゃあじゃあ」


 歌うような声が響いて、流水音が止む。

 エプロンの裾で手を拭きながら、居間にひょっこり現れた笑顔は、とてもよくはとちゃんに似ている。

 いや、はとちゃんが似ているのか。


 そんな当たり前のことがふと脳裏をよぎってから、今日も今日とて膝元で転がっている焦げ茶色の毛玉を後目に、座布団から腰を上げる。

 空になった湯飲みと、座卓の台拭きを忘れずに。


(さと)()さん、今度から、洗い物は俺がやっときますよ」


「そんな、悪いわぁ。米研ぎやら風呂洗いやら、やってもらっちょんに」


「平気です。動いてるほうが落ち着くので」


「えっちゃんは、働き者やねぇ。助かりますー」


「こちらこそ、いつも美味しいご飯をありがとうございます」


「べっぴんさんにそげぇ褒められち、さとちゃん照れるわえ」


 ありゃまー、と手のひらで両頬を覆いながら、気恥ずかしくも嬉しげにくしゃりと目じりを下げる様が、小柄な背も手伝って、本当に可愛らしい。

 えくぼのある、はとちゃんと瓜二つの顔。

 きゃいきゃいとはしゃぐところなんてそっくりすぎて、ふたり並んで「姉妹ですー」と言われたとしても、納得できてしまう。


 サラッと臆面もなく「べっぴんさん」とか褒めちぎってくるところも、流石、はとちゃんと(あおい)のお母さんなだけある。

 それに関しては……うん、ちょっと、心臓に悪いけど。


 そそくさとシンクに視線を逃がし、ゆすいだ湯飲みをひっくり返して食器カゴへ。

 台拭きは手でもみ洗いをしたら、台所用漂白剤を溶かしておいたプラスチック桶に浸す。

 今日は天気がいいから、天日干しで乾燥させようか。


 こうして村の中でも木ノ本(きのもと)家の朝は、とりわけゆったり流れている気がする。

 ぷーすけがあくびを連発するわけだ。

 しかしなんの変哲もない日常のひとコマに、変化の兆しは唐突に訪れる。

 それは、軽やかな足音を伴って。


「はいはーい、準備かんりょーです。お・ま・た・せ!」


 確認するまでもなく、はとちゃんだ。

 寝ぼけたぷーすけとは反対に、日課の薪割りと朝ご飯を済ませた彼女のエネルギーは、すでに満タン。

 颯爽と居間の障子を開け放った笑みはいつもの輝きで、でも、ふと違和感を覚える。


 疑問はすぐに解決。服装だ。

 大抵はカットソーやタンクトップにショートパンツを合わせ、くるくると動き回っていたはとちゃんだけど、今日は明らかに違う。


 まぶしい純白のブラウスに、襟のラインと同じ紺色のネクタイ。

 グレーチェックのボックスプリーツスカートの上からは、黒い細身のベルトを締めて。

 私服じゃない。あれは、制服だ。


「今日は、登校日だったのかな」


 最初こそ驚いたが、世間的には夏休みの時期だったか。

 何気なく問いかけたつもりだったけれど、肝心のはとちゃんは「ほぇ?」と不思議そうに小首を傾げる。

 それから、なにかを思い出したように、ポンッと手を叩くのだった。


「そういや、言ってませんでしたっけ」


「うん、なにを……?」


「わたし、高校は卒業してるんだよね、去年」


「……え、じゃあ」


「木ノ本 はとこ、19ちゃい。これでもお勤めしてるんですー。あ、これ職場の制服ね」


 イェイイェイ、とダブルピースを決め込むはとちゃんをよそに、俺の思考は一時停止。


「えっ……え…………えぇえっ!?」


 絶句とはこのことか。てっきり、学生だと……それもその、小柄だから、中学生かと……と思い込んでいた俺は、一度殴られるべきなんじゃないだろうか。

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