*17* 一度殴られたほうがいいかもしれない
凍える寒さは苦手だ。
でも目が覚めたとき、意識が冴えて自然と背筋の伸びる空気感は、心地がいい。
蝉もまだ寝ぼけている時間帯は、夜通し励んでいただろう蛙の鳴き声が、水田の方角から、透明な水の粒子をまとった涼やかな風に運ばれてくる。
ひとときの生を叫ぶ合唱とは違う。存在をたしかめ合うような、輪唱だ。
耳を傾けながら口をつけた湯飲みから、じんわりとぬくもりが咽頭に流れ込んだ。
「えっちゃんなぁ、アサリたぶるるかえ?」
会話のはじまりは、脈絡もない。
それでいて今日の天気について振るような、自然なもの。
まだちょっと慣れない響きは、聞こえた音を脳内で復唱、知っている単語に変換して、あと少しの推理を加えたら、あぁ、と理解できる。
「食べられると思います。たぶん」
アサリは食べられるか、という質問だった。
直近で目にした記憶がないから、どうしても想像での返事になってしまったけど。
「そうな! うち、好きなんよねぇ。けんど、こげな山ん中住んじょると、そうそう食べられんけん」
「それじゃあ、ご馳走ですね」
「あっちぃ中辛抱しち働きよんき、たまにはよかろうもん。明日から、お味噌汁はアサリやねぇ。あれ、ぷーちゃんは食べるんかいな?」
「きっと食べますよ。食いしん坊ですから」
「あっはは! じゃあじゃあ」
歌うような声が響いて、流水音が止む。
エプロンの裾で手を拭きながら、居間にひょっこり現れた笑顔は、とてもよくはとちゃんに似ている。
いや、はとちゃんが似ているのか。
そんな当たり前のことがふと脳裏をよぎってから、今日も今日とて膝元で転がっている焦げ茶色の毛玉を後目に、座布団から腰を上げる。
空になった湯飲みと、座卓の台拭きを忘れずに。
「里子さん、今度から、洗い物は俺がやっときますよ」
「そんな、悪いわぁ。米研ぎやら風呂洗いやら、やってもらっちょんに」
「平気です。動いてるほうが落ち着くので」
「えっちゃんは、働き者やねぇ。助かりますー」
「こちらこそ、いつも美味しいご飯をありがとうございます」
「べっぴんさんにそげぇ褒められち、さとちゃん照れるわえ」
ありゃまー、と手のひらで両頬を覆いながら、気恥ずかしくも嬉しげにくしゃりと目じりを下げる様が、小柄な背も手伝って、本当に可愛らしい。
えくぼのある、はとちゃんと瓜二つの顔。
きゃいきゃいとはしゃぐところなんてそっくりすぎて、ふたり並んで「姉妹ですー」と言われたとしても、納得できてしまう。
サラッと臆面もなく「べっぴんさん」とか褒めちぎってくるところも、流石、はとちゃんと葵のお母さんなだけある。
それに関しては……うん、ちょっと、心臓に悪いけど。
そそくさとシンクに視線を逃がし、ゆすいだ湯飲みをひっくり返して食器カゴへ。
台拭きは手でもみ洗いをしたら、台所用漂白剤を溶かしておいたプラスチック桶に浸す。
今日は天気がいいから、天日干しで乾燥させようか。
こうして村の中でも木ノ本家の朝は、とりわけゆったり流れている気がする。
ぷーすけがあくびを連発するわけだ。
しかしなんの変哲もない日常のひとコマに、変化の兆しは唐突に訪れる。
それは、軽やかな足音を伴って。
「はいはーい、準備かんりょーです。お・ま・た・せ!」
確認するまでもなく、はとちゃんだ。
寝ぼけたぷーすけとは反対に、日課の薪割りと朝ご飯を済ませた彼女のエネルギーは、すでに満タン。
颯爽と居間の障子を開け放った笑みはいつもの輝きで、でも、ふと違和感を覚える。
疑問はすぐに解決。服装だ。
大抵はカットソーやタンクトップにショートパンツを合わせ、くるくると動き回っていたはとちゃんだけど、今日は明らかに違う。
まぶしい純白のブラウスに、襟のラインと同じ紺色のネクタイ。
グレーチェックのボックスプリーツスカートの上からは、黒い細身のベルトを締めて。
私服じゃない。あれは、制服だ。
「今日は、登校日だったのかな」
最初こそ驚いたが、世間的には夏休みの時期だったか。
何気なく問いかけたつもりだったけれど、肝心のはとちゃんは「ほぇ?」と不思議そうに小首を傾げる。
それから、なにかを思い出したように、ポンッと手を叩くのだった。
「そういや、言ってませんでしたっけ」
「うん、なにを……?」
「わたし、高校は卒業してるんだよね、去年」
「……え、じゃあ」
「木ノ本 はとこ、19ちゃい。これでもお勤めしてるんですー。あ、これ職場の制服ね」
イェイイェイ、とダブルピースを決め込むはとちゃんをよそに、俺の思考は一時停止。
「えっ……え…………えぇえっ!?」
絶句とはこのことか。てっきり、学生だと……それもその、小柄だから、中学生かと……と思い込んでいた俺は、一度殴られるべきなんじゃないだろうか。




