*11* まどろむ朝
……ピピッ。
まどろむ意識に、いまとなっては聞き慣れた電子音が割り込む。
鼻腔でひとつ呼吸をして、5分ぶりに覚醒した。
「……恐ろしく、平熱だな」
36.6℃。つぶやきは思いのほか低く、かすれた。
そりゃそうだ。体調管理の一環とはいえ、寝起き早々無機物を口に含むなんて、日本人の生活習慣にはない。
その上で俺に限っては、ディスプレイの数値を記憶してはじめて、布団から起き上がることが許されるんだ。
「妊婦じゃないんだけど……っくしゅ」
苦笑はしても、バカにはできない。
鼻のむず痒さと身震いが体調不良からくるものではないと、判断できるから。
上体を起こし、南向きの壁を覆うカーテンを引く。
ぼんやりと朝ぼらけの滲むガラスが現れた。
目線と同じ高さで、つぅ……と指先を滑らせれば、その軌跡だけがクリアになって、青く萌える木々のシルエットを映し出す。
あそこよりもっと遠いところで、蝉が、合唱している。
そんな光景も、ひんやりと指先を伝う雫の温度にも、もう驚かない。
「……さむい」
声に出して、すぐに唇を噛みしめる。
首をすぼめて、罪のない畳をにらみつけた。
駄目だ、来るな。
近づく心拍音を遠ざけるために、深く長く、両肺から酸素を逃がす。
「はと……ちゃん」
ほとんど無意識だったろうか。
いまにも泣きそうな声が、無性に情けない。
俺は、なにをやっているんだ。
つっかえながら自嘲を飲み下した口内に、鉄の味が広がった。枕元に畳んでおいた紺のカーディガンを肩に引っかけ、寝間着のまま部屋を飛び出すのは、時間の問題で。
木造平屋建ての古民家には、うぐいすが棲んでいる。
広縁の見えないところにいるそれは、息を殺す俺の足音を、ご丁寧にも1歩1歩、さえずって知らせる。
そうとわかっていて、気配を消して、忍び足でゆく俺は、なにかやましいことでもしたろうか。
ろくに思考する距離はない。
目的地は、部屋を出たほんの5歩先なのだから。
やがて現れた木製の扉。
障子を隔てた六畳間とはまったく異なる空間が控えていることを、静かに、それでいて明確に思い知らされる。
冷え冷えとしたドアノブは、握ると何故だか異様に熱い。
ごくりと飲み下すほど唾液が分泌されているのに、口の渇きは増すばかり。
――この扉を潜ったら。
〝その先〟を想像したなら、もうたまらなかった。
爆発的な胸の高なりのままに、身を投げ打つだけ。
「…………か……ろう」
……けれど。だけれど。
「ばかやろう……っ!」
砂に混じる金のような倫理観を、ひとつまみでも掬いあげることができた。
越えてはいけない一線を踏みつけたとき、電流が走ったように我を取り戻して、込み上げる自己嫌悪を抑えきれない。
ガツ、と鈍い衝撃を前頭部に与えて、そのまま壁づたいにずるずるへたり込む。
なんて、惨めな。嘲笑いすら出やしない。
だけど、あの向日葵の笑みを散らしてしまうくらいなら、俺にはこれくらいがお似合いだ。
「……は、ぁっ」
脳を揺らしたからか。めまいがする。
呼吸は浅くなり、悪寒に混じって吐気がせり上がる。
改善策なんて、わからない。そんなもの、たったいま放り投げたんだから。
ただ、いつまでもここに留まることが最善策ではないことだけは、本能的に理解できた。
壁に体重を預けながら、よろよろと立ち上がる。
とにかく、一刻も早くここから離れたい一心で、鉛のような身体を引きずった。
部屋から遠ざかりさえすれば。安直な判断だった。
「ぷはー! 朝の一杯はやっぱり格別だねぇ。最の高!」
得てして現実とは、思い通りに行くようにはできていない。
神経伝導を一時停止した脳が、思い出したように痛みを訴える。そんな……嘘だろう。
「おやおや? 咲くんではないですか。おはようさ~ん」
誰か、嘘だと言ってくれ。
いままさに逃げてきた部屋の主と、遭遇してしまうなんて。
少し前に寝ぼけ眼で確認した鳩時計は、5時にあと一歩届かない時刻を刻んでいたはず。
朝陽もようやく顔を見せ始めたころで、周囲は互いの輪郭を判別できる程度の薄明るさ。
そんな早朝の勝手口で、ライトグレーのジャージ姿をしたはとちゃんが、牛乳瓶片手に目ざとく俺を見つけて。
へらりと頬を緩めながら、気の抜けるようなあいさつをされたら、どくり、と心臓が跳ねる。
「お、はよう」
「今朝はめちゃんこ早起きさんだね。どったの?」
「……よく、眠れたから」
誓って言うが、それは嘘じゃない。
安眠できたのは事実だ。起床してから、色々あっただけで。
そう、突き詰めれば、ここ数分間での出来事なんだ。
なんにせよ、いまはとちゃんを直視するのは辛いものがある。
不埒なことをしでかしてしまう前に、冷水でも被って反省するべきだ。




