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おやばと  作者: はーこ
11/26

*11* まどろむ朝

 ……ピピッ。


 まどろむ意識に、いまとなっては聞き慣れた電子音が割り込む。

 鼻腔でひとつ呼吸をして、5分ぶりに覚醒した。


「……恐ろしく、平熱だな」


 36.6℃。つぶやきは思いのほか低く、かすれた。

 そりゃそうだ。体調管理の一環とはいえ、寝起き早々無機物を口に含むなんて、日本人の生活習慣にはない。

 その上で俺に限っては、ディスプレイの数値を記憶してはじめて、布団から起き上がることが許されるんだ。


「妊婦じゃないんだけど……っくしゅ」


 苦笑はしても、バカにはできない。

 鼻のむず痒さと身震いが体調不良からくるものではないと、判断できるから。


 上体を起こし、南向きの壁を覆うカーテンを引く。

 ぼんやりと朝ぼらけの滲むガラスが現れた。

 目線と同じ高さで、つぅ……と指先を滑らせれば、その軌跡だけがクリアになって、青く萌える木々のシルエットを映し出す。


 あそこよりもっと遠いところで、蝉が、合唱している。

 そんな光景も、ひんやりと指先を伝う雫の温度にも、もう驚かない。


「……さむい」


 声に出して、すぐに唇を噛みしめる。

 首をすぼめて、罪のない畳をにらみつけた。

 駄目だ、来るな。

 近づく心拍音を遠ざけるために、深く長く、両肺から酸素を逃がす。


「はと……ちゃん」


 ほとんど無意識だったろうか。

 いまにも泣きそうな声が、無性に情けない。


 俺は、なにをやっているんだ。

 つっかえながら自嘲を飲み下した口内に、鉄の味が広がった。枕元に畳んでおいた紺のカーディガンを肩に引っかけ、寝間着のまま部屋を飛び出すのは、時間の問題で。


 木造平屋建ての古民家には、うぐいすが棲んでいる。

 広縁の見えないところにいるそれは、息を殺す俺の足音を、ご丁寧にも1歩1歩、さえずって知らせる。

 そうとわかっていて、気配を消して、忍び足でゆく俺は、なにかやましいことでもしたろうか。

 ろくに思考する距離はない。

 目的地は、部屋を出たほんの5歩先なのだから。


 やがて現れた木製の扉。

 障子を隔てた六畳間とはまったく異なる空間が控えていることを、静かに、それでいて明確に思い知らされる。

 冷え冷えとしたドアノブは、握ると何故だか異様に熱い。

 ごくりと飲み下すほど唾液が分泌されているのに、口の渇きは増すばかり。


 ――この扉を潜ったら。


〝その先〟を想像したなら、もうたまらなかった。

 爆発的な胸の高なりのままに、身を投げ打つだけ。


「…………か……ろう」


 ……けれど。だけれど。


「ばかやろう……っ!」


 砂に混じる金のような倫理観を、ひとつまみでも掬いあげることができた。

 越えてはいけない一線を踏みつけたとき、電流が走ったように我を取り戻して、込み上げる自己嫌悪を抑えきれない。


 ガツ、と鈍い衝撃を前頭部に与えて、そのまま壁づたいにずるずるへたり込む。

 なんて、惨めな。嘲笑いすら出やしない。

 だけど、あの向日葵の笑みを散らしてしまうくらいなら、俺にはこれくらいがお似合いだ。


「……は、ぁっ」


 脳を揺らしたからか。めまいがする。

 呼吸は浅くなり、悪寒に混じって吐気がせり上がる。

 改善策なんて、わからない。そんなもの、たったいま放り投げたんだから。

 ただ、いつまでもここに留まることが最善策ではないことだけは、本能的に理解できた。


 壁に体重を預けながら、よろよろと立ち上がる。

 とにかく、一刻も早くここから離れたい一心で、鉛のような身体を引きずった。

 部屋から遠ざかりさえすれば。安直な判断だった。



「ぷはー! 朝の一杯はやっぱり格別だねぇ。最の高!」



 得てして現実とは、思い通りに行くようにはできていない。

 神経伝導を一時停止した脳が、思い出したように痛みを訴える。そんな……嘘だろう。


「おやおや? (えみ)くんではないですか。おはようさ~ん」


 誰か、嘘だと言ってくれ。

 いままさに逃げてきた部屋の主と、遭遇してしまうなんて。


 少し前に寝ぼけ眼で確認した鳩時計は、5時にあと一歩届かない時刻を刻んでいたはず。

 朝陽もようやく顔を見せ始めたころで、周囲は互いの輪郭を判別できる程度の薄明るさ。


 そんな早朝の勝手口で、ライトグレーのジャージ姿をしたはとちゃんが、牛乳瓶片手に目ざとく俺を見つけて。

 へらりと頬を緩めながら、気の抜けるようなあいさつをされたら、どくり、と心臓が跳ねる。


「お、はよう」


「今朝はめちゃんこ早起きさんだね。どったの?」


「……よく、眠れたから」


 誓って言うが、それは嘘じゃない。

 安眠できたのは事実だ。起床してから、色々あっただけで。

 そう、突き詰めれば、ここ数分間での出来事なんだ。


 なんにせよ、いまはとちゃんを直視するのは辛いものがある。

 不埒なことをしでかしてしまう前に、冷水でも被って反省するべきだ。

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