第二話:異変
俺の通う高校には、大きな図書館がある。
豊富な緑に囲まれていて、空にまでそびえる時計台がこの図書館の特徴だ。
校舎からは随分と離れていて、俗世のしがらみさえもその場所には届かない。
俺みたいな本好きには堪らなく神聖な場所なのだ。
日曜の昼下がり、俺はちょっとした調べ物がしたくてこの場所に来ていた。
めぼしい本を数冊選び、時計台の長い螺旋階段を上がると、そこにはステンドグラスで彩られた時計裏がある。
チク、タク、と、正確に時を刻み続ける音の中で本を読むのが俺の日曜の日課だった。
「…今日はやけに静かだな…」
いつもは俺の他に二人か三人は大体この場所にいるのだが、今日は誰一人長い螺旋階段を上がってくる者はいなかった。
「まぁ静かで良いか、他の奴らがいるとくっちゃべってたりしてうるさいからな
この方が本に集中出来るってもんだ」
そう言って俺は手に持っていた本のページをハラリとめくり、深く深く物語の中へと入り込んでいった。
2時間ほど経った頃、3冊目の小説を取ろうとした時、ふと我に帰った。
「いけね、普通に本読んでたよ
今日は調べ物しに来たんだった
えーと植物と動物の図鑑は…っと」
分厚い植物図鑑を目の前に置き、持っていた鞄から大学ノートとシャーペンを用意した。
「平行日記書くのも良いけど、ちゃんと小説も書かないとな
来年こそは絶対応募したいし!」
実を言うと俺は今、平行日記とは別に新人賞に応募する為の小説も書いている。
だけど、設定も何もまだ曖昧で、今日はみっちりと構成を練るつもりだった。
図鑑の気になる項目をチェックして、大学ノートに書き写し、ふと浮かんだアイデアをノートの端に走り書きで書いた。
そうこうしている内に昼を回り、ケータイの時刻は16時になっていた。
おなかが鳴っているのもお構いなしで考え続けていた結果、俺の身体はフラフラになっていた。
「も、もうダメだ…
腹減りすぎてもう何も考えられねぇ…
図書館も閉まるし、帰るか…」
長い螺旋階段を下り、本棚の並ぶ一階に到達すると、人が6人ほどいた。
辺りは蛍光灯が何本か切れているみたいで、少し薄暗く、不気味な感じだった。
持っていた本を数冊借りていこうかと思ったが、図書カードを忘れている事を受付の前で気が付いた。
仕方なく本をあった場所に戻そうと本があったカテゴリーを探した。
図書館の閉館が迫る中、人々が帰っていくのを横目に、一冊二冊と戻して行くと残るは植物と動物の図鑑だけになった。
図鑑のコーナーは図書館の入口とは真逆の奥の方にあり、蛍光灯が更に切れていてほとんど真っ暗な状態だった。
別に暗闇は怖くはなかったが本を戻そうにも視界が悪く、なかなか戻す位置が見つからなくてイライラした。
「ん、あった!
ここか…!」
「…ッ!!?」
突然バチンと音がなると電気が一瞬で消え、辺りは真っ暗になった。
俺は驚き、尻餅をついた。
どうやら閉館の時間が過ぎ、図書館を閉めようとしているようだ。
「ま、待って!
まだ俺がいるぞ!!」
叫んでみても応える者は誰もいなかった。
暗闇の中、微かに日の光が見える。
俺はその微かな光を頼りに少しずつ前へと踏み出していった。
途中、棚の角に足をぶつけたり、何かに頭をぶつけたりしながら進んでいると、後ろの方でゴトンと物音がした。
「…なんだ?
俺の他にまだ人がいるのか…?」
振り向いて確認してみたものの、この暗闇ではよく分からなかった。
だが確かにそこに、何かいるのは感じた。
スピー…と寝息のような音が聞こえ、得体の知れない物がモゾモゾと暗闇に混じって動いていた。
こういう時、小説家を志す者の好奇心というのは裏目に出る。
別に確認したくもないし、早く外に出たかったが、何故か足は得体の知れない物の方へ向かっていく。
目が暗闇に慣れてきて、周りの状況がうっすらと見えてきた。
少しだけその姿を確認出来るようになった俺は、すっかり寝入って大人しくしているそいつに触ってみることにした。
なるべく刺激しないように、恐らくお腹と思われる辺りを…。
ぷにっ…とした。
毛がふさふさで、メタボリックなその体型に俺は少し癒された。
よく見ると鋭い爪をしていて口元からは大きな牙を覗かせていた。
身体全体は毛で覆われていてお腹以外の場所は少し固く、まるでモグラの毛のようだった。
「ふにゃ…」
何度もお腹を揉んでたら、突然そいつは起き出した。
俺はこの得体の知れないモノの前で微動だに出来ず、鼓動だけがバクンバクンと暴れ回っていた。
俺に気付いたこの物体は、いまだ夢と現実をさ迷っている感じでウトウトしていた。
「…にゅ?
………リ…ユウ…?」
「ッ!!!」
驚く事にこの得体の知れない物体は突然俺の名前を呼び、そしてその鋭い爪で俺を捕らえようと両手を振り上げた。
鋭い爪の先端が頬をかすめ、俺はよろけながらも走って逃げた。
どっかの角にスネをぶつけた気がするが、そんな痛みに構ってられないほど俺は焦っていた。
「な…なんだあいつ!
なんで俺の名をっ!?」
いまだ得体の知れないモノは後ろで目を光らせ、じっとこっちを見ていた。
とにかく俺は必死で逃げて図書館の入口まで走り、そのまま扉にぶつかるように拳を叩き付けて叫んだ。
「誰か!!
こっから出してくれ!
早く!!!」
誰かにこの悲痛な叫びが届いているのかも分からず、不安は募るばかりだった。
扉に背を向け、今にもその薄暗い本棚の角からあいつが現れるんじゃないかと、米噛みから汗がつたう感触を感じながら、俺は暗闇をただ睨み付けていた。
ガチャっと音が鳴り、扉が急に開いた。
寄り掛かっていた俺は尻餅をつき、気付いた時には仰向けになって明るい空を見ていた。
「だ、大丈夫ですか?
すみませんまだ人が残っていたとは知らず…」
受付をしていた女性がそこにはいた。
俺は素早く起き上がり、再び図書館の中を睨み付けた。
「ここ…
何かいるんですか?
あ、いや、ペットとか?」
女性は不思議そうな顔をして「いいえ」と答えた。
俺は「そうですか」と一言だけ言って、その場を立ち去った。
外は思っていたより明るかった。
ケータイの時刻は五時半を表示していて、季節は夏なのだから当然っちゃ当然だが、図書館の中はまるで時間が狂ってしまったんじゃないかと思うほど、独特の雰囲気に包まれていた。
家まで歩いていく最中、あれがなんだったのか考えていたが、分かるはずもなかった。
家に着くと何事もなかったように自分のベットに横たわった。
「あっ! ヤベッ!!」
天井を見上げてボーっとしていたら、ある事を思い出して、慌ててケータイを取り出した。
プルルル…と呼び出し音がなると、すぐにあいつは出た。
「ハイハイ、どうしたの?」
「あ、カオリ?
悪い、美術館行けなくて!
実はお腹の調子がおかしくてさ…」
必死の嘘だった。
今日はカオリに美術館に誘われていたが、図書館で話しの構成を練るのに夢中になって、スッカリと忘れてしまっていたのだ。
俺がバツが悪そうにカオリからの言葉を待っていると、カオリはいつもの調子で笑って言った。
「何言ってんの?
あんた来てたじゃん!
すごかったよねあの天地創造の絵、本当に今日はありがとう!」
「………え?」
俺は呆気に取られていた。
カオリの言葉が理解出来なかった。
今日俺がカオリと一緒に美術館に行ってるはずはない。
それは俺が1番分かっていた。
「あ、そうだ!
言おうと思ってたんだけど、今日の服装ちょっとやめた方が良いよ?
ちょっと一般ウケしないかなーハハ!」
次々と喋るカオリの言葉が最初の時点でこれ以上頭の中に入って来なくなっていた。
俺はそこに行っていない事をカオリに話す事が出来なかった。
ただでさえ自分が混乱しているのに、カオリまでも混乱させる必要はないと、口をつぐんでいた。
「それでさー
あの絵画の意味なんだけど、あたしが思うにはねー…」
頭の中に何も入ってこない。
今日は変な一日だった。
―つづく―