魔法学院、設立②
山本は塩をかけたようにしんなりしていた。
それもそのはず、ゆきねが不在になる前にとたくさん遊びに誘い、そしてついにはゆきねの入寮まで家族の代わりに手伝ったため宿題は俺が貸した社会の課題しかできていないという。
なんといういさぎよさか。惚れてしまうわ。
「うぅ……友情は全てに優先されるものですぅ、先生……」
山本はそんな風に哀れっぽくしくしく泣きながら「はーいセンセーとちょっとお話しような」と生徒指導室に連れて行かれていた。子牛を見送った俺は近くに寄ってきた千歳にふと目を向ける。
「今日の午後だったか?査察官、みたいなのが来るのって」
「うん。ほら、芳賀さんが魔法学院に行ったでしょ?その関係でここが選ばれたらしいんだ。お父さんから聞いた極秘の話だけど、僕の学校が関係あるから聞いておきなさいって」
千歳がニコニコしながら喋ってくれたが、俺はそれを聞いてちょっと驚いている。
「へえ、ぺらぺら喋って良い情報なのか、それは?」
「あんまりよくないかな。だから谷内君には言ってない」
「……まあ、信用されてるこって」
俺は机の上に教科書を出しながら、空っぽになった隣の席を見つめた。
「査察官、ね」
嫌な響きだ。少なくとも俺が軍人として国に仕えていたころ、文官が一番厄介な手合いであった。頑固だし、質問を一つしたところで四角四面通り一遍の答えしか返してこない。やれあの部署は金銭使いが荒いだのいちいち文句をつけてくるものだから、何度か衝突したことさえある。
監査官はその文官の中でもエリートだ。とはいえ、こうして数人で学校へと派遣されるということは、国王の融和派閥でなければ制圧要員だ。気を抜くことが出来るわけがない。
がらりと扉が開くと昼休みの喧騒に沸いていた教室が静まり返る。皆が興味津々で扉のほうを見ていると、先生が人を伴って入ってきた。その人影は、ひどく見覚えのある姿だった。忘れるはずも無い。忘れられるわけもなかった。すらりとしながら女性らしい体躯、滑らかで綺麗な赤毛、サファイアを入れたような青い目。
魔王討伐の前に別の人間に託したはずだった。
「――っ」
叫びだしそうになる口を無理やり押さえ込んで、その姿を見る。
孤児院にいたとき、その赤い髪が自分と一緒だと八歳下の彼女は笑っていた。兄妹のようだと、嬉しそうにしていた。自分が魔法学院に通っていた時は妹だと公言することで彼女を守り、そして彼女もまた兄妹だから、兄に愧じぬように強くなりたいと。
魔王討伐隊に選ばれたときに彼女を、共に孤児院から育った幼馴染と魔法学院の長に頼んだはずだった。
真っ赤で鮮烈な赤が、目を焼いた。強烈な無表情が、ひどく胸に刺さった。
「はじめまして。ヴィオレッタ・ギリアムと申します。急遽決定した査察任務のため、文官の制服にて皆様と共に授業を受けさせていただきます」
「と、言うわけです。皆さん、くれぐれも慎んだ行動を取ってください」
くれっぐれも、という強調したイントネーションに先生の切なる思いが漏れていたが、年頃の男子高校生には美人の赤毛の子、という気持ちしかなく、「おっぱいでけえ」「やっべ、美人」などという言葉がちらほら聞こえた。
締め落としてやろうか。
「では、ヴィオレッタ様はあちらの空席にお座りください」
「教授。私は学徒でありますゆえ、呼び捨てで構いません。敬語も必要ではありませんので」
「は、いえ、わかりました。座って」
ゆきねの座っていた席に、ヴィオレッタが座る。山本がちょっと顔を背けたが、今の不注意な俺には見えていただけで認識ができていなかった。ちら、と横を見る。ヴィオレッタがいる。
「何か?」
怪訝そうな顔を向けられて、俺ははっとした。今は、今の俺は日比野識だ。
「いや、教科書は持ってんのかと思って……」
当たり障り無い回答をすると彼女は「問題ありません」と空中に手をついと伸ばし、文字を書きながらぶつぶつ呟いた。そこから次の時間割の教科書が取り出される。
「すっごぉーーーい!」
カースト上位の少女が立ち上がり(名前を忘れたがきららだかきらりだか)、目を輝かせた。
「今の、魔法だよね?すごいすごい!ね、もう一回見せて!」
「必要以上の魔法の開示は機密上回避する必要がありますので、お答えしかねます」
うわ。
うわあ。
めっちゃ文官やん。
「……では、教科書の78ページを開いてください」
ぺらぺらと教科書を開き、それから閉じないように筆箱を置いて腕を組む。そう難しいわけでもない学問は、ひとまず横へ放り出す。
「それじゃ、日比野君、ここから読んでもらえますか」
「はい」
がたりと立ち上がり、声に出して文章を読む。いらいらさせられるような時間の中、隣の少女がすっと立ち上がり、そして眉を少しひそめたまま発言した。国語の教員はぎょっとして、それからどうぞ、と促す。
「このような講義を毎回行っていると?」
「ええ、そうですが、何か?」
「教科書を読む行為は必要ですが、ここは自主的に勉学を行う学生が来ているはずです。当然授業前に教科書程度は網羅しているはずでは?」
「国語という教科は特殊です。あなたの世界にも文学作品はあるでしょう。詩や音楽、芸術的な作品を味わう授業です。もちろん読んでくることは大切です。ですが、音に出して話すということは非常にその人の解釈を含むのです。例えば、日比野君。「僕は虹を見ながら、なんだか泣きそうになってしまった」という部分、どう解釈していましたか?」
「俺は……えーとですね。やっぱ虹ってレアでしょ?だから友達とか写真送り付けて、すごい物見たって共有したいじゃないですか。なのに今『僕』は友達と喧嘩してるわけで、そういうことが出来ないから、寂しいとか、悲しいとか?」
「そうですね。ですが、虹という綺麗な風景が友達と喧嘩した自分とあまりに違いすぎて、惨めになった、という想像も出来るわけです」
国語のおばあちゃん先生は、にっこりと笑ってそれからヴィオレッタを見た。
「どう思われますか、ヴィオレッタさん?」
「ええ、私の失言でした。この教科に限っては、読み合わせは全く無駄ではないと感じられました」
おい今この教科に限っては、って言ったな?マジで毎度の授業に噛み付くつもりなのかよ。あっちで生きてたころは俺の服の裾掴んでべそべそ泣いてた子供が、どうしてこんな狂犬みたいになってしまったんだ。
「あら、いけない。次の授業は体育だったわね。水泳でしょ、ちょうどキリがいい部分だからこれでおしまいにするわね」
上品に笑って彼女はその場から退室して行った。
「……あ」
そして俺は水着を忘れたことに気がついた。
「センセー、すいません。水着忘れました」
「はいよ。じゃあお前の評価は1な」
「普段の体育はそれなりにまじめじゃないですか」
「体力がなさ過ぎるからな?まじめだからと言ってあまりに体力が無い人間を5にできるかよ」
「チッ」
「先生に向かって舌打ちするやつがいるか」
頭が割れそうなチョップをひらりとかわすと、「反射だけ無駄にいいくせしやがって」と歯ぎしりされる。
「すみません。スイエイとは一体?」
「あ、ああ。水泳ってのは、水の中で泳ぐ授業だよ。体育の一環でな」
「は、はあ!?み、み、み、水の中で泳ぐんですか!?正気ではありませんよ、何をおっしゃっているんですか!?」
まあ、そりゃあこういう反応になるんだよなあ……。
ヴィオレッタはぎょっとしているが、俺もまた水泳を知ったときぎょっとした。今はちゃんと泳げるけども。
そもそも向こうの世界においては、水辺というものは超危険なのだ。引きずり込む系の魔物もいれば水中でがちがち歯を鳴らしてるやつもいる。で、魔法はほとんど使えない。
つまり、泳ぐ=自殺である。
「あんたんとこではどーだか分からんけども、とりあえず見学だけしてみなよ。色々分かるかもしれないぞ」
「け、け、け、見学ぅ……!?」
どもり方やべえな。
「ほら、行こうぜ」
さっと手を取れば、存外素直についてくる。山本が見ていることを今更意識したが、俺からは特に何も言うこともなかったので黙って横を通り過ぎる。
見学のベンチに座らせると、ビビリまくった彼女はかちこちになってできるだけ遠ざかろうとする。
「お、お、おみずが、こんなに近くに!?」
「うぉー、今日もベンチくそあっちいな。そこ、日が当たってるだろ。こっち座れよ」
「え、あ、いや、っそ、そっちは、ひゃん!?」
じりじりとした日差しはひどく肌を責めて来る。俺はそこで口を開いた。
「さっき、アンタが言ってたことはある意味正論だ。俺たちの国は、常に命が危険にさらされてるわけじゃない。だから義務教育でない高校生は勉学のみに取り組んでるわけじゃないんだよ」
ほら、と皆を示す。
楽しそうにはしゃぎながら、水を掛け合う女子。その様子を見ながら端っこで誰がおっぱいが大きいかと話している男子。いやそれは止めとけよ、女子が気づいて睨んでるぞ。俺は見るけど。
「しかし……私は、やはり学ぶ環境があるのに学習しようとしない人間が理解できない。私は……知識とは、人を守る盾になってくれるものだ」
「そうだな。だがこの国にはしがらみが多くある。戦うことは罪だと、皆が恐れている。だから魔法学院もあとくされのない人間を選び始めたわけだ」
「――そんなことは」
「隠すことはねえよ。自分で金を稼ぎ始めるか、誰かを守って金を手に入れるかの違いだろ。別にエリートだから行く場所じゃねえ。偉いさんが何人かねじ込もうと、やはり必要なのは『使い捨て』の人間だ。違うか?ゆきねは家族との折り合いに悩んでいた。数人調べたが、それなりに何かを捨てたがっている人間だったぞ」
ヴィオレッタは表情をほとんど変えないで、それからちょっと唇を引き結んだ。いえないことがあるときの癖は変わっていないらしい。
さらに問い詰めようと口を開きかけたとき、がいんとチョップが振り下ろされ、俺は焼けた地面に転がり落ちて二度苦しみを味わった。
「物騒な話してんじゃねえよ、国家機密かてめえの脳みそは」
「あっつ、いってぇ!ちょ、何するんだよ怪力ゴリラ!いやもうキングコングでいいわ!腕力お化けか!」
「お前が貧弱すぎるだけだ。……あんまり転校生をいじめてやるなよ?」
釘を刺されて、俺はちぇ、といじけながらベンチに戻る。さっきまで座っていた距離より少しだけ彼女は離れたが、俺はきらきら光る水を見ながら山本が25mを泳いでいるのをぼんやり見ていた。
すっ、とその姿が水の中に沈んで、それから泡がごぼりと浮かんだ。血の気がざっと引いた。薄いが、魔物に類する魔力を感じる。まだ誰も気づいていない。
「先生!山本がおぼれた!」
「はあ!?ちょっと待て、どこだ!?」
「俺が引っ張ってくるから引き上げてくれ!」
「って、おま、ちょ!?」
第五レーン、その端にほど近い場所。そこに山本がぐったりしておぼれており、その首と足元には髪の毛がくっついている。どろりとにごった水のような中から、それが伸びている。デルヴァーネ、だったか。ためらわず飛び込んで、まとわりつく水を掻き分けながら進む。
「ごぼっ……!」
またひとつ泡を吐き出した山本は、苦しそうに首をかきむしった。
ばれてくれるなよ、そう願いながら、右腕に文字を書くと、その髪の毛に触れた。髪はその瞬間蒸発したように消え、いやな悲鳴が耳をついて山本の足首にくっついていた髪の毛もするりと解ける。
ほとんど胸が出るほどの水深のため、足を着けるように立つだけで肩を支えている山本は水から顔が出る。ぐったりしているが、咳き込んでいるので一応は安心だ。
「大丈夫か?」
「けほぅ、ゴホッ」
先生がレーンの外から手を伸ばし、それから山本を引き上げる。ヴィオレッタをちらりと見ると、彼女はこっちを見ながら安堵したように胸に手を当てていた。
「先生。引き上げてくれ。服が重くて上がれねー」
「……お前、マジでどうして今助けに入ったし」