2話
女である。
長く艶やかな甘栗色の髪と、山の中にあってなお汚れひとつ知らぬ桃色の着物、新緑色の帯を巻いたその姿。
あまりにも場違いな姿に、若い修験者は己の正気を疑った。
先ほどまでは誰もいなかったはずだ。
それに、自分とあの高僧のやりとりを見ていたはずなのに、どうにも彼女は平然としすぎている。
表情の読めない瞳は、嘆くでもなく喜ぶでもなく、ただただ高僧の消滅した跡を眺めている。
女の顔がこちらを向いた。
この世の者とは思えない、美しい顔立ちであった。
絶対的な容姿を前に、つい目を逸らしてしまう。
山育ちがゆえ、ただでさえ女人に慣れていないのに、こんなに美しい人と目を合わせることは、耐えられない。
高鳴る心臓をどうしたものかと……いや、それよりもこの状況はどういうことかと頭を巡らす。
すると女が寂しそうに笑った。それが彼女の見せた最初の感情のこもる仕草であった。
「お前も私を見てはくれないのだな」
――あぁ、そうか。
その美貌、その仕草に合点がいく。
悪鬼として封印されたのは彼女であったか。
しかして彼女は悪鬼などではなかった。
どう話が拗れたかは知る由もないが、あの老僧が封じたのは女神であったのだ。
山の神。
この山を司る存在である彼女が、悲しそうにクククと嗤う。
「あの村人たちも、醜い私の姿を恐れ、毎年毎年、凝りもせずに虎魚を寄こす。
……私は、随分と醜い姿であることだろう?」
女神と呼ぶにふさわしい佇まいではあるのだが、しかしながら彼女はそのことに気が付いていない。
「あの男は、私を封じ込めた。醜い悪鬼であると。
それでもいいと思った。誰からも嫌われ、疎まれるくらいなら、消滅してしまったほうがましだ」
女は再び高僧の消滅した跡を見遣る。
「この男だけだった。死してなお、私と一緒にいようとした者など」
話の全容が見えてきた。
如何に高名な僧とて欲望には勝てなかったというわけか。
己は……どうする?
思考を逡巡させる。
彼女に真実を教えるか? それとも、滅するか、封印するか。
あの僧のように欲望に身を任せるのもいいだろう。この霊場であれば自らの存在を変質させることだって可能だ。
……なにより、この女は美しい。
いや、それならばいっそ……
「一緒に来るか?」
カラカラに乾ききった喉で、そう告げる。
「お前は……いや、あなたは俺の知る限り誰よりも美しい。
だから一緒に……それこそ夫婦の契りを交わしたっていい」
そう言って一歩近づくが、近づいた分だけ女は後ずさる。
「嘘をつくな。そんなわけあるものか。誰も私に、美しいなどと……」
――それに、私は、この山からは離れられない。
既に僧によってかけられた封印は解かれた。
であるならば、それは山の神としての役割のことを言っているのだろう。
「あなたはずっと封印されていたから、知る由もないだろうが……
既に神がいる山の方がずっと少ない」
嘘だ……と女が力なくつぶやく。
自由、と言っても彼女には理解できないだろう。
「あなたは美しい。山を下りて、穏やかな川に自らを映せばわかることだ」
「私は……」
「それに、きっと山を下りれば誰からも見られなくなる。
私や、そういった鍛錬をしたものは別だろうが」
「……あなた様は、私を守ってくれますか?」
「私の妻になるのであれば」
「それは……」
「冗談だ。けれど、あなたが望むなら、いつだって」
彼女の手を引いて山を下りる。
途中村に立ち寄ったが、案の定誰にも女の姿を見ることはできなかった。
傷を負った己の姿を認めると、一同に動揺が走ったが、
醜い老人の姿をした山の神は滅したので、今後一切山に虎魚を奉納する必要はないと告げると、歓喜に包まれた。
その晩は、心の平穏を得た村人たちにもてなされ、村長の家に宿を借りることになった。
蛙の声を背景に、彼女と並んで星を眺める。
「この後はどうされるのです?」
「一度育った山に帰ろうと思う」
「……では皆、私が見えるのですね」
彼女の言葉から不安が伝わってくる。
既に自分らの生業に関しては伝えてある。不安になるのも無理はない。
「大丈夫だよ。俺なんかよりよっぽど優しい人たちさ」
彼女を連れて帰れば、あの師匠も仰天するに違いない。
その顔を思い浮かべると笑いが漏れてくる。
「どうかされました?」
「いや、幸せだな、と思って」
そう、己は幸せである。
どれだけの鍛錬を積もうが、悪鬼を滅ぼそうと決して満たされなかった心が、今はどうしようもなく満たされている。
これが人らしい感情なのか。
まさかそれを神から教わるとはな。
そう思うとやはり嬉しく、彼女と握り合う手の感触をひしと確かめた。