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山の神  作者: 水無飛沫
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1話

山の入り口に男が立っていた。

白い鈴懸の装束の上に結袈裟を纏う典型的な修験者の出で立ち、背中に笈を背負っている姿はいかにも、と言った具合である。


鬱蒼と生い茂る木々の中からは、けたたましい程にセミの声が漏れ出てきている。


――綺麗な山だ。


付近の村人には散々止められたのだが、修験者は構わずに山に入っていく。

悪しき鬼を退治する。それを己に課された天命だと信じて疑わない顔つきは鋭く、眼は油断なく周囲を警戒している。



その山には恐ろしい鬼が棲んでいるという伝説があった。

遥かな昔、とある高僧が鬼を調伏したが、完全には封じきれなかったのだという。

それ以来、この山への立ち入りは禁止されていた。


それから数百年が経つというのに、村人は未だに恐怖している。

親から子へと語り継がれる救いのない童話のような物語、そこに出てくるあまりにも醜く、あまりにもおぞましい悪鬼の姿を。

その為、村に災いが降りかからぬよう、未だ毎年欠かすことなく虎魚を奉納しているというのだ。


彼らは鬼が再びかつてのように凶行に及びやしないかと常々怯えていた。

そんなところに「鬼を退治してやる」と息巻く若い修験者がやってきたのだ。

それはそれは肝の冷える思いをしたことだったろう。


……男が山に棲まう鬼を刺激してしまわないか。


誰もこの若い男の素性も実力も知らないのだから、その恐れは至極真っ当であった。

現状鬼からの害はないと説得してみたり、語り継がれる鬼の悪逆非道さを語るなど、

なんとかして男の決心を踏みとどまらせようとするものの、その修験者は頑として山へ行くことを諦めない。


ついに折れたのは村人たちの方だった。

一切の助力をしないこと、万が一何かあっても鬼には自分たちのことを喋らないということを条件に、山中の虎魚を奉納する場所を教えたのである。



さて、夜明けというには少し遅いが、朝と呼ぶにはまだ少し早い刻限。

木々の隙間からは薄っすらとした明かりが差し込んでくるが、周囲を見通せるほどの光量はない。

湿り気を帯びた空気は未だ冷たく、土のにおいを漂わせている。


蟪蛄の独特の経のような鼓膜を震わせる振動音に、意識が遠くなっていくような感覚に襲われる。

しかし、それが却って集中力を高めてくれている。


――あぁ


ニヤリと己の流派の原点を思い出して、男が笑う。

今ならば悪鬼どころか、神にすら届きそうな気がする。


彼の流派は他の修験道とは少し違っていて、神を縛ることにその重きを置いていた。

印を結び、神(真)言を唱える。

荒ぶる神を調伏し、悪鬼羅刹を滅殺す。


「然れば、それは慈悲でなければならぬ」


師の言葉を反芻する。

けれど、山を出ることのなかった己には、それが理解できぬのだ。

破門同然で山を追い出されはしたが、それでも我は人を救いたいと思っているぞ。


誰にともなく否定を口にして、先ほどの村人の様子を思い浮かべる。

あれは怯えていた。

あんな怯え続ける生が、正しいものであっていいはずはない。


これは人助けだ。



自らに言い聞かせると、若者はなおも山を登り続ける。

やがて村人に教わった場所に辿り着くころには、既に太陽も中天に差し掛かっていた。


額の汗を拭う。


森の中にぽっかりと穴の開いたような場所であった。

遮るものの無いため、太陽の光が直接降り注いでいる。

まるで木々がその空間を避けているようで、膝のあたりまで伸び切った草が所狭しと密生している。



かつてこの地を荒らしまわった鬼が棲むというには、余りにも穏やかな場所であった。

和んでしまいそうな心を制し、息を深く吐く。

精神統一。鬼はこの辺りにいるはずだ。


念珠を片手に握りしめ、もう片方の手で錫杖を打ち鳴らす。


「ॠ」


真言を唱え周囲に気を張り巡らせて確信する。

間違いない、ここは霊場だ。


かつて鬼をこの地に封印しようと戦った場が、まさにここなのだろう。

霊場は僧や修験者といった、仏や神……この世ならざる者の力を借りて戦う者にとっては聖域であるが、

相手がその『この世ならざる物』だった場合は、途端意味のないものになってしまう。


(であるのならば……相手は鬼などではない)


より上位の存在。

山にいるのであれば、それは間違いなく……


――山の神。


ごくり、と喉が鳴る。

己はこれから神を調伏する。

失敗すれば、どのように言い繕おうがあの村に迷惑をかけることになるだろう。


己の弱い心を打ち消すように、もうひとたび錫杖を打ち鳴らす。

シャン、と綺麗な音が周囲に響くと、山に吸い込まれるように消えていく。

幾たびも危機を乗り切ってきた相方が、今はなんとも頼りない音に聞こえてしまう。


どうしようもない己の思考に、つい苦笑を漏らしてしまう。

一体どうしたというのだ。いつもの己の傲慢なほどの自信は何処へ行った?


己を奮い立たせようと、自問自答を繰り返していると、一気に場の空気が凍る。

敵意ある部外者の気配を察したのだろう。神が降りて……くる。



「…………っ」


一見すると、それは老人の姿をしている。

襤褸を纏ってはいるが、爛れた顔からは骨が覗いている。

こちらの姿を認めたのか、ニタァと唇が横に裂けたかと思うと、抜け落ちボロボロになった歯が露出した――恐らく笑ったのであろう。


神や鬼というには、あまりにも俗世じみている。

即身仏と言われれば納得もできようが、この有様はどちらかというと悪霊の在り方であった。


「ओ」


錫杖を打ち鳴らし、真言を放つ。

雑霊であれば耐えきれずに霧散してしまう術を、その老人はボソリと何ごとかを呟くと打ち消してしまった。


その様子を見て、若者はひとつの結論に達する。

不安が心を苛んでいる。


続いて老人の放つ言霊のひとつひとつが、呪詛のように若者に圧し掛かる。

そう、己はここに来た瞬間から攻撃されていたのだ。

心が闇に蝕まれ、生きるという欲動を放棄してしまいそうだ。

視界すら徐々に闇に染まっていく中で、老人の怨嗟だけが耳にこびりついているかのようだ。

当たり前だ。ここは彼にとっても霊場なのだから、己のような未熟な修験者には、とても伝説に語り継がれるような高僧には勝てやしない。

絶望の中で、錫杖を……


錫杖を、己の膝に突き立てた。


痛みが頭をすっきりさせてくれる。

それだけではない。血液(生命の象徴)が、死から己を解き放つ。

血に濡れた方の手で念珠を握り直し、経を読み始める。


「念仏四十九万経」


高僧の変わり果てた姿にこそ相応しい、地獄の慈悲を書き記した念仏である。

唱えながら、若者は念珠を老人に投げつける。

珠のひとつひとつに、男が毎晩念を込めているのだ。そこに込められた法力はこの場と組み合わさって、老人を無理やり地獄へ送るには十分なものであった。


脚の痛みをこらえながらも念仏を続け、悪霊となり果てた高僧を見送ると、男はもう一つ、別の気配があることに気が付いた。

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