贈呈 連環二部合奏
おう、こーらくん。こんな遅くまでリコーダー練習かい? 熱心なのは結構だが、そろそろ下校時間なんでね。帰る準備をしてくれないか。
――なに、リコーダーを上手く吹くコツ?
そうだな、ちょっと一曲吹いてみなよ。短い奴でいいから。
うん、だいたい分かった。こーらくんは穴を押さえていない指が、穴そのものから遠ざかりすぎている。ぴんと天へおっ立てるものだから、音の運びが間に合わない。
加えて、指の上げ下げに力が入りすぎ。そんな指先が白くなるほど押さえられちゃ、笛が可哀そうだ。
別に茶化してないぞ。入りすぎた力は動きを鈍らせ、音を固くする。もっと柔らかく、優雅に優雅にだよ。
それにしても懐かしいな。先生もね、学生だった時にはリコーダーをよく練習したものだよ。その時にちょっと不思議な体験もしたんだ。
どうだろう? 興味があったら聞いてみないか?
先生が小学校の4年生ごろの話。先生はリコーダーを吹きたがるくせに、その音色ったらひどいもので、形が整うまであまり他人に聞かせたくなかった。
だからひとりで練習することを好んだんだ。家の中じゃ家族に聞かれるから、ひと気のない河原によく向かったっけなあ。
で、再びリコーダーのテストが迫り、先生はさっそく練習へ。
いずれの橋からも遠く、邪魔な音が入らないこの河原で、日が暮れかけるまで練習するのが先生の常だった。だが今日は先客が来ている。
クラスメートの女子のひとりだ。ピアノを弾くことができて、それだけでクラスだと一目置かれていたけど、歌や他の楽器の扱いもうまい。先生は彼女のことを、どこか違う次元の人間のように感じていたんだ。
それが今、ここでリコーダーを吹いている。先生のいる土手に背中を向けて、川面へ縦笛の調べを送り続けていたんだ。
場所を変えようかなと思いつつも、ふと彼女の演奏を聞いていて気付いたことがある。
今回テストされる箇所は、すべて演奏すると1分近くになる長いもの。彼女はそのうち3分の1ほどの節を、延々と奏で続けているんだ。
大きなミスはなく、澱みなくフレーズを終えても、すぐに頭へ戻って吹き始める。今度はところどころの微妙な音の強弱や、伸ばし方に手を入れて。
間に休憩を挟まない様子は、あたかも楽譜がそのまま続き、それに従っているかのような動きに見えたんだ。
20分くらい、吹き続けていただろうか。彼女はゆっくりリコーダーから口を離す。うつむき気味に小さく首を振り、不満げなご様子だ。
とすん、とその場に腰を下ろす彼女。普段からそれなりに話をする仲だし、先生は彼女に近づいて声を掛けてみた。
彼女は少し驚いた顔をしたけど、先生が握ったままのリコーダー袋を目にすると、「練習?」と首を傾げてくる。先生がここまでの経緯を話し、彼女の演奏の上手さについても触れたけど、すぐにその表情が険しくなった。
「いや、全然ダメ。もっと続けなきゃいけないの」
「あそこのフレーズを? テスト範囲はもっと広かったと思うけど」
「うん、あそこだけ。完璧に完璧を重ねても、仕上げなくっちゃいけないの」
それがあの調整を続ける、繰り返し演奏なのだろう。先生は少し感じるところがあった。
先生は楽譜通りに吹くことで精いっぱいだが、彼女は楽譜通りであることを必ずともよしとしない。曲を壊さない程度に工夫し、どのように印象付けようか考えているんだ。
先生が考えているゴールよりもっと先を目指す彼女の姿勢を、少しかっこいいと思ってしまったんだよね。
先生は思い切って、彼女に師事することを願い出たんだ。これまでの自分ひとりの練習は確かに気軽だったけど、そこからの修正はあくまで自身の素人判断。とんちんかんな恐れがあった。
その点、実力があり、練習に手を抜いていないことも知れた彼女なら、先生の下手くそな演奏も笑わないんじゃないか、とも思ったんだ。
彼女は快諾してくれたけど、条件がつく。それは彼女が挑み続けていたフレーズを、先生も徹底的に続けること。抑揚をつけながらの演奏を、彼女は求めてきたんだ。それを終業式の日まで、天気の良い日は付き合って欲しいという。
それから晴れの日は、二人で件の河原へ行って、リコーダー練習に励んだ。実はこーらくんに先ほどした指摘も、彼女からの受け売りさ。君とまったく同じミスを、先生も犯していた。ほどなくテスト範囲の演奏は問題なくこなせるようになったけど、次は先生が、彼女との約束を果たす番だ。
彼女は先生の前で手本を見せ、その通りに吹くよう指示を出すのだけど、これがべらぼうに厳しかった。拍子や音程のわずかなずれも耳ざとく見つけて、何度もやり直しを要求してくる。いずれも、先生の耳では判断しきれない細かい点だ。
何度頭に血が上ったか知れないけれど、約束は守れと言い聞かされて育った先生は、必死についていく。やがてリコーダーテストがつつがなく終わっても、先生は彼女の求めるレベルまで及ばず、河原で過ごす時間は続いた。
20秒ほどで何度も繰り返されるフレーズは、アレンジの順番が決まっていたんだ。
1回目は楽譜通り、2回目は全体を1オクターブだけ下げて、3回目は逆に1オクターブ上げて……という具合にね。更に先生用と彼女用で分かれているらしく、途中から互いのアレンジ内容も別になる。
これらを一切のミスなく30分続けなければならない。例の不満そうな表情で首を振ることもしきりだったよ。
何がそこまで彼女をかきたてるのか尋ねると、「この演奏が大切な贈り物になるから」とのことだった。ついでに、もし先生が手伝ってくれなければ倍の1時間を、自分で吹かねばいけない羽目になっていたとか。
もしかして、誰かがこの演奏を聞きにくるのだろうか。ここまで来た以上、先生は最後まで付き合うつもりだったし、手前みそながら、このフレーズに関しては誰に見せても恥ずかしくない出来だと思っている。
それにしても妙な話だ。奏者がひとり増えただけで、演奏時間が短くて済むなんて。
そしてクリスマスも間近に近づいた終業式の日。年末ならではの大荷物を担いで、先生たちはあの河原へやってきた。
いつも練習している定位置へ移動する。想定していたようなギャラリーはなし。並んでリコーダーを袋から取り出すと、彼女は先生に向かって頭を下げる。
「まずお礼を言っとくね。ここまで付き合ってくれてありがとう。君のおかげで、だいぶ助かることになっちゃった。
で、この本番なんだけど、一発勝負じゃないからその点は安心して。ただ、成功するまで何度でも繰り返すことになる。たとえどんな妨害があろうと、夜になっちゃったとしてもね。
遅くなるのが嫌なら、帰っちゃってもいいよ。私が徹夜してでも、ひとりで仕上げるから」
「そんなにあおらなくても」と、先生は早くもリコーダーに口をつけて、何度か短く音を出す。動作には問題なし。
それを了承と取った彼女は、自らも笛をくわえて先生を横目で見ながら、右足を軽く上げる。彼女がつまさきで「とん、とん、とん」と三回地面を叩いたなら、それが始まりの合図だ。先生たちのリコーダーから、同時に音色が流れ出す。
やがてパートが完全に二部に分かれた。彼女は高音、先生は低音、同じタイミングで重なり合う二つのメロディが、延々と紡がれていく。
50回目あたりのリピートに差し掛かった時、先生の前で奇妙な景色が展開されていく。
先生が正面に見据えるは、中州に挟まれた幅数メートルの川の水。その水面の真ん中から、フラフープらしき輪っかがひとつ、少しずつ浮き上がってきたんだ。
輪は水でできている。ゆらゆらと輪郭を乱しながらも、大本の形を崩そうとしないその姿に、思わず目を見はりかけて、ちょんとふくらはぎの後ろに彼女の靴が触れてくる。「気にせず続けろ」ということだろう。
残り10回ほどで、水のリングはほぼ川面から離れ、宙へ浮かび上がった。
そうして90回目。ちょうど30分を迎えるように調整されている演奏を終え、先生たちは同時に笛から口を離す。にもかかわらず、耳にはまだ件のフレーズが流れ続けていたよ。
用心深く聞くと、それは川の方から。すっかり浮き上がった、その水の輪から聞こえるようだった。
「――続きに続いた演奏で、大きな大きな環を成した。終わらぬ音を閉じ込めて、永遠の誓いといたしましょう」
そう告げる彼女が、すっと腕を川に向けて差し伸べた。すると、これまでゆっくり持ち上がっていた水の輪が一気に速さを増し、空へ向かって飛んでいく。それを見上げる彼女に合わせ、頭の上を仰ぎ見た。
青い空の真ん中に、白い雲がひとつだけ浮かんでいる。ドーナツを思わせる大きな穴の開いた輪の形は、川の中から浮き上がったものと同じ。その穴の中へ水の輪が吸い込まれていくと、今度はにわかに雲が大きくなり出した。
あっという間に先生たちの視界を埋め尽くすほどになり、地面へ落ちてくる雲の塊。一瞬だけ先生たちの周りから視界も熱気も取り去ると、「ぱしゃん」と川の真ん中に水柱を立てて、それっきり。一向に浮き上がってくる様子はなかった。
それを見届け、改めて頭を下げてくる彼女に、先生は事情を聞く。すると彼女は、これが空と大地の指輪交換だったというんだ。
人が代謝によって、日々新しい身体になっていくように、空も大地もまた変わり続けている。一年をかけてゆっくり変わってしまうそれらは、毎年、結婚しなおさないといけないのだとか。
だから彼女はリコーダーの音色で指輪を作った。何度も繰り返す旋律は、変わらない思いの証。それを閉じ込めた指輪こそ、たとえ姿が変わっても、変わらず天地を支え続けていく誓いの現れだと。
「でも、今回は違う。私が作ったのは空の分の指輪だけ。川から出てきた大地の指輪は、紛れもなく君自身が作ったものよ。
今日はこんなにいい天気。空が指輪を気に入ってくれた証拠なの。最高の贈り物ができて良かったわ」