第6話 「正直かなり助かる」
大講義室を逃げるように後にした霧生が早足で向かうのは武術区であった。
ユクシアのこともそうだが、他にも考えるべきことが数多くある。
霧生は片手にある祖父の文に視線を下ろし、胸のざわめきを鎮めようとする。
しかし、ユクシアの赤くなった顔が脳裏に焼き付いていて、霧生はまた赤面した。
「ああクソ、最悪だ……」
先程の言葉を取り繕うつもりはないが、何とも自分らしくないことを口にしてしまった。
次に会った時、あれを種に弄ばれるのが今から目に見える。もっと別の言葉は無かったのか。
ユクシアもユクシアである。
胸の内に仕舞って置けば良いことをわざわざ伝えてきた。
霧生にユクシアを楽しませたいという想いがあるように、彼女にもまた似た想いがあったなど、嬉しいに決まっている。
卑怯にも程があるだろう。
そして彼女が祖父の件で助力を申し出て来たのも、諸々の問題を考えなければ素直に心強かった。
一族の問題は、他者に頼るという発想がそもそもの盲点で、その上頼っていいだけの実力が彼女にはあるのだ。
実際に頼るつもりはないにしても、ユクシアを頼っても良いという最終防衛ラインは、霧生の精神的負担をかなり軽くしていた。
最強の精神を手にしたはずなのに、おかしな心理だ。
張られた頬の痛み以上に顔が熱くて仕方が無い。
他の者との関わりでは起こらない思索が次々と起こり、目が回りそうだった。
「喝ッ!」
火照った顔を両手で叩き、霧生はユクシアのことを頭から無理矢理切り離した。
気を取り直して、名も無き山から流れる小川に沿って歩いていく。散りばめられた痕跡を追う。
平坦な川辺にはひたすら草木が生い茂り、それは先に見える《森林迷宮》までずっと太陽が照らしていて、和やかな色合いを保っていた。
中央区や魔術区と違って武術区は、山からの自然がそのまま地続きとなっている区画で、ある程度切り開かれてはいるものの、全体的に人気が少なく穏やかさが突出している地帯だ。
そのまま歩いていくと、川辺に寝そべった異色の3人の姿が見えてくる。
夜雲にダガー、そしてハオである。
太陽と小川のせせらぎの下、彼らは仲良く川の字に並んで昼寝を決めこんでいた。
否、夜雲だけは霧生の接近に気づいていて、狸寝入りをしている。
ハオとダガーの二人は完全にリラックスしており、霧生の接近に気づく様子はまるで無い。
ダガーは顔の上に開いた本を乗せ、両手を腹の上に乗せて微動だにせず、うつ伏せのハオは草の絨毯の上に顔を思いっきり押し付け、大口を開けていびきを掻いている。
試しに遠巻きから《気当たり》を放ってみる。
すると夜雲は気だるげに体を起こし、ダガーは体をびくんと震わせ、顔の上から本を落とした。
ハオだけはたまたまそのタイミングで寝返りをうって、草まみれの前半身を見せつつ気持ちよさそうに昼寝を続行。
そんな彼に感心しながら霧生が3人の元まで辿り着くと、ろくでもない用件が告げられるのを悟ったのか、夜雲はどんよりと顔を曇らせていた。
「よう」
ぴらぴらと手に持っていた手紙を振ってみせる。
彼女は顔面を蒼白にして悲鳴のような声をあげた。
「にっ、兄ちゃん!? それって……!?」
「これな、ジジイからの手紙」
そう言っただけで、夜雲の顔にはだらだらと汗が伝い始める。
「あ、ああ……あぁ……、な、なんて……なんて書いてあるの……?」
「二人で顔を出せって。あとはほとんど俺への小言」
夜雲は霧生が差し出した手紙を受け取り、それをまじまじと読み込む。やがて読み終えると、彼女はふらりと気を失いそうになっていた。
「こ、殺される……。というか兄ちゃん……! あの人が来たらなんとかしてくれるって……!」
「来たらな。今回は呼ばれてるだろ。
行きたくないならないで好きにすればいいんだぞ。俺は一応伝えに来ただけだ」
夜雲にも憂いを払いたいという気持ちがあるのなら、着いて来ればいいだけだ。
まだまだ健在の様子の祖父から逃げ、この先しばらく怯えて暮らすのか、さっさとケジメをつけるのか。
霧生はそれを夜雲に選ばせようとしていた。
無論、来ないと決めたなら霧生が妹の憂いを晴らすべく動くつもりである。
「兄ちゃんは行くの……?」
「ああ。色々考えがまとまった。御杖を継ぐ気はないって、あのジジイにとことん分からせてやる」
「それで私が行かなかったらあの人絶対殺しにくる……」
「その場合はなんとか話をつけてやるよ」
「そんなの無理に決まってる! で、でも行っても……うぁ……ぁぁあ……」
気持ちは分かる。
どちらを選ぶにしても覚悟がいるだろう。
しかし彼女は必ずどちらか自分で決めて選ばなければならない。知らない内に霧生が全て解決するのは、彼女のためにならないからだ。
「うわああぁぁぁあん! ししょぉおおお!」
見事、夜雲は師に泣きついた。
熟睡するハオの肩を覆いかぶさるように掴み、ぐわんぐわんと揺らす。
「なるほどな」
今の夜雲にはそういう解決法もあるのかと、霧生は腑に落ちた。
「う、うーん……何だよ、夜雲……」
目を覚ましたハオがあくび混じりに体を伸ばし、眠そうに目を擦る。
「また怖い夢でも見た……?」
そこで霧生がヌッとハオの顔を覗き込むと、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「げ、霧生」
「久しぶりだな、ハオ」
「待ってくれ。今日の君は一段と平和じゃない臭いがする」
夜雲を押し退け、むくりと体を起こすハオ。
それでも妹はハオの腕にしがみつき、祖父への恐怖でシクシクとむせび泣いていた。
「今日は夜雲に用があってきた」
「勘弁してくれよ。夜雲は今、修行中なんだぞ」
「昼寝が修行か。面白いな」
「馬鹿にするなよ。昼寝は奥が深い。極める価値がある」
先ほど異次元の平和力を見せつけられたところなので、彼の言葉には説得力があった。
それ程の実力を有しながら、視線や気配、《気当たり》に気付かないでいられるのは、逆に凄まじい技術だと言える。
「結局人生ってのは、昼寝ができるかどうかなんだよ。
僕みたいに何の心配事も無く、誰にも害されないと安心し切って昼寝ができたら、それだけで皆幸せなのさ。……いや、君には分からないか」
「それがどれくらい難しいことかは分かる。馬鹿にもしてない」
つまり、昼寝を極めたハオは周りの動向を一切気にしないでいられる極地にいるのだろう。
体得するには途方も無い時間がかかるはずで、それはもはや悟りに近い領域だ。
そこを目指すのは確かに、妹に適した試みかもしれない。
ハオに言わせてみれば、強くなるということは、"害意に気付かないでいられる平和"が失われるということなのだ。
その平和を取り戻すには、馬鹿になるくらいしか手段が思い付かない。
「夜雲はどんな感じだ? 成長できてるか?」
「全然駄目だね。昼寝どころか夜もまともに寝ていない。それに比べてダガーは元殺し屋とは思えない平和っぷりだ。センスがある」
最終的に目を覚まさなかったダガーの顔の上に、ハオは本を戻しながら言った。
「それで? 何で夜雲は泣いてる?」
「これだよこれ。家からの呼び出しを食らった」
聞かれて、霧生は手紙を持ち上げた。
それだけで大方の事情を察したハオが、呆れたように肩を竦めた。
「なーんだそんなことか。応じなきゃいいだけじゃないか。もう言うことを聞く必要なんかないだろ」
「まあその通りだな」
「だろ? 面倒事は兄貴に任せてさ、ほら、昼寝だ昼寝。夜雲は昼寝が出来るようにならないと話にならないよ」
「師匠ぉ……、私には無理です……。染み付いてるんですよ体に、あの人の意に背いたらどうなるか……。兄ちゃんならともかく、私は絶対無事じゃ済まない……」
「この状況も意に背いてるはずなのに、夜雲は無事じゃんか。
というか、霧生がこの話を夜雲に伝えなかったことにすれば良くない? なんならそもそも僕らには知らせずに、勝手に解決してそれを事後報告して欲しかったよ」
「それも考えたが、夜雲が平和に生きるためにはジジイと直に合って、しっかりと縁を切る意思表示をするのが一番だと俺は思う」
もう伝えてしまったため、ハオの意見を夜雲が飲み込むことはないだろう。
御杖を決別してから今日まで、彼女は気が気でない日々を過ごしたはずなのだ。実際にアクションがあって、それを無視するのは、メンタル的に話が違ってくる。
「……あの人が受け入れてくれる訳無い」
徹頭徹尾、弱気な夜雲。
ハオは腕を組んで考えこんでいた。
「俺も前まではそう思ってた。でも腹を割って話してみれば分かってくれるかもしれないだろ。今までそうしたことがあったか?」
「無いけど、それで無理だったら……?」
「無理じゃない。俺は変わった。つまり、ジジイも変われるってことだ。分かって貰えるまでとことん話せば良い」
良い加減あれもはしゃぐ歳ではない。
「それでも……それでも無理だったら?」
「そうなったら仕方ない。拳で分からせる」
「……使うってこと? 殺しの技を」
夜雲が目を丸くして尋ねてきた。
驚きと、期待を妹から感じる。だがそれは愚問であった。
「いいや。勝負をするんだ」
「敵いっこない! それに兄ちゃんは殺されないって分かってるから良いけど、私は違う……! 行ったら絶対に殺されるよぉ……!」
「じゃあ来なきゃいいだろ。ぐだぐだ言ってないで、早くどっちか選べ」
「う、うぅ……」
「君、妹に容赦ないね」
自覚はある。
夜雲については家を出る時、再三に渡って付いてこいと説得したのだ。当時も妹は決められず、ずるずると祖父の言われるがままに生きてきた。
あの時もっと強く言っていればという後悔が霧生にはあった。
霧生はちらりとハオを見る。すでに行くなと道を示したハオに、さらなる助言を促す。
彼が溜息をつくと、夜雲はまた声をあげて泣き喚いた。
「ししょぉぉおおお……! ししょぉぉおおお!」
妹の情けない姿を見て、霧生は額に手を当てた。もしかすると彼女は、まだ霧生の模倣を続けていた方が、精神衛生上良いのかもしれない。
「あー、もう。分かった、分かったよ。僕が付いていけばいいんだろ」
ハオがそう言うと、夜雲はぱっと顔を輝かせた。
「師匠!」
ハオが来るだけで祖父への恐怖を拭えるとは。面白い程の心酔っぷりだ。
「随分あっさりだな」
「君の言うことも一理あると思ってね。この調子じゃあ僕の弟子でいても、一向に成長しないままだ。弟子に誘っておいてこれは、僕の主義にも関わってくる。遺憾だよ」
夜雲が感極まってハオに抱きついていた。
そんな妹の頭を、ハオは困ったような顔で優しく撫でる。
平和だ。二人の様子を見ながら、霧生はそう思った。
「正直かなり助かる」
ユクシアの同行を渋っておいて、ハオの同行は快く受け入れる。
これは不義かもしれない。
しかし、ハオの方が裏の世界に精通しており、生きていく上での信念も確固としている。そういった面で、彼が信頼できるのは事実であった。
ユクシアの場合は、霧生が巻き込みたくないという私情も多く占めている。
「勘違いしないでくれよ。僕は一切手を出さないし、口も挟まない。あくまで彼女の保護者という立ち位置だ」
「一応言っておくが、それでも危険だぞ。多分お前が思ってるよりずっとうちのジジイはイカれてる」
「あー、やっぱ行きたくないかも」
「師匠!?」
夜雲が涙目でハオの顔を見上げる。
勿論、気が変わったとしても、霧生は構わない。
一人でもやるべきことをやるだけだ。
ハオのこちらを試すような目に、自信を持って視線を返す。
「……分かった。君の爺さんがどれだけヤバくても、いざという時、夜雲を抱えて逃げるくらいのことはなんとかやってみせるさ」
言いつつ、夜雲を体を引き離したハオは、ゴロンと草原に身を投げる。
「ハオ、お前には感謝してもしきれないな」
目を瞑り、再び昼寝の姿勢に入ったハオに、霧生は想いを伝える。
「君のためじゃないから。日程とか色々まとまったらまた連絡して」
「ああ」
「こら夜雲。突っ立ってないで昼寝を続けるよ」
「は、はい!」
急いで横になり、目を瞑る夜雲。
その頃には既に、ハオはすうすうと寝息を立て始めていた。