第8話 無慈悲な顔面パンチ
早朝。霧生が命からがら早朝ランニングからの帰還を果たすと、寮の前でストレッチしているリューナを見かけた。霧生は覚束ない足取りでそちらへ向かい、彼女の前で両膝に手を付けた。
「リュー、ゲホッ……ゲホッ。ゼェ、ゼェ……、リューナ、ゼェ……ヒュー……おは、よう!」
息も絶え絶え、喘鳴を響かせリューナに挨拶をする霧生。
「……朝ランの消耗じゃないでしょそれ。どんだけ走ったらそうなるの」
リューナはドン引きと言った様子で指摘してきた。大量の汗が、霧生の髪と頬を伝って地面に次々と流れ落ちていく。
霧生はニ本指を立て、それをリューナに向けた。
「20km? 馬鹿じゃない」
「いや……にひゃく……」
「頭おかしい」
疑う様子もなく、リューナが言う。
「今日から講義が始まるのに、こんなことで体力使い切ってどうするのよ」
リューナは肩をすくめる。
霞掛かった早朝のアダマス学園帝国では、ランニングに励む生徒が数多く見受けられる。
優秀な武術家や魔術師に、不健全な体付きをしている者は殆どと言って良い程存在しない。血流に従う《魔力》《気》をより効率的に、上手くコントロールするためには、健康かつ強靭な肉体が必要となってくるのである。故に、こうした基礎トレーニングは向上心のある技能者なら誰もが行っていることだ。
霧生もまた、日課として軽い運動に繰り出したはずだったのだが、ランニング中『自分との勝負』が発生してしまった。結果、自分が走るのをやめないので、それと張り合って限界まで走り込むハメになってしまったのだ。
しかしここで体力を使い切っても霧生に不都合はない。部屋にあった講義についての資料に目を通したところ、Gランクという最低の適性判定を下された霧生が受けられる講義は片手で数えられる程度しかなく、下手すれば講義がない日もあるくらいなのだ。
一方Sランクのリューナは選り取り見取りの講義を受けることができる。霧生に対して何気なくそんな懸念を向けたのは、彼女がみっちりと講義スケジュールを組んだ証拠だ。
自らの境遇に感謝したはずの霧生であったが、今更また不満がこみ上げてくる。
無理もない。霧生が今日受けられる講義は、午後からの始まる『抵抗基礎』のみであった。勝負に発展しやすい"場"を求める霧生には物足りない状況だ。
しかし欲求に駆られ、道行く生徒に挑んだりして手当たり次第の勝利を得るのも気が向かない。"勝負"には物語が必要なのである。
霧生が求めるのは高級料理であり、ジャンクフードではなかった。時にはジャンクフードも良いが。
「はぁ……はぁ……」
「じゃ、私も一走りしてくるから」
消耗し、未だ再起ならぬ霧生を横目に、リューナは後ろで結んだ髪を揺らしながら走り去っていく。
なんとか受けられる講義を増やせないものだろうか。
中には決められた講義を修めないと受けられない講義などもある。
この仕組みでは、低ランクと高ランクの生徒の格差は広がるばかりだろう。
息を整えつつそんなことを考えていると、霧生の頭に逆転の発想が浮かんだ。
(講義が受けられないなら、見学すればいいじゃないか)
ーーー
一度自室に戻り、シャワーを浴びて朝食を取ると時刻は八時を指した。
(確か九時から『術式学Ⅲ』の座学があったはずだ)
『術式学Ⅲ』の講義は『術式学Ⅰ』と『術式学Ⅱ』を修めなければ受けられない講義である。霧生はそれの見学を決めていた。
霧生は黒いスラックスにベルトを通し、新品の折り目が付いたカッターシャツの上に紺のローブを着込んで鏡の前に立つ。
「悪くない」
昨日支給された制服は、ピッタリのサイズで霧生の体躯に馴染んでくれた。関節部が張すぎず、生徒がこの姿のまま激しい動きをすることが想定されたデザインである。
最後にワインレッドのネクタイを締め、霧生は部屋を出た。
『術式学Ⅲ』の講義が行われるのは、寮と同じく中央区にある座学棟の一角である。そこにはモダン風の建物が立ち並んでおり、通りに出ると日本の都会と遜色ない景色であった。
霧生は講義室の場所を改めて確認した。
支給された生徒端末を使えば講義情報なども確認できる。画面の中の進行予定表が、どの講義がどこで行われているか、分かりやすく示してくれていた。
残念ながら霧生の端末ではほとんどの講義の文字が薄黒くライトダウンされており、それをタップすると『あなたの適性ではこの講義は受けられません』と無慈悲なポップアップが液晶に表示される。
それを見て少し意気消沈する霧生。
(でも見学ならきっと大丈夫)
気を取り直し、座学棟の建物の中へ入った霧生は『術式学Ⅲ』に指定されている講義室へと向かう。
講義室に着くと、まだ開始30分前だと言うのに、結構な数の生徒が席を埋めていた。
当然だが、彼らの中に新入生はいない。『術式学Ⅲ』を受けられる生徒は総じて上級生であるからだ。
霧生が室内に入ってしばらく立っていると、チラホラと鋭い視線が向けられるようになる。よく周囲を観察している者は、真新しい制服に身を包んだ新入生に気付いた様子だった。
広い室内で、霧生はグルッと一周見回した。
縦に長い講義室は、一番前にホワイトボードがあり、そこからスロープに沿って座席が続く。
そんな講義室の中で、霧生はふと、最後列辺りにできている空席に気が付いた。
講義室の前方においては上級生達がまばらに席に着いているが、最後列から半円を描くように、そこだけ避けて着席しているように見える。今新たに講義室に入ってきた女生徒も、目の前の空席には目もくれず、少し前の席を選んで座った。
(まあ、遠くじゃホワイトボードが見辛いもんな。俺は見学だからあそこに座るか)
霧生は徐々に増えていく視線を受けながら、最後列のど真ん中の席に「よいしょ」と腰を下ろした。すると講義室に少しのどよめきと、一瞬の緊張が走った。
その反応で霧生も察する。否、ある程度は推測できていた。
おそらくこの席はカースト順位の高い者が牛耳る席なのだ。
「おい、大丈夫かあれ」「エルナスの席だろ」「というか彼新入生よね? 講義室間違ってるんじゃないの」
ヒソヒソと話し声が聞こえてくる。霧生のことを面白がっている生徒も多い。
席を退くかどうか。霧生は顎に手を添えて考える。しかし早朝ランニングの疲労も残っており、立つ気にはなれない。それにこのまま座っていると面白いことになりそうだ。
いくつか思考を巡らせていると、再び講義室の扉が開く。視線をそちらに向けてみれば、そこにはスキンヘッドの大男がいた。少なくとも十代には見えない風貌である。
彼はゆっくりとこちらまで歩いてきて、やがて席に座る霧生を間近で見下ろした。
「どけ」
短く、そう告げられる。
それだけで講義室内が静寂に支配された。
霧生はスキンヘッドの大男の背後に佇むアッシュグレーの髪をした青年を覗き込む。
(このスキンヘッドはこいつの犬か)
それだけ確認すると、霧生は小さく頷き、重い腰を上げ……
一つ隣の席にズレた。その瞬間。
──バチィン!
霧生の頬を大男の巨大な拳が捉えた。
《抵抗》でクッションすることすら許されない速度と、力の乗った一撃。
大男が拳を振り抜くと、霧生は席から弾け飛び、講義室の壁に叩きつけられた。ずるずると、壁に背を預けたままその場に崩れ落ちる。
「やりすぎだろ……」「今の大丈夫?」「やばい音したぞ」
ざわつく講義室。
脳が揺れ、《抵抗》を貫いて伝わった確かなダメージ。霧生の口角は自然と吊り上がっていく。
口の端に僅かに滲んだ血を新品のローブの裾で拭い、霧生は言った。
「いいねぇ」