第4話 「それで、用事って?」
「講義はもう終わったぞ、ユクシア」
講義室に踏み入ってきたユクシアに霧生が告げる。
彼女は散らかった講義室をざっと見回してから、教壇に立つこちらを見上げた。
澄み切った瞳が霧生を射抜く。
廊下から吹き込んでくる風が絹糸のような髪をなびかせ、それが顔にかかっても、彼女はしばらくの間、じぃーっと霧生を見つめていた。
相変わらずの存在感に霧生は内心唸る。
そして、負けじと睨み返していた霧生だったが、ふいに先日の一件が脳裏によぎり、思わず目を泳がせてしまった。
"接吻による謎の敗北判定"
その件についてはあれから何度も考察を重ねている。
しかし考えれば考えるほど理解に苦しみ、霧生をさらに深く悩ませるのだった。
答えが出せないまま、再び彼女との対面を迎えてしまったことによる焦燥で、霧生は軽い目眩を起こしていた。
今回は何かと思慮を巡らせていたので、タイミングも悪かったのだろう。
「悩みごと?」
ようやく口を開いたユクシアが尋ねてくる。
彼女に関するあれこれもあるが、おそらく個人的な憂いの方を指しているのだと霧生は察した。
「……お前なぁ」
周囲に突き放され続けた生い立ちもあり、他人の機微に疎い彼女は、それが霧生のことに関すると、ピンポイントで読み取ってくる節がある。
ユクシアが内包する底なしの才覚──その一部は、彼女にとって興味のある者にしか発揮されないのは、もはや明らかな事実であった。
ユクシアが抱える問題の一つである。
「……まあ、そんなところだな。お前にはまっっったく、関係ないけど」
「寂しいこと言わないで」
眉を落とすユクシアに、霧生は口を真一文字に結ぶ。
それを見た彼女はすぐにいたずらっぽい笑みを浮かべ、ツンツンと教卓の向こうから手を伸ばして頬を突いてきた。
「……」
気を遣ってからかってきたのは分かるが、弄ばれたようにも感じた霧生はムッとして眉を寄せた。
「ああ、そうそう」
丁度彼女には報告しておかなければならない勝利もあったので、霧生も霧生で口元を吊り上げ、彼女の手を払い除けながら教卓に肘を付き、口を開いた。
「さっきまた勝ったぞ? うちの弟子が」
ユクシアの眉がピクリと震え、散々な有様の大講義室に振り返る。
レイラとリューナが残した痕跡や、不自然な散らかり方をしている講義室。
ユクシア程の実力者であれば、それらを少し観察するだけで、どんな勝負があったのかは想像がつくだろう。
「これでまた俺の勝ち星が一つ増えたな」
レイラの勝利が霧生の勝利としても加算される事実は、どんな勝負であっても変わりない。
こちらに向き直ったユクシアはわざとらしく肩を竦めてみせる。
「リューナに不利な勝負をさせたんだ、私のいないところで。……まあいいけど」
その主張は聞き捨てならない。
霧生は開いた手を一度口に当て、目をまんまるにして彼女を凝視する。
「おい!? おいおいおいおい?? もう忘れちゃった!? こないだの序列戦、バカみたいに不利な戦いでレイラが勝ったこと、もう忘れちゃった!?」
「……」
「あと挑んだのはリューナなんですケド!? それで勝手に返り討ちにあっただけなんですケド!?」
寝ぼけたことを吐かすユクシアを煽る、煽る。
目を瞑り、呆れたように息を吐き出すユクシア。彼女が必死に平静を保っているのは一目瞭然であった。
そう、ユクシアは負けることに慣れていないのだ。
そのため、敗北を煽られた時の耐性値があまりにも低い。感情を整理できていない様子は見ていて愉快である。
「がはははは! 悔しいねえ悔しいねえ! 俺の弟子の方が強くて! だーっははははは!!」
「ただのスラップファイトでしょ」
「そうだねえ、ただのビンタ勝負だねえ!」
満面の笑みでユクシアの肩をバシバシと叩く霧生。
勝負の内容など霧生には関係ない。
想いの懸けようによって勝負の質が左右されることはあっても、一勝は一勝。その事実はいつだって不動不変である。
「なんか。またちゅーしたくなってきた」
「ッ……!」
ぴしり。前触れのないユクシアの狂言によって霧生の顔が固まる。
未知の敗北感が思い出されそうになり、全身から一気に汗が吹き出た。
霧生は情けなくも子犬のように怯えながらホワイトボードまで後ずさり、彼女の唇から目が離せなくなりながら、いつでも退避できるよう全身に《気》を巡らせる。
そんな中、ユクシアは言葉を続けた。
「今日は用事があって来たんだけど……面白いかもね、ビンタ勝負。
キリュー、私もやってみたい」
内に生じていた未知なる怖れが取り除かれ、彼女に対する確かな敵対心が舞い戻る。
霧生は壁に追い込まれていた姿勢を堂々としたものに変え、ユクシアを見下ろして首を傾けた。
「へえ……」
御杖から逃げ回り、5年もの間世界を渡り歩いた霧生。
その際に各地で行ってきたビンタ勝負では、ただ一度の敗北も刻んだことはない。
一部の技能界隈では"百戦錬磨のモンキースラップ"として畏れられている霧生は、ユクシアに対しても敗北のイメージを全く感じられなかった。
「ノーレジストノーガードのビンタ勝負だぞ。それが分かっていて、この俺に挑むのか?」
「うん」
ビンタ経験の有無以前に、まずこの手の勝負をユクシアがしたことがあるとは思えない。
そもそも顔を殴られたことがあるのかどうかすら怪しい。
とは思いつつも、既に教壇から降りた霧生は彼女の前に仁王立ちしている。
「いいぜ、やろうか」
どんな理由があれ、明確に持ち掛けられた勝負を霧生から避けることはあり得ない。
相手がユクシアならなおのこと。
正面に立っていたユクシアが夜空色のローブを脱ぎ、教卓の上に掛ける。
同様に、長丁場になると見た霧生もローブを雑に脱ぎ捨て、改めて仁王立ちの姿勢をとった。
「どうぞ」
スカートの中に入れていたシャツを外に出し、ユクシアが控えめに頬を差し出してくる。
勝つ場合、相手より必ず一手多くなる有利な先手を譲るつもりらしい。
ビンタ勝負は、全く同じ実力を持つ者同士が打ち合った場合、九割九分、先手が勝つと言われている。
しばらく睨み合う霧生とユクシア。
「……まあいい」
ふうと息を吐き出し、霧生は言った。
先手後手をフェアに決めようとすると、それはそれでまた別の勝負が発生する。そこで揉めても勝負の質が落ちるので、霧生は甘んじて彼女の侮り切った態度を呑むことにした。
この世に存在する勝負のほとんどがアンフェアなのだ。
勝負事において、常に公平であることを望むのは驕りであり、甘えでもある。
先手を譲ったから負けたというユクシアの"遠吠え"を聞くのも、また一興。
さっそく霧生はユクシアに背を向け、助走に適切な距離を空ける────と見せかけ、振り向きざまにユクシアの頬を思い切り打った。
バチン!!!!
確かな感触。長い金髪が衝撃で宙に舞い、一度は踏ん張りを効かせた彼女の体がよろよろとふらつき、やがてその場にぺたんとへたり込む。
「い……、痛いぃ……」
まるで無力な少女のように頬を押さえながら、ユクシアが涙目で嘆く。
やむを得ない反応であった。
向かってくる痛みを受け入れ、耐久の限界と攻撃力を競う勝負など、彼女の柄ではない。
やはり幼い頃から常に圧倒的であったユクシアは、このレベルの痛みを知る機会がなかったらしい。こんな勝負でも見据えない限り、知る必要もなかったのだ。
「辛かったら早々に降参してもいいんだぜ?」
「……こ、こんなふうに私の顔を叩ける人なんて、世界中どこを探しても、キリューしかいないと思う……」
痛みに耐えながら、怒っているような、やや呆れているような、それでいてどこか嬉しそうな表情で、ユクシアが立ち上がった。
霧生は鼻を鳴らし、腕を組む。
「んなもんいくらでもいる。お前が思ってるよりずっと世界は広いんだ。俺はおまぶへェッ!?」
話の最中にユクシアの平手を受け、霧生はその場から吹き飛んでいた。
衝撃波で講義室の窓ガラスが一斉に割れる。
ユクシアに勝負のなんたるかを気持ちよく語り始めようとしていた所だったので、完全に不意打ちを食らった。
「ぉ……お、おご……がっ……!」
倒壊した講義机を支えに立ち上がりながら、霧生は外れた顎をガコンと嵌める。
ユクシアが放った助走も何も無いノーモーションからのビンタは、想像以上の威力を秘めており、不意打ちで反応が遅れたことを考慮しても、初心者の一撃目でここまでのダメージを受けるのは想定外である。
「て、てめぇ……!」
ダンッ。立ち上がった場所から思い切り床を蹴ることで、霧生が爆ぜる。
一撃目の痛みが相当堪えたらしく、平手を振りかぶりつつ急接近した霧生に、ユクシアがビクッと肩を震わせた。
それでも一切の躊躇をせず、彼女の頬に浮かぶ赤い手形の上に、霧生は寸分狂わず平手を叩む。
バチィィィン!!
今度のものは"技術"も加えた一撃。
彼女の意識を刈り取るため、手のひらを頬の輪郭に合わせた形にし、衝突時に起きる力の分散を防いだ。平手は振り切らず、押し込むようにして頬に留める。
これぞ百戦錬磨のモンキースラップ。
「どうだオラァ!」
当然、それを受けたユクシアは吹き飛んでいた。
散らかった講義机をガラガラと退けながら転がっていき、最終的に腰を丸めて縮こまった姿勢で彼女は止まる。
そのままぷるぷると小刻みに震え出したので、痛みに悶絶しているのが分かった。
「クソ、やっぱりやるなお前……!」
分かってはいたことだが、彼女の才覚はどこまでも別格である。
正真正銘、全力で仕留めに掛かった一撃だったのだ。それを《無抵抗》で受けて、意識を十分に保つとは。
ユクシアはそれなりの体躯を保っているが、率先的に肉体を鍛えている訳ではない。
にもかかわらず霧生の平手を2度、いや、それ以上に受けられる見込みがあるのは、人間が普段無駄にしている力のことを、深く理解しているからに違いない。
霧生が果てしない研鑽の末に身に着けた力の扱い方を、彼女は生まれながらに有しているのだ。霧生よりもさらに高度な技として。
胸の高鳴りと軽い戦慄を覚え、霧生は笑みを漏らす。
「……だいたい、分かった」
痛そうに頬をさすりながら立ち上がるユクシア。
早くもビンタ勝負の解析が終了したことを告げてみせる。
次の瞬間、彼女は大講義室の床を強く蹴り出す。鮮やかな体捌きで眼前に躍り出るや否や、霧生の頬を弾く。
と、ほぼ同時。厳密にはそれから瞬刻を置いて、霧生は彼女の頬に平手を放った。
「ぐぅァッ!!?」
「ッ!」
両者対角に弾け飛び、壁にぶち当たる。
「いぃ〜ッ……ぃってぇぁぁ!」
「……! ッ〜……!」
その後、頬の痛みで悶絶を開始する。
ダメージはトントンと言ったところだろう。
体勢的にユクシアの平手の方が威力は上。しかし霧生は意表を突いた。
それでもユクシアは寸前に反応してみせたが、攻撃姿勢からでは凌げる威力は限られる。
しっかりとユクシアの平手を受けた後に放った一撃なので、公式のルール上認められる攻略法である。グレーではあるが。
「……キリュー、今のは流石にずるいよ」
「えっ、どこがぁ?」
アホ面ですっとぼける霧生。
持ち直したユクシアが睨んでくるが、すぐに堪えきれなくなって、その口元が緩む。
「……楽しい、キリュー。楽しい」
そして今度はちょっと泣きそうになっている。
「情緒不安定かよ。さっさと打ってこい。こっちはまだまだお前に試したい技があるんだ」
「うん……。じゃあ、次も思いっきり叩くね……」
再度、ユクシアが床を蹴り出す。
かなりスラップファイトの解析を進めたらしいが、霧生は百戦錬磨の玄人。
そしてユクシアは雑魚。
いくら才能があろうとも、根性と気合いでユクシアが霧生を上回ることなど、今後一生あり得ないのだ。
煽るように腰を折り曲げ、丁寧なお辞儀を思わせる姿勢で霧生は頬を差し出し、にこやかに目を瞑る。
次の一撃はあえて侮り、そこから飄々と立ち上がってみせることでユクシアに精神的なダメージを与える作戦だ。
ヒュン。
そんな風切り音を最後に、霧生の意識はプツリと途絶えた。
ーーー
「あ、あれ……!?」
目を覚ますと、そこには天井があった。
そしてユクシアが体の上に馬乗りになって、にんまりと霧生を見下ろしている。
「え……」
霧生は混乱した。何が起こったと言うのだ。
未だ醒め切らない意識の中で、脳をフル回転させて状況を整理してみる。
ぼやける視界は、脳震盪のような症状にも感じられる。唐突な意識の喪失があったのだ。
「わ、悪い。なんか俺、急に寝てた?」
「ううん。キリューの負け」
ユクシアがそう告げて、霧生は頭の中が真っ白になった。
「え……、は? い、いやいやそんなはずはない。俺はビンタ王霧生だぞ……?」
「でも負けたの」
にやにやと嬉しそうにこちらを見下ろすユクシアを、体の上から退かそうとする。
しかし気を失った直後だからか、上手く力が入らなかった。というより、ユクシアが断固として退かなかった。
そこで霧生はハッとする。
そうだ、自傷魔術が発動した形跡がないではないか。
あれは霧生の敗北感を霧生以上に機敏に察知し、発動するふざけた術式。
霧生の敗北は、いつもあの魔術をもって決するのだ。つまり、まだ負けていない。
そう思っていると、ユクシアが言った。
「自傷魔術なら、私が防いでおいたから」
「は?」
言われてみれば、体内にユクシアの魔力を感じる。気絶して無防備な間に流し込んだのだろう。きっとそれで霧生の魔力を掻き乱し、魔術の発動を上手く防いだのだ。
悔しさのあまり、霧生の手足が震え出す。
「だって、負ける度に大怪我されるの、結構困るし」
「あぁぁぁぁぁ!?」
ジタ……バタ……。
霧生は手足が暴れだしそうになるのを必死で抑え込む。
ジタバタしたら負け。ジタバタしたら完全に負け。
そんな思いでなんとかまだ負けて無いことにできないか考えてみるが、どうやら状況は最悪らしい。
そして、霧生はもう一つの事実に気づく。
なぜか唇が湿っているのだ。
「お、おまっ……お、俺が寝てる間に……また……!?」
「ちゅーした」
「あ゛あ゛ぁぁぁあああああああああああもぉぉぉぁぁあ!!」
敗北感やら何やら、様々な感情が押し寄せることで、とうとう理性を抑えられなくなってしまった霧生はジタバタとしながら喚き始める。
そんな霧生の頭を、ユクシアは愛おしそうに撫で始めるのだった。
ーーー
ーー
ー
喚き疲れた霧生が呆然と天井を見上げる。
ユクシアによるマウントはすでに解かれ、彼女は講義机に掛けていたローブを羽織り直していた。
「ねえ、キリュー」
彼女が声を掛けてくる。
「なんだよ」
「もしキリューが、持てる力の全てを使って私と勝負したら、どうなると思う?」
まさかビンタ勝負の後にそんな問いを投げてくるとは思わなかったが、勿論言葉の意味は分かる。
「そんなの、勝負じゃないだろ」
ユクシアも霧生の信条のことは分かっているはずだ。
言うと、彼女は少し考え込むような素振りを見せて、「そっか」と呟いた。
「それで、用事って?」
今度は霧生が尋ねる。
「そうだった。学長から預りもの。お祖父様からの手紙だって」
最初に出せよと、霧生は思った。