第1話 「紹介が遅れたな」
第四章、開幕
「ハァ……ハァ……」
灼熱が辺りを覆う。
目の前には一人の漢。名も知らぬ強敵。
全身にはとめどなく汗が伝う。
凄まじい熱気により、中枢神経系に激しい興奮がもたらされている。
心臓は強く脈打ち、血流の加速に限界が訪れているのが分かる。新陳代謝のリミットブレイク。
迫ってくる視界の端。吐き出される息が何より熱い。次に目を閉じれば、平衡感覚を失い、そのまま倒れてしまいそうな程に肉体は疲弊していた。
腰まで持ち上げた右手をぼんやりと眺めてみると、それは小刻みに震えている。迷いを打ち消さんとばかりに握り締めてみるが、もはや力が入らない。しかし負ける訳にはいかない。
「ハァ……、ハァ……」
またポタリ、ポタリと汗が落ちていく。
正面の漢も息を切らしこちらを睨みつけていた。
肩を上下させ、今にも倒れそうになりながら何度でも臨戦態勢を取り戻してみせる。
見上げた根性である。しかし、それを称える余力すら今の霧生にはない。
幾重もの攻防をくぐり抜け、今となってはお互い意地と気合いでこの場に留まっているのだ。
両者限界などとっくの昔に超えている。
果たして、ここまで追い詰められたのはいつぶりであろうか。
そんな気の早い考えが浮かんで、霧生は表情を引き締めた。
今は勝負の最中だ。
まずは目の前の漢を完膚なきまでに粉砕する。
ふらりと立ち上がり、霧生は目の前の漢を見下ろす。漢は深く息を吐き出し、クイと口角を持ち上げた。勝負の終わりを予見したのだろうが、まだだ。
霧生は新たにアロマ水へと手を掛けた。
「……さあ、とことんやろうか……」
高く積み上げられたサウナストーンがジュウと音を立て、蒸気を上げた。
ーーー
ーーー
ーーー
薄暗いトンネルにブーツの軽快な音が響き乱れる。学長の後を霧生が追い、さらにその背後を数人が続く。
やがてトンネルを抜けると学長が足を止め、霧生達もまた歩みを止めた。
「へぇ、これまた凄いな」
広大なアダマス学園帝国の中央、名も無き山頂に構えられた転移駅『セントラルターミナル』。
丁度その真下に位置するそこには、世界各国を行き来する《転移列車》の魔力源があった。
目の前に鎮座する圧縮された魔法陣が、霧生達──否、学長の接近に呼応してひとりでに魔力を帯びる。
転移列車と同様、これは学園と世界各国を繋ぐ大規模な《転移回路》であった。
それは常駐する大魔術であり、おそらく多人数の術師……霧生が未だ相まみえたことのない学園を運営する側の超高位術師が、普段から精密な調整を重ねる大術式だ。
中央区から伸びる隠し通路を通ってのみ辿り着けるこの場所のことは、大多数の生徒が認知すらしていないだろう。霧生も先日学長から知らされたばかりで、当然やってくるのも今日が初めてのことであった。
「これなら少人数で、かつ位置も融通が効く長距離転移が行えるってわけか」
薄く笑みを浮かべた学長が小さく頷く。
長距離転移は、ある程度認識の及ぶ範囲内に位置を定める短距離の転移とは全く質が違い、決して個人で管理できるものではない。
膨大な魔力も使うし、その高度さから維持するのにもコストがかかる。
そういった面もあり、この特殊な《転移回路》を起動できるのは学園の権力者のみだという。
講師に至っても扱えるのは有数で、『勝利学』の講義を持つとはいえ、ロクな実績を残していない霧生では当然扱う権利がない。
つまり、この場で扱えるのは学長だけだ。
こうした時折垣間見える学園の運営に使われる凄まじい技術や歴史に触れると、いい加減運営側にも首を突っ込んでみたくなるものだ。
しかし、今回は見送らざるを得ない事情があった。
「本来なら一般の生徒をここに通すことはないのだがね。しかし今回は私が無理を言う立場だ。これくらいの協力は惜しまない」
学長が言う。
表のホームからでも問題無い、と申し出たい所ではあるが、この措置は霧生にとってもありがたいものだった。
今回の旅には2つの目的があり、そのうちの片方は、祖父の元へ赴くという霧生の私用である。
世界中に点在する学園行きの駅は、いくら警戒していたとしても人目から逃れられない。
長距離転移は大人数を移動させるためのものだからだ。だからこそ少人数のために《転移列車》を動かすのは不自然になる。
つまり転移の秘匿性を確保しておけば、学園を出た途端祖父に絡まれる、というリスクを未然に防げる。
要は痺れを切らしているらしい祖父に、別件を優先していることが伝わるのは避けたいのだ。それで学長の依頼にも円滑に取り組める。
振り返り、今回旅を共にすることになった面子を改めて確認する。
この裏ホームには霧生を含め、なんとも個性的なメンバーが集っていた。
真後ろに立っていたこともあり、一番に目が合ったのは私服姿のユクシアである。
どう見てもこの場では彼女が最も場違いだ。
学園に閉じこもっていたユクシアは、外の世界での経験が浅く、どうしても裏世界における技能者達の情勢やセオリーには疎いはずである。
彼女の余りある才の前でそれが問題になるとは思わないが、やはり霧生としては彼女を連れて行くのは不本意だった。
何かと必要のない悪意に晒す危険があるからだ。
「やっぱりお前……」
言いかけた所で、ユクシアはムッとしたように眉を顰めた。
「そんなに私を遠ざけたいんだ」
「おまっ、お前……それはなぁ」
反論の余地は無い。そう言われてしまうと霧生は一発で黙らざるを得なくなる。
一生をこの場所で過ごすつもりならともかく、ゆくゆくは彼女も学園を出ることになるのだ。
せっかく他者に対して少しは意欲的になり始めている彼女から経験を奪うのも、いかんせん自分本位な話であった。
彼女の意志は硬いままらしい。
「嘘だよ。私のためだよね」
ぺろりと舌を見せるユクシアに、霧生は溜息を吐く。
「でもキリューは私に甘すぎる」
「別に俺の勝手だろ、それは」
それが自分にも返ってくる言葉なのは分かっていた。
とはいえ、ユクシアを祖父の元まで連れて行く予定はないし、流石にそこは彼女にも言い聞かせているため、その点での不安は無い。
否、そうでなくとも、今回祖父と関わること自体に、霧生は億劫さを感じていなかった。
勝負を追究する身として、いつまでもアレの影を気にしていては話にならない。その憂いを払うためには前向きでいることが重要なのだ。
なにせこちらは精神的に最強になっている。
「手繋いであげる」
「やめろ馬鹿」
隣に並んで手を繋ごうとしてきたユクシアのそれを素早く振り払い、霧生は誤魔化すようにその背後で何か言いたげだった男に視線を移す。
平和主義を突き詰めた男、ハオ・ジアだ。
彼は寝癖だらけの髪を煩わしそうに掻きながら言った。
「彼女には甘くても僕には甘くないね。僕にこそもっと気を遣って欲しいもんさ」
脇にはそんな彼を師と仰ぐ霧生の妹、御杖夜雲が真っ青な顔でしがみついている。
「今回の巻き込まれ方は特に酷いよ。避けようがない」
「無理強いしたつもりはないんだけどな」
「あぁん? 無理強いも無理強いだろ。ほら見ろ、僕の弟子がこんなに怯えてる」
御杖を裏切ったことで、夜雲は学園という安置から出ることに底知れぬ恐怖を抱いているのだ。
そしてハオは霧生の打算をしっかりと見抜いているようだった。それが夜雲を想ってのことであることも。
「夜雲、お前も思い留まるならこれが最後だぞ」
一応、霧生は念を押しておく。強いるつもりがないのは事実だからだ。
「そ、そんなこと言っても兄ちゃん、ず、ずるいよ。だって……!」
取り乱しそうになった夜雲の口に、ハオがポケットから取り出した大粒のチョコレートを放り込む。
すると夜雲はピタリと言葉を止め、チョコレートの咀嚼を始めた。
「まったく、僕らに甘いのはチョコレートくらいだな、夜雲」
涙目でコクンと頷く夜雲。
「ふふ」
その手の冗談に珍しくユクシアが笑う。
霧生も夜雲の様子が微笑ましくて笑みを零した。同時に感心もする。
元々の性格や、霧生というガワに業を背負わせていたことにも要因があってか、この短期間で妹はすっかり手懐けられて、御杖の毒気を抜かれたようだ。
弱々しくなった、と否定的にも言える。だがそれはハオの元にいれば、おいおいまた別の強さへと昇華していくのだろう。
そう思わせるだけの芯が彼にはある。やはりハオは本物だ。
「ああそうだ、この際言っておくけど僕は遠足気分だから」
厚手のパーカーというラフな格好と言い、会話の中で何度整えても跳ね続ける寝癖と言い、いつも通りまるで緊張感の無いハオがそのまま緊張感のないことを言う。
一応これから学長の依頼に取り組む訳で、依頼者もこの場にいるのだが、ハオは気にも留めていないらしい。
当の学長は興味深そうにハオを見下ろしていた。
「危険な旅ならなおさら平和で調和して割に合わせに行かないと。あまり頼りにしないでくれってことさ。僕はただの付き添いなんだから。以前のことで僕が体を張る奴だって誤解してるなら認識を改めてくれ」
「分かってる」
「いいや君は分かってないね。おいそのキラキラした目をやめろ」
「よせよ、馴れ合いはもういいだろ」
そこで会話に制止がかかった。
ようやくというべきか、口を開いたのはハオと夜雲の背後に立つ長身の男、アドレイである。
彼はうんざりしたようにこちらを見下ろしていた。アドレイとは初対面であるハオが説明を求めるように視線を向けてくる。
「紹介が遅れたな。"才能潰し"の元締め、アドレイ・ドールだ」
「は? どういう人選だよ」
忌憚の無い疑問をぶつけてくるハオ。
確かに、アドレイが混ざることでメンバーの混沌具合が一気に増している。
当の本人は気にすることなく霧生を追い越していき、慣れた様子で《転移回路》をくぐっていった。
学長が促すように視線を流す。
「まあとにかく、俺達も続こうか」
ハオが諦めたように口を閉ざして、霧生もまた《転移回路》に触れた。そうして彼方の地、フィンランドへと飛ぶ直前、学長が声を掛けてくる。
「祖父殿への言伝は頼んだぞ」
「ええ勿論。それも忘れてませんよ」
遡ること3日。
ことの発端は、祖父から届いた手紙であった。
長らくおまたせしました。
これより四章の投稿を開始します。