第23話 無駄だと言う
しがらみを忘れ、レイラは駆け続けていた。
目にはリューナの姿しか映らない。外で煩く騒いでいるはずの霧生の声も、今日は耳まで届かない。研ぎ澄まされた神経が次を、次をと動きを急かし、それに従うだけでレイラはリューナを追い詰めることができた。
体が熱い。全身を汗が伝う。しかし呼吸は苦しくない。過ぎ去る景色が心地良い。敵を追い詰めていく感覚。勝利の足音が聴こえる。
闘技場の壁に叩きつけられたリューナがふらりと立ち上がっていた。
遅い。今から回避動作をとっても間に合わない。無造作に両手を放り出しているリューナを見て、レイラは確信する。
「……《星降る黄昏》」
ボソリ。リューナが"何か"を言った。
レイラは気にすることなく突っ込む。彼女から放たれた膨大な魔力を見てもレイラが止まることはない。
今のが詠唱術式であったとしても、発動は──
「ッ!?」
ズン。突如頭上から強大な負荷が襲いかかり、レイラはその場に叩きつけられた。
「かっ……はッ!?」
肺が圧迫され、口から空気がむせ返る。
レイラは四肢でなんとか体を支えながら首を回した。周囲には大きくリューナの魔力が覆っており、それが膨大な質量を得ていた。
レイラはそれに強く押さえつけられていた。
「う、ぐぁ……!」
直ちに《抵抗》を全開にし、魔術の干渉を軽減させて質量の伸し掛かった体を立ち上げる。
同時に今の攻撃に対する理解が進む。
今のは、リューナの術式展開が反応できない程に速かっただけ。
そしてこれは到底魔術と呼べるようなものでは無い。無尽蔵の《魔力》を持つ者のみに許された、才者の御業。
ただそれだけだ。
──ふざけるな!
怒りが襲う。力がみなぎる。
重圧の掛かった体からは問題なく《気》の巡りを感じられた。
レイラは許せなかった。分かってはいたが、リューナは全力では無かったのだ。
心を通わせるため、あえてレイラと同じ武術の土俵で戦っていたのだ。
全力で戦えば、勝てると分かり切っているから──。
「こんな、の!」
質量から逃れるべく、レイラはその場を踏みつけ、大きく飛び退いた。
が。
その動きに合わせ、リューナがこちらに向けて手を翳す。すると意思を持ったかのように重圧が──まとわりついた。
「っ……!?」
一瞬だけ逃れられた圧が再び伸し掛かることで、体がガクンと落ちる。
レイラは地を踏みしめ、なんとか叩きつけられずに済む。急いでリューナに視線を移すと、彼女は追撃には迫っておらず、血の滲んだ口元をゆっくりと拭っていた。
ギリと歯を鳴らす。直後、彼女は天に人差し指を向けた。
「……"エスト"」
リューナを中心に、《魔力》が渦巻いた。
「"トラウ"、"リディア"、"ヴェムエ"」
その言葉の意味は分からない。しかし空へ空へと立ち昇る魔力の様子を見て、レイラはそれが詠唱であることを察する。
止めなければ。そう思い、また地を蹴ろうとしたが、リューナの一睨みだけで体に重圧がより一層強く伸し掛かる。
「……!」
──そうか、この魔術は……一度でも受けたら──
逃げられない。
それに気づくと、レイラは重圧に耐え続けながらただ立ち尽くすしかなかった。
ーーー
「……ユクの、星空術式だ」
背後でレナーテが苦々しく呟いた。
それは真昼には浮かばぬ星々の座標と、独自言語による詠唱を術式にした規格外の魔術。
魔術は術式が高度であればある程、常識を覆すような現象を発現させられる。
霧生はリューナの反転攻勢に顔を顰めていた。
御杖流には初見殺しの技が多く存在する。
レイラは武術においてそのアドバンテージをいかんなく発揮していたが、魔術においてはユクシアの元で育ったリューナもまた同じ。
当然レイラが対応し切れぬ術が数多く存在する。
「……でもレイラ、お前は勝てるんだぞ」
どうしようもなくなった時、どうしたらいいかはレイラに委ねるしかない。
全ての選択肢が消え失せるような鍛え方を霧生はしていない。
ーーー
──全部受け切ろう。
レイラは即断していた。
いくらリューナと言えど、無限に魔術を放てるはずはない。それがどれだけ強大なものであっても、全て防ぎ、いなし、耐えきればいい。
「"ユニエ"」
リューナが詠唱を終える。そして──
「《陽光を喰らう竜》」
リューナの魔力が滝のように天へと登った。
一瞬、晴天が闇に染まり、蒼が戻る。
上空に、眩い光が集まっていた。
それには形があり、ゆっくりと首をもたげた時、それが竜の姿をしていることに気がつく。
巨大な、巨大な光の竜であった。
「あ……」
すでに重圧は無かった。
飛び出そうとも考えたが、光の竜がこちらを鋭く睨んでいる。
「……終わりよ、レイラ」
どこか退屈そうにも感じられる表情でリューナが静かに告げた。
竜がリューナに忠誠を誓うかのように、その図太い首を彼女の背後から肩に回し、頭を垂れている。
そんなリューナの佇いに幼き日、レイラが強く憧れた偉大なる魔術師の姿を幻視した。
「あ、あ……」
怒りが引いていくのが分かる。どうすればこの身一つであれを退けられると言うのだ。
しかしレイラは恐怖を押さえ、グッと拳を握りしめた。そうして一歩を踏み出そうとした時、
「無駄よ」
リューナがそう言った。
途端に目の前が真っ暗になる。憎き敵を前にして、感覚が深い闇へと落ちていく。
辺りを見回しても何もない、凍えるように冷たい深層心理の空間。
そんな中、どこからともなく声が聞こえてきた。
──どうして頑張るの?
──もう諦めたら?
──いつまで続けるんだよ。
それは兄妹達の声。ひたむきに努力していたレイラを見捨てた家族達の声が、耳元で囁かれていた。
──どうせ無駄なのに。
じわりと、レイラの瞳に涙が滲む。
なんで、……なんで止めるの?
今が一番大事なのに──
変われるかもしれないと、思っていたのに。
気付けばレイラは地に膝を付いていた。
負け犬のように呆然と地面の一点を見つめていて、体を支える両手には力が入らず、視界は歪んでいた。
ぽたりと、落ちた雫が土に黒い点を作っていく。
『オォォォォォォォォ!!』
決着を称える、否、リューナを称える大歓声が耳につんざいた。
やがて彼女の足音が近づいてくる。
「レイラ」
リューナが声を掛けてくる。レイラには彼女が敗者の言辞を求めているように感じた。
口が震える。言ってしまえば終わる。でも、もう終わっている。震える体が言う事を効かなくなっているのだ。
「……参り、まし、た」
だから、そう言うより他になかった。
負けたのだ。勝てるわけがないと、心からそう思ってしまっているのである。
「凄かったわ、レイラ」
レイラは何も答えられない。差し伸べられているであろう手にも。
視界に映るのは土の付いたリューナの靴だけだった。
それは見慣れた敗者の光景。
そうだ、慣れている、こんな目に会うのは。
レイラは積極的に頑張って来た訳でもないし、信念をもってこの戦いに挑んだ訳でもない。
ただ情けなく負けただけだ。久方ぶりに、いつものように。
そう言い聞かせ、レイラは必死に涙を堪らえようとする。
「次は……ちゃんと勝つから」
そう言ってリューナが踵を返した時、レイラは思わず嗚咽を溢してしまった。
「あ、あぁぁ……」
彼女はこの勝利に納得すらしていない。
その事実に、レイラは惨めで惨めで、涙が止まらなくなった。
ーーー
視界の端でユクシアが去っていくと、霧生の目の端に涙が滲んだ。
ぞろぞろと席を立つ観客達の中、自傷魔術を受けて吹き飛んだ霧生は、瓦礫の中で自分を悔いていた。
レイラを勝たせられなかった。レイラを待ってやれなかった。
勝てると言ったのに、レイラも勝てると信じて戦ったのに、勝てなかった。
曖昧な確信を与えただけで、レイラを戦わせてしまった。
全ては霧生に責任がある。
「だ、大丈夫? 霧生くん……」
レナーテが顔を覗き込んできた。
体のあちこちに激痛が走っている。意識を手放しそうになるのを口の中を噛んで阻止する。
「大、丈夫だ。ありがとう……」
「全然大丈夫じゃないじゃんそれ……」
レナーテが霧生の下半身に被さった瓦礫を退け、霧生は痛む体に鞭打った。
「……肩、貸す?」
首を横に振ってレナーテの申し出を断る。
レイラのもとには、霧生一人で向わなければならない。
霧生はレナーテを残し、2階席を後にした。
ーーー
悲しみにくれた痕跡を追い、大闘技場の歩廊で力無くへたり込んでいたレイラを見つける。
その側まで寄り、霧生は壁に肩を預けた。
何一つ話すことなく、時間が流れていく。
外からは今だ盛り上がった雰囲気が冷めておらず、観戦していた生徒達の熱を感じる。
歩廊には風が流れていた。
「……ほら、駄目だった」
レイラが静かに口を開いた。霧生は目を瞑る。
もっと完璧に鍛えてやれなかったこと、ユクシアが鍛えたリューナのように、誰にも負けないと思えるほど強くしてやれなかったこと、レイラが諦めてしまったこと。
何もかも、巡り巡って自分のせいだと言ってしまいたかった。
しかしそんなことを口にすればレイラをさらに深く傷付けるような気がして、霧生は言葉を奥に飲み込んだ。
「どうしてこういう時はいつも、優しくするんですか」
レイラの蒼い前髪がだらんと垂れる。
「……俺もキツイんだよ」
彼女はギリと歯を噛み締めて、怒りを顕にした。それは当然、霧生に向けられたものだった。
「霧生さんのせいですよ!! 霧生さんのせいで私……、私……、勘違いしちゃったじゃないですかッ!!」
「……」
霧生は天井を見上げる。
「こんな想い、したくないから、努力してこなかったのに……!」
レイラは豆だらけの両手を見つめながら震えた声で言う。
霧生は壁にもたれ掛かったまま、ずるずると腰を床まで落とした。
「……どうして思い出させたんですか! 私はっ、いつも、いつも! 最後まで頑張れないんですよぉ……! だから……だからずっと諦めてたのに……ぃ……!」
ボロボロと涙を流し、霧生に怒りを向けながらレイラは自分を責める。
まだ戦えたのに、奮起させることが出来たはずなのに、僅かな勝利の光明を探し当てる余力があったのに、レイラは諦めたのだ。
そしてその先に待っているのも、彼女が何よりも恐れていた"敗北"である。
「何もしなかったら、誰にも負けることなんてなかったッ……! でも結局私が全部、台無しにしたッ! こうなることなんて最初から分かってた! なのに霧生さん、どうして……ッ!」
レイラの想いが痛いほど伝わってきて、霧生も顔を苦痛に歪ませる。しかしそれでも今は唇を噛み締め、彼女の言葉をただ受け止めるしかなかった。
勝利を諦め、敗北を自分から遠く退けることこそが、彼女の信条であったのだ。
勝利への渇望より、敗北に抱く恐怖がゆうに上回っているから、勝負から逃げることで身を守ってきた。
だが、それはただのレイラだった頃の話。
今のレイラは霧生の弟子である。
「どうして私に見込みがあるなんて言ったんですか!」
霧生は言葉を吐き出すために、深く息を吸った。
「……レイラ、いいから言えよ。
俺だけはお前の可能性を否定したりなんかしないから、もう本心から逃げるなよ。お前は今、どう思ってるんだ」
レイラの立て並べた事実は全て、霧生にとって勝利を諦める理由にはなり得ない。
そしてレイラも本心ではそう思っていることは、たった今確かになっていた。
「……もう、いいです」
レイラは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま無言で立ち上がり、歩廊の出口に向かって進み始めた。
「レイラ」
呼びかけてもレイラは足を止めない。
霧生はふうと息を吐く。もはや伝えるべきことは一つしかなかった。
「……そんなことしても、無駄だぞ」
感情からはいつまでも逃げられない。レイラは向き合う時が来たのだ。
彼女は一度足を止め、それでもまた歩き始めて出口の先へと消えていった。