第20話 それでも選べない
カシムとの初戦を終え、「しばらく休んでろ」との命令を霧生から受けたレイラは寮の自室に戻っていた。
洗面場の鏡に映るのは泣き腫らして目元の赤い顔。ひねってそのままの蛇口から流れ出す水の音が部屋に響いていた。
時刻は夕暮れ。
こうして立っているだけで随分と時間が経過している。
涙が止まった後も、レイラはどうも落ち着かない心持ちでいた。霧生がまた騒ぎ出すまで眠ろうと思っても寝付けなかったし、掃除や洗濯など、溜まった家の用事にもまるで手がつかない。
そうすると落ち着くためにはやはり先程のことを考えなければならなかった。
斜めに構え、否定的な整理が必要だったのだ。
戦いに勝ったことについてはレイラではなく霧生が凄いということで納得できる。
レイラは辛い思いをしただけで努力はしていない。霧生に言われた通りの訓練をしていただけだ。
一方で、涙の理由には整理がつけられなかった。
あれで霧生がどうしようもなくレイラを弟子として想ってくれていることをついに理解してしまったし、そもそもあの様に喜んで貰えて嫌な気分になれるはずもないだろう。
俯瞰的に事実を判定するなら、霧生が自分のことのように喜んだのが、理解より涙が先に来るほど嬉しかったのだ。根源的に。
「ふー……」
違和感のある胸に手を置いて、意識を傾けてみれば、心の奥底にずっとほんのりとした暖かさがあり、慣れないそれを突き放したくて仕方がなくなる。
いつのまにか鏡に映る口元が少し緩んでいて、ぴしゃりと顔に冷水を打ち付けてレイラは表情を引き締めた。
腹立たしい。あんな男にここまで感情を揺さぶられてしまったのは屈辱の限りだ。どうせこれをネタにまた厳しい訓練を強いてくる。
嬉しかったのはもう認めるが、それでレイラが訓練に積極的に臨もうと思える訳ではない。
むしろ、今まで以上に身を固めなければと激しく危機感を抱いていた。
少しでも身を護る術を崩してしまったら、想いを認めてしまったら、これまでレイラが支えにしてきたことは一体なんだったのだ。
芯の通った怒りと迷いがレイラを揺さぶる。
と、そんな時、レイラの端末に着信音が響いた。
そちらに視線をやり、着信相手が霧生からであることを確認する。
もはや一々確認しなくとも、"才能潰し"から除名された今となっては、レイラに連絡してくる者など霧生しかいない。
この一ヶ月で、メッセージも着信履歴も全て霧生の名前で埋まってしまっている。
溜息を吐きながら、レイラは着信に応答しようとして手を止めた。
霧生に会う前に、胸中の揺らぎを止めなくてはならない。
そう思ったときには着信音が止まり、今度は部屋の扉がドンドンと力強くノックされる。
息継ぎするようにまた溜息が出た。
「出てこい! いるのは分かってるぞ、レイラァ!」
いつものこの勢いからして、どうやらもう訓練を始めるようだ。
せっかく休息の時間を得たのに、レイラは全然体を休めることができていなかったし、整理もついていない。
とは言えそんな言い訳はできないので、やはりレイラは応答するより他になかった。
「別に隠れている訳じゃないんですけど……。霧生さんが休めって言ったんでしょ」
扉を開いて愚痴をこぼすと、レイラは霧生に腰を両手でガッと掴まれ、そのまま持ち上げられて彼の肩に担がれた。
「ちょ、なにを……!」
「祝勝会をやるぞ!」
ーーー
はしゃぐ霧生に担がれ、レイラが連れてこられたのは大食堂だった。
しかしその様子はいつもと違う。辺りはリボンやイルミネーションライトで装飾され、質素だった室内はきらびやか。そして中央にはでかでかと『祝!レイラ初勝利』の文字が書かれた垂れ幕が下がっており、その下には、垂れ幕に触れるか触れないかの高さまである巨大なケーキが鎮座している。
そのケーキの隣にあるテーブルには既に大量の料理が用意されており、レイラはその席に一人で座らされていた。
見れば普通に食事をしていた生徒達は端の席に追いやられており、彼らも何が起きているのか分かっていない様子だ。
「やりすぎでしょ……」
レイラは呆気に取られていた。
待機命令が下っている間、霧生はこんな準備をしていたらしい。
『この度はお集まり頂き、誠にありがとうございます。さて急ではございますが、我が弟子レイラの序列戦初勝利に際して、祝勝会を開催したく存じます。また僭越ですが、ここに至るまでの思いの丈を僕から少し話させてもらえば──』
いつのまにか大食事の最前に陣取っていた霧生はマイクを片手に司会を始めている。彼は弟子に対する想いやらこの勝利に至るまでの軌跡を事細かに話し始めた。
レイラは気にせず食事を始めることにした。
「よっ、見てたよおめでとう。頑張ってるじゃん」
霧生の話を聞き流していると、隣の席に腰掛けたレナーテ・ベーアが声を掛けてきた。
彼女は霧生と過ごす時間の間にちょくちょく顔を出し、時には訓練を共にすることもあるので、今やそこそこ気兼ねなく話せる仲になっている。
霧生に振り回されつつも恋に奔走する彼女を見ていると、当初の悪印象もかなり薄れてきていた。
「……別に、頑張ってはないですよ」
「またそんなこと言っちゃって。めっちゃ泣いてた癖に」
朗らかに笑うレナーテに、レイラは顔をしかめる。
それについて茶化されると黙り込むしかないではないか。弁明すればまた芯が大きく揺るぎかねないからだ。
「レイラはよく頑張ってるよ。フツーあんな特訓ついていけないって。ぶっちゃけ私でもキツイと思うし」
そう言ったレナーテからはいつになく親身さを感じた。
黙り込んだままでいると、彼女はソワソワとした様子でチラチラ見てくる。
隣でそんなふうにいられるとこちらまで落ち着かなくなってくるので、レイラは早々に尋ねておいた。
「なんですか」
レナーテはおずおずと口を開く。
「そ、そのさ……。こ、こないだは、ごめんね。私、レイラの気持ちも知らずに」
まさかあの傍若無人なレナーテがそんな謝罪をしてくるとは思いもしなかったレイラはぎょっとした。
霧生とレナーテをしてレイラを絆そうとする作戦なのではないかと疑いもした。しかし額に汗を浮かべて苦笑するレナーテの仕草は演技には見えない。
レイラは焦りを隠せずに返事をしてしまう。
「き、気にしてませんよ。お互い様ですし……。あ……、そういえば、昨日は助かりました。す、凄いですね《解毒》の魔術が使えるなんて」
霧生に媚薬を飲まされた際、解毒を行ってくれたのはレナーテである。たとえ打算ありきだとしてもあれには非常に助けられたのでレイラは感謝していた。
さらに世辞まで述べるとレナーテがぷっと小さく吹き出した。
「私が言うのもなんだけど……捻くれてばっかじゃないんだ」
「それは……余計なお世話ですよ」
レイラは好きで捻くれているのだ。
だが、そうしなくて良い時だってある。
「そうだね」
頷いて彼女は肉を口に頬張る。
丁度その頃、レイラ達を他所にペラペラと自慢話を繰り広げていた霧生のトークも締めに入ったようだった。
『と言うわけで、本日は全員俺の奢りだ! 皆ー! 食いまくってくれーッ!』
「「「オオオォォォッ!!」」」
気がつけば想像以上に大食堂は霧生のトークで盛り上がっていたらしく、辺りを見回すと彼の話に涙している者もいた。
これが自分の祝勝会であることを思い出したレイラは軽く引く。
「意外とカリスマ性あるよね……霧生くんって」
コミュケーション能力が低いのか高いのか分からない部分はある。
半分目をハートにしているレナーテは放置して、これから始まるであろう霧生の迷惑行為を避けるため、トイレに逃げようとした所。
『我が弟子レイラより食えた奴には"俺とのなんでも勝負券"を贈呈するッ!』
「なんでも券ッ!?」
ガタリと立ち上がったレナーテの鋭い眼光がこちらに向いた。
ーーー
「うっぷ……、嘘でしょ……私の、負け!?」
大量に積み上げられた皿のタワーがレイラとレナーテの前に一つずつあった。
そして今、レナーテはテーブルに伏せ、レイラのタワーには一枚高く積み上げられる。
そうしてなんでも勝負券挑戦者、最後の一人を下した頃、大食堂の熱気はもはや下がり調子で、宴もたけなわといった様子であった。
ケーキ神速切り分けの曲芸や飲み比べなどの勝負で存分に場を盛り上げていた霧生が、いつしかレイラの隣で食事に集中し始めたからだろう。
そうでなくてもあれから2時間は経っているので、入れ代わりの激しい大食堂からは当時いたメンバーもほとんどいなくなっている。
今やいつもより少し騒がしい大食堂だ。
「…………」
そんな中、隣で黙々と食事を進める霧生からはいつもの圧が感じられず、レイラはどこか気味の悪さを感じていた。
それは嵐の前の静けさではく、透き通る湖面に、こちらから石を投げ込まければきっと水面は荒立たないような、そんな静けさであった。
霧生の表情も心無しか真剣なもので、どう言う訳かいきなり漠然とした不安に襲われたレイラはとうとう切り出してしまう。
「今日はもう休みですか? ……それなら、もう帰りたいん……ですが」
言うと、食事の手を止めた霧生がやはり普段とは違う目でこちらを見据えた。
レイラは気づく。
霧生からは今、師としての圧が出ていない。常に感じていた、何かを強いてくる感じがしない。
しっかりと掴まっていたのに、いきなり放り出されたかのような浮遊感が、この不安だ。
「選んでくれ」
霧生は言う。レイラは彼が何を言わんとするのかが分からなかった。
これまでは選択を委ねられなかったからだ。
「ええと…休むかどうかを選んでいいってことですか? それなら」
「違う、続けるか、続けないかだ」
満腹で苦しそうに倒れ伏すレナーテが、ゴロンとそっぽを向く。
霧生は決して語弊のないように言い直した。
「俺の弟子でいることを続けるか、続けないかだ」
そんな選択をしていいのか。と考え、その後迷わず続けないと答えようとしたのに、レイラは言葉に詰まる。
続けない、と答えたらどうなるのか怖くなったからだ。
「俺は全部自分のためにやってる。お前をこうして鍛え上げるのも、まずは自分の勝利のためだ」
「……はい」
「でもそれが、お前のためでもあったら良いなって思ってる。そう信じてるが……でも、もしそうじゃないなら」
「……」
「良い契機だろ? 教えてくれ。お前がもう本当に続けたくないなら、俺の負けだ。大人しくお前のことは諦めることにする」
「え……、あ……」
そうして目の前がぐにゃりと歪んだ。
レイラがもし霧生を本気で拒んだら。霧生がもしレイラを諦めたら。
もう霧生は毎朝叩き起こしに来なくなる。訓練は終わり元の自堕落的な、傷つくことも感動を得ることも何もない、平和な日常が戻る。
それでいいはずなのに、しがらみから解き放たれたのではなく、突き放されたような孤独感を感じてしまう。完全に霧生の存在が自分の中に刷り込まれていた。
毎日一緒にご飯を食べて、それ以外も一日中一緒にいた。家族がこんな感じなのかと思ったこともあった。
それが無くなればレイラは一人だ。家を追われた時と同じように振り出しだ。
無責任だと、ずるいと、叫びたくなったがそれはできない。そんなことを言えば、自発的に続けることを選んだのと同じだ。
非道だ。磨き続けた鎧を傷つけるだけ傷付けて、後に引けなくなってから最後に選ばせるなんて。これまではありとあらゆる方法で無理強いしてきたのに。
ここにきて……。
レイラは霧生を睨みつける。彼は冷徹にも思える瞳で、諭すように言葉を続けた。
「俺はな、ここからはお前の意思であって欲しいんだよ。訓練だとは言ったが、今日の勝利は何の価値もないものだったか? 厳しい訓練を乗り越えた果てに手にするものにしては軽く感じたか?」
まやかしだ、まやかしだ、まやかしだ。
レイラは自分を叱咤する。
今、どんな感動があっても無駄なんだ。いつかは後悔することなど分かりきっているのに、自分を少しでも信じてはいけないんだ。
──二度とあんな想いをしないために。
心臓が激しく脈打ち、先程の戦いでは少しも乱れなかった呼吸が荒く乱れる。
考えれば考えるほど目眩が続く。目の前の霧生が遠ざかっていく。
「はぁ……おまえは。どんだけ頑固なんだよ」
ふらりとよろめいた所で、霧生が肩を支えてきた。
やめて。そう願っても遅い、こうなったら霧生はいつものように鮮烈に、手を差し伸べてくるに違いないのだった。
「俺を選べ、レイラ」
後はそれにしがみつくしかない。
「もう少しだけ……、続けさせてください」
そうしてレイラは霧生にしか聞こえないよう、絞り出すように言った。