第6話 天上の待ち人
天に浮かぶ白い総大理石の霊堂、天上宮殿。
正午の大水晶の間には、天窓からやわらかい陽光が差し込む。
ユクシアは壁際の木椅子で、その温かい日差しに身をひたしなから読書に耽っていた。
光を受けた絹糸のような髪の周りには、キラキラとした粒子が漂っているように見える。
バルコニーから吹き込む風が、そんなユクシアの髪を優しくなびかせていた。そうして覗く端麗な横顔に息を呑まない者はいないに等しいだろう。
ゆったりとした時間が進むその空間にいるのはユクシアだけではなかった。
ユクシアの友人、レナーテ・ベーア。ユクシアと同年代の天上生である。
彼女はその体の何倍サイズもある大きな水晶の前でちょこんとあぐらをかき、泉を思わせる水晶の中を無表情に覗き込んでいる。
水晶の中にはアダマス学園帝国地上の景色が広がっていた。レナーテは水晶に魔力を通し、繊細な術式を巧みに操ることで、映る景色を点々と変えていく。ピンクブロンドの髪を弄りながら、縮小しては拡大しを繰り返し、何か面白いことがないか探していた。
新入生が入学してくるこの時期は毎年恒例のアクシデントが起こる。それに目星を付けていたレナーテは、適性検査により、今最も人が集まっているであろう医療センターに景色を移す。
『お前に決闘を申し込む!』
するとタイミング良く、ニースに決闘を挑む霧生の姿を見つけた。
「うおぉぉっしゃ! 決闘だぁぁ!」
狙い通りの暇つぶしが見つかり、レナーテの嬉しそうな声が大水晶の間に響き渡った。
新入生が上級生に煽られて決闘を挑むのは、レナーテやユクシアが天上入りするずっと前から続く、もはやこの学園の伝統行事と言っても差し支えないイベントだった。
レナーテにとってこの地上視聴は、大衆的娯楽が忌避されがちな天上宮殿における数少ない気晴らしである。彼女は他の天上生のように、ただひたすら研鑽を重ねるストイックな生活を好まない。
かといって娯楽を求めて地上へ降りるのも、一度"果てしない研鑽"を決めた天上生としてのプライドが許さなかった。
そんなレナーテを尻目に、ユクシアはまた一つ、読了済の分厚い本を床に積み上げ、未読の本を手に取る。この天上宮殿にある大図書室の蔵書は、ユクシアが一生掛けても読み終えることが出来ない程の数だ。
しかし彼女が厳選し、読んで満足することのできる図書となると、一気に数は限られてくる。ユクシアの前に積み上げられた大量の書物は、彼女が気まぐれに読書を始めてから経つ長すぎる時間を表していた。
「ね〜え〜、ユク〜。一緒に見よ〜」
レナーテがユクシアの愛称を甘えるように呼んでみても、彼女が地上の景色に興味を示すことはなかった。それも仕方ない、ユクシアは最年少で天上生になってからかれこれ八年は地上に降りておらず、天上宮殿にて自由気ままな研鑽の日々を送っている。
天上入りする以前は地上で数多の偉業を成し遂げた彼女だが、あまりに姿を見せないので、今ではその存在を疑う者もいる。そんな彼女ともいい加減長い付き合いになっているレナーテは、ユクシアの関心を引くことが難しいのは分かっていた。
レナーテはユクシアとの視聴を諦め、水晶に視線を戻す。
水晶の中では霧生とニースが闘技場へ移動し、向かい合っている所だった。学園で高度な講義を受けている上級生に新入生が適うはずもない。しかしその定番の流れがまた面白いのだ。
「んん?」
ふとレナーテは霧生を見て違和感を持つ。
その違和感が何なのかは分からない。霧生からはどこか言いしれぬ不自然さを感じる。
そしてニースが投げた小石を、霧生が受け止めた。その一挙動でレナーテは目つきを変える。
「うわこいつ、めちゃくちゃ強い」
それまでバラエティ番組感覚で観ていたレナーテは顎に手を添え、《技能》を扱う者としてその決闘の観戦を始める。
霧生が小石を受け止めたのを見てその実力を確信した者はその場にも少なからず存在していたが、レナーテはさらに深淵を覗いていた。些細な重心移動、あえて見せている絶妙な隙、気を循環させるための効率的な呼吸。彼は天上クラスの実力者だ。
「ユク見て! やばめの新入生がいる!」
水晶の術式を弄り、地上の音をより鮮明に拾いながらレナーテは声を上げた。
だがユクシアは読書に集中するため、自分の周囲の音を遮断する魔術を使っている。レナーテの声は届かず、涼しげにページを捲った。
『そう言えば名前を聞いていなかった。なんて言うんだ?』
ニースが名を尋ねると、霧生は空を見上げる。そしてどういうわけか、レナーテと目が合う。
レナーテは気づく。先程から霧生に感じていた違和感。それは、霧生が見られていることに気づいていたこと、であった。
「生意気だなぁ。ちょっと出来るからって……」
レナーテは苦笑する。
水晶の中の霧生が薄く笑い、名乗った。
『御杖霧生』
『悪かったな御杖。お前は、弱くは……ない!』
ニースが霧生に飛びかかる。
レナーテにしてみれば結果は分かり切っている。そしてその予想通り、あっという間にニースは無力化され勝敗は決した。
「今の、面白い術式展開だな」
そんな時、レナーテの背後に長身の青年がアッシュグレーの髪をかき上げながら歩み寄った。
青年の名はエルナス・キュトラ。彼もその決闘を目していた。
天上宮殿に地上から通うエルナスは、"天上候補生"のうちの一人であり、"天上生"ではないのだが、彼は己の天上入りを確信し、宮殿にあしげく通っている。
そんなエルナスをレナーテは嫌っていた。この天上宮殿での振る舞いも節度がなく、まるで我が家だと言わんばかりのくつろぎよう。終いには今のうちから自室を手配しろと、宮殿の使用人に指図している。
あえて反感を買うような行動をしているのかと疑う程だ。
「だねー。どっかの名家の出かな、彼」
内に秘めたエルナスに対する嫌悪感を表に一切出すことなく、レナーテはよそ行きの笑顔を張り付け、適当に返事をする。
実際、霧生の術式展開はレナーテにしてみても目を見張るものであった。砂埃のような不定形物質の術式化維持は相当な集中力を必要とするのだ。
「まあ、あんなふうに技能を見せびらかしてはしゃいでるようでは駄目だ」
霧生の術式は見せびらかせた、というよりは普段からそうしているかのような自然さだとレナーテは感じていた。しかし彼女はあえてそれを指摘しない。
エルナスの言うとおり、相伝の技能を有しているのならば、ここ一番の時以外意識して隠し通すのが技能者としての基本だからである。その上、あれだけの実力差があったなら過剰な技能行使だと思ったのはレナーテも同様であった。
レナーテはそれ以上言葉を交わすつもりはなく、水晶の景色を別に移す。
そうするとエルナスも水晶の景色に興味を失い、彼は陽のあたる壁際で読書に勤しむユクシアに視線を移し、そちらへと歩み寄った。そしてエルナスは、ユクシアが魔術により纏っていた無音のベールを無作法にも引き剥がして声をかける。
「ご機嫌よう、ユクシア」
その背後でうげぇとした顔をするレナーテ。エルナスが天上宮殿へ頻繁に通っている理由の一つ、それはユクシアへのアプローチである。
ユクシアの美貌は高嶺の花とも言えるもので、大抵の者はおこがましくて色恋目的で近寄ろうなどとはしない。だがエルナスのような自意識の高い男に限っては、羽虫のように集ってくるのだ。
静寂に水を差されたユクシアは、エルナスに視線を向けることなく静かに立ち上がる。彼女の髪をすくおうと手を伸ばしたエルナスだったが、宙に浮かぶ埃のように彼女の体は遠のいた。
「相変わらずつれないな」
「元の場所へ」
ユクシアが言うと、床に積み上げられた本の数々はそれぞれひとりでに浮き上がり、大水晶の間から飛び出していく。本一つ一つの見返しに描かれた魔法陣術式が、その言葉で発動する魔術となっていた。
飛び去った本を見送ると、ユクシアは夜空色の外套をひるがえし、友人に一度目を向けてから大水晶の間を去っていく。
「そして相変わらず、気に食わない」
残されたエルナスは美しい絹糸を揺らす背中を眺めながら呟く。
その顔が酷く歪んでいることには、誰も気づかない。