第12話 天上生レナーテ・ベーアの心変わり
広大な学園とそれを囲う《森林迷宮》との境界は舗装されており、向上心ある生徒達の間では人気のランニングコースとなっていた。
霧生やリューナが毎朝日課で走っているのもこのコースで、5時にもなるとチラホラ他の生徒達が増えていく。
レイラの隣を併走し、叫び散らかす霧生の隣を生徒達は遠慮がちに抜いていった。
「違う! もっと《気》を抑えろ! 呼吸のテンポが悪い! 俺に合わせろ!」
「はぁ、はぁ……こ、こうですか……!」
「喋るな! 呼吸しろ! スーハーハースーハーハー、こう! 血管を膨張させろーーーッ!!」
片手に持った竹刀で体の各所を叩き、随時彼女の姿勢を矯正しながら高台を駆け抜けていく。
車椅子の霧生はレイラ以上の速度で彼女の周りを右往左往と周回しているので、汗だくになっていた。既に彼女の十数倍の距離を移動している。
「っ……!」
「俺に構わず速度を維持しろ!」
「ちがっ、変な所叩くから!」
「うるせえ! 黙って《気》をコントロールしろ! 無駄遣いが多すぎる!」
さらに霧生は時折膨大な《気》を放出して彼女のそれを無理矢理押し込み、効率的な《気》の放出方法を体に馴染ませようとしていた。
魔力総量は決して少なくないのだが、レイラはいかんせん消費が激しい。
それは生まれ持った身体的な特徴でもあり、《技能》を上手く扱えるようになるにはそれをコントロールできるようにならなければならない。
緩やかに体力を消費していくランニングは、そのトレーニングに最適である。
ただ走るにしても、足が地面につく時の緩衝や、筋肉の補助など《気》の使い所は多い。
血流運動を飛躍的に向上させる《解放》や《過域》などは、これらの延長線上にある《技能》である。
また一人、二人と後ろから走ってきた生徒が霧生達を追い抜いた。
その度に姿勢を崩すレイラを竹刀で叩いて矯正する。
今コースを走っている他の生徒達のように常時《気》を纏っていれば楽だが、あれはレイラとは無縁の短時間で《気》を放出するための走り方であって目的が違う。
学園を10周する必要があるレイラは消費を押さえなければすぐに底を尽きてしまうのだ。
実際何度も尽きかけてはペースを落としていた。
しかし彼女がまたペースを上げられるのは、その驚異的な回復速度にある。
それを込みで長時間の身体活動を続けていれば、自分がどれくらいのペースで《気》を使っていいのかの理解が進み、直に体の使い方も分かってくるだろう。
霧生はひとまず身を委ねてきたレイラに、武術を教え込もうとしていた。
「安心しろ、レイラ! 俺がお前を強くしてやる!」
彼女が魔術を極めたいと自分から申し出ることがあればメニューを考え直さねばならないが、そうなるまでは彼女の才能を伸ばす訓練を続けるつもりだった。
「絶対に……! 絶対に強くしてやるからな!」
「はぁ……はぁ……、もう! しんどい……!」
「黙って走れ!!」
ーーー
そうして学園10周を無事達成した頃には、時刻は午前の9時を回っていた。
ランニングを終えた霧生が疲労困憊のレイラを引き連れてやってきたのは、朝食で混み合うピークを過ぎた大食堂である。
ビュッフェ式の朝食では、人気の料理を巡る激闘が毎朝繰り広げられているのだが、今日はそれに参加できない様子だった。
「…………先にシャワー浴びましょうよ」
色んな料理が混ざりあった匂いのする大食堂に足を踏み入れる前に、どしゃ降りの雨にでも打たれたのかというくらい全身汗でびしょ濡れになったレイラがそう言ったので、霧生は振り返った。
霧生も彼女と同様、汗に濡れている。ポタポタと滴る汗が地面に溜まりを作る程だ。
確かにこのまま入っては他の生徒の気分を害してしまうだろう。
そんな時、いつものように霧生の前に堂々と転移で降り立った者がいた。
レナーテである。
「おはよー。おお、やってんね〜」
彼女は霧生とレイラの汗を見て感心したように言った。
「丁度良いとこに来たなレナーテ。ちょっと汗を流してくれ」
「任せて、《雨》」
レナーテが軽く詠唱すると、たちまち頭上に雨雲が立ち込め、滝のような雨が霧生達を打った。
「ちょ、なっ……うわ!」
驚いて尻もちをつくレイラ。
「よし」
腕を組んで十秒程の雨を受け続けた霧生がそう言うと、ぱったりと雨雲は霧散する。
霧生はブルブルと体を震わせて全身に伝う水気を飛ばした。
「は?」
さらにびしょ濡れになったしまったレイラが虚空を見つめたまま怒りをあらわにしている。
レナーテの意地悪で、彼女の方だけより強く雨が打ち付けていたのだ。
そんな彼女の眼前に霧生は蹴りを繰り出し、その風圧で大方の水分が飛んだ。
「これでよし、と。飯にするか。レナーテもどうだ?」
「食べる!」
レイラは寝起きの時よりボサボサになった髪を諦めたように両手で梳かしていた。
その後、大食堂のテーブルに着いた霧生達。
料理をよそった皿を各々がテーブルに並べ立てると、揃って食事を始める。
天上生のトレードマークである色付きの外套を纏うレナーテがいるからか、普段より一層の注目が集っていた。
「美味し〜。久々に食べてもやっぱりここの料理は最高だね〜」
地上に降りてくることを世俗的だとして嫌うのが天上生のはずであるが、この様子を見てももはやレナーテにそれを気にする様子は無い。
明らかにそれは霧生の影響である。
彼女が選ぶ行動に文句など無いが、脳天気な振る舞いでパクパクと料理を口に入れるレナーテを見て、少し心配になってしまった霧生は思わず口を開いた。
「お前さ、前にも増して俺のこと視てるだろ」
「ん゛っ!? ゴホッ、ゴホッ!」
入れどころを間違え、盛大にむせたレナーテの背中を擦る。
四六時中天上宮殿から届く彼女の視線は、以前とは違って気取られぬように気を配ったものである。それが霧生に悟られていたので驚いたのだろう。
視線を流すと、レイラは我関せずとばかりに淡々と食事を進めている。
あれだけ走った後にこの食欲だ。昨日の勝負の決着がつけられなかったことにより遺恨を感じる。とはいえこれから食事を共にするのだから、いつでもまた勝負はできるだろう。
しかし霧生はその機会を自身の体が全快した後に引き延ばすべきだと考え改めた。
「もう、気づいてたのならそういうアピールかなんかしてよ」
落ち着いたレナーテが気恥ずかしそうに言う。
そうしなかったのには理由があった。
レナーテが気取られぬようにしていたから、霧生は奇襲に対して奇襲を掛け返せるように、あえて気づいていない振りをしていたのだ。
そのことには触れず、霧生はレナーテに感じる不安を表に出した。
「俺ばっかり見てるけど大丈夫なのか?」
「そ、それはだって……!」
「だって?」
「霧生くんがその……ユクの敵になれって言ったから……」
「……!」
その言葉を聞いて、霧生は自分の不安が杞憂も良いところだったことを知った。
同時に目頭が熱くなる程に霧生は感動する。
レナーテがそれを覚えていたこともそうだが、霧生以外にもユクシアを打ちのめさんとする者が現れたのだ。
「素晴らしい! いい! いいんだ、そういう勝負的な意図があるなら!」
霧生はレナーテの手をぎゅっと握ってそれをぶんぶんと振った。彼女の顔がみるみる赤くなり、握ったその手は熱を帯びていく。
「う、うぁぁ……」
「プッ」
黙々と食事を進めていたレイラが、唐突にそんなレナーテを鼻で嘲笑った。
こればっかりは霧生も怒りを押さえられない。
「お〜ま〜え〜は〜〜!!」
「あーもう分かりましたから、ごめんなさいごめんなさい」
怒鳴り声を上げた霧生に対し、レイラはうざったそうに顔を顰める。
グッと眉間を押さえて首を横に振り、霧生は怒りを引っ込める。
駄目だ駄目だ。粉砕すべき敵のいないレイラにはまだ分からないのだ。
「頑張って」
懲りずにレイラが煽ると、レナーテは目を白黒させた後、何かを思い出したかのようにハッとして話題を変えた。
「そ、そういえば霧生くん! 昨日アドレイに絡んでたでしょ!」
「ああ、まあな。あいつを知ってるのか?」
あれは絡んだというよりは絡まれたのである。
悪目立ちしすぎたためか、学園ではもはや霧生に絡む生徒も激減し、この先も減る一方だと予測される中では貴重な体験だった。
「知ってるも何も、アドレイは元天上序列第4位だよ」
「へぇ、そうなのか」
その事実を知っても驚きは少ない。
彼の立ち振る舞い、洗練された《気》から鑑みて、それくらいの実力はあってもおかしくなかった。
「元ってことは、今は何位なんだ?」
と聞いて、ふと疑問に思う。彼が着てたのは地上生のローブで天上生のそれではなかったからだ。
「今はもう天上生じゃないから序列に名前は無い。霧生くん、あいつにはあんまり深く関わらない方がいいよ」
「なんでまた? 芯のある奴だったぜ?」
一転、レナーテは顔を神妙なものにして続けた。
「アドレイは序列戦で当時の第3位を殺して、天上堕ちした生徒なの」