第11話 あの手この手で
翌日。
目覚めた霧生は重い体を起こし、ふうと息を吐く。
自傷魔術で負傷している体に起き抜けの気だるさが加われば、流石の霧生でも動き始めるのに決心が必要だった。
「フフ……」
痛む頬を擦る。昨日におけるアドレイの一撃は、予想以上にダメージとして体に残っていた。
思い出し笑いをしながら、おもむろに壁に掛けられた時計に目をやると、一気に意識が覚醒する。
ありえない事態が発生していた。
「寝坊だと!? この俺が!?」
言っている場合ではない。
霧生は急いでベッドの隣につけていた車椅子に乗り込む。床にタイヤのゴム跡が残るほど素早く部屋を行き来し、朝の身支度を済ませるや否や廊下へ飛び出した。
霧生としても昨日は無茶をし過ぎたのだ。
ユクシアとの飲み比べで敗北、夢の中でも敗北。結果、自傷魔術を連続で受けることになったのはほんの数日前。
本来なら絶対に安静にしていなければならない体で、模擬戦や大食い勝負、最後にはアドレイの一撃を喜んで食らった。
無理が祟ったのだろう。自分の後先考えなさが誇らしい。
であればこの寝坊も致し方無しと切り替えた。
車椅子を発進させる前に、軽く隣の2024号室に意識を向けてみる。
「…………」
やはり中にリューナの気配は無かった。
昨夜も帰っていなかった為、もしかすると上に住み込みでユクシアに教わることになったのかもしれない。
まだ人の出入りがほとんど無い廊下を進みながら、霧生は端末を取り出した。
講師権限でレイラの個人情報にアクセスし、住所を表示させる。
どうやらレイラはここから少し離れた所にある寮に住んでいるらしい。霧生はエレベーターには乗り込まず、指で軽く空を斬って、その動作を術式に《転移》した。
ーーー
彼女の住まう寮は霧生の所より大分古く、洋装のアパートと言った外見であった。
この学園では成績が良ければ優遇された生活を送ることが出来るが、そうでなければ待遇も悪くなっていく。
今年入学した新入生も、怠惰にしていればあの寮を追い出されるだろう。
一応成績が悪くても、自費で寮費などを支払えば生活は維持できる。それは学園の収入源にもなっている。
レイラの部屋の前までやってきた霧生は、ひとまず彼女の端末に通話を掛けてみた。
ポンポンポンポンと軽快な木琴の着信音が部屋の中から薄いドア越しに響く。何度か鳴らしてみても出なかったので、今度はチャイムを鳴らした。
ジリ! ジリリリリリリリリリリリリリリリ!!
チャイムはボタンを押し込んでいる間だけ音が鳴るタイプだったので、ひとまず5秒程鳴らして霧生は待つ。
すると部屋の中から物音がし、ようやく彼女が目を覚ましたのが分かった。
しばらく待っていれば出てくるだろう。そう思い、霧生は腕を組んで待つ。
だがレイラは現れない。物音がしていたのがピタリと止み、耳をそばだててみればすぅすぅと寝息が聞こえていた。
こいつ……、二度寝しやがった。
チャイムで一度目を覚まし、その後端末を確認。直近の不在着信の相手が霧生であることを知ると、二度寝を決行。
そんな彼女の行動が手に取るように分かった。
こうなったら多少の近所迷惑は仕方ない。
霧生はドアに近づき、拳を打ち付けた。
ドンドンドン!
「おはよう!! 早朝トレーニングの時間だ! 起きろーッ!!」
ドンドンドン! ドンドンドン!
「あーもう……煩い」
部屋の中から苛立った声が聞こえてくる。
「起きたか!? 早く支度しろ!」
そう促しても一向に動き出す気配の無いレイラ。
霧生は端末を鳴らし、チャイムを押し、ドアを叩いた。
ポンポンポン、ジリリリリリリリリリリリリ──! ドンドンドンドン!
「警告。今すぐ支度を始めなければこのドアを蹴り破り、中に侵入する。繰り返す、今すぐ支度を」
「ああぁぁぁ!!! もう!」
流石にベッドから飛び起き、ドタバタと玄関まで駆けつけて来たレイラが勢い良くドアを開く。
「今何時だと思ってるんですか!?」
中からは現れたのは乱れた寝間着姿のレイラ。
「4時だが?」
「いくらなんでも早すぎる!」
ずるりと、ゴムの伸びたスウェットがずり落ちた。肉付きの良い裸足があらわになる。
「だらしねぇ足だな」
彼女は顰めた顔で霧生を睨みつけたまま、頬を赤らめた。
「着替えてこい。まずは全力朝ランだ」
レイラはしばらく固まり、顰めた顔に哀愁が漂い、そしてまた顔を顰める。初めて見る表情の推移である。
「……はいはい、分かりましたよッ!」
バタンと、勢い良く扉が閉められた。
それから数分して、紺色のジャージに着替えたレイラが霧生の前に立つ。
顔を洗って濡れたままの前髪に、昨日よりやつれた顔。寝起きの髪を整えることすらせず、もはや自暴自棄といった様子である。
そんな彼女の瞳を見つめ、霧生はうんうんと頷いた。
相変わらず負け犬の目である。しかしこれで一歩くらいは前に進んだ。
最初はヤケクソでもいいのだ。
「何か文句でもあるんですか」
「いや、ようやくその気になったかと思ってな」
「ちがいます。どう足掻いても霧生さんからは逃げられないことが分かったんです。もう抵抗は止めます。無駄な体力を使うだけなので」
「そうかそうか、よしよしいい子だ」
車椅子に座っていても、手を伸ばせば小柄な彼女の頭に手は届く。
霧生は言うことを聞かない猫でも撫でるかのように、彼女の頭の上に手を置いた。
「勘違いしないでください。別にやる気を出した訳じゃない」
レイラはうざったそうにその手を払いのける。
「抵抗しても無駄なら、一度特訓に本気で取り組んでみて、私にどれだけ見込みが無いのか分からせてやるまでです。
……こうまでしないと駄目だなんて、ホントもう……呆れを通り越してびっくりしてますよ」
ヤケクソになっても頑固なのは変わらないらしい。
やはりアドレイとの対話がレイラの除名という形で締結したのは良かった。
似た者同士で徒党を組み、傷を舐め合う。それは悪いことではない。だが"才能潰し"はレイラに適した居場所ではなかった。
レイラは他者を蹴り落とすことに罪悪感など感じないだろうし、それによって悦に入ったり、相対的に上に立とうとする人間でもない。
頑固に自己を否定し続ける彼女は、彼らとは向いている方角が違うのだ。
そこにいて、彼女は自堕落的でいて良い理由を得ていた。上手く溶け込んで彼らを盾にしていたが、それが無くなれば霧生との一対一だ。
「いいだろう。なら俺はお前にどれだけ見込みがあるのか思い出させてやる。徹底的に、二度と忘れることがないようにな」
それでもレイラが心の底から自分を否定して生きていくことを望んだ時は、霧生など簡単に振り払うことができる。
今ならどちらにも転びそうな予感があった。
「勝負だ」
「何が勝負ですか。霧生さんのせいで全部めちゃくちゃですよ」
レイラはズボンの紐をグッと結んで言った。
そうしてズカズカと寮の出口に向かっていく。
「で、どこ走るんですか」
鼻息を荒くして尋ねてきた彼女にこれから日課となる最初のメニューを教える。
「ひとまず学園10周だな」
途端にレイラの足取りが重くなった。
この距離は今の彼女の身体能力でなんとかこなせる距離である。
「……本気で言ってるんですか、昼までかかりますよ」
寮の出口に近づくにつれ、歩みを進める速度が落ちていく。
「ダラダラ走ってたらな。朝飯までに終わらせるぞ」
「…………」
寮の出口を前に、レイラはとうとう足を止めてしまった。
げんなりとした雰囲気が伝わってくる。始める前から既に先程の威勢はどこへやらだ。
「本気で取り組むんじゃないのか? それなら前提が崩れるから俺の判定勝ちになるんだが……」
「もうムカつく! 分かりましたよ! やればいいんでしょやれば! その代わり今日からご飯は全部奢って貰いますからね! 朝も昼も夜も!」
「ああいいぜ。それくらい屁でもない」
「言いましたよ!」
むしろ、知らないところでジャンクフードなどで腹を膨らませるだけの食事をされても困る。
昨日の食べっぷりを見てもレイラの食費は馬鹿にならないが、当面の食事に困らないくらいの貯蓄はあるので問題無い。霧生も手ぶらでこの学園にやって来た訳ではないのだ。
「そうだ、お前に渡すものがあった。手を出せ」
ふと思い出して、出口の扉に手を掛けたレイラに声を掛ける。
霧生はポケットから取り出したそれを、警戒気味に手を出したレイラに手渡す。
「なんですか、これ……」
それは「必勝」の文字が筆書きで記された白いハチマキだった。
「日本では気合いを入れる時、これを額に巻くんだ」
ヤケクソでも霧生に師事することを決めたレイラには渡しておかねばならないものだった。
しかし説明の最中からレイラは首を横に振っており、ハチマキは無かったかのようにポケットの中に消えている。
「これは流石に無理です。ダサすぎ」
「あぁ!?」
霧生が反論するのを待たずに、レイラは未だ街頭が輝く外へ繰り出していった。