第1話 生意気なアイツを分からせる
不可思議。
いつ、誰の、いかなる思考、感情、衝動が交錯してそれが発生するかは分からない。
"勝負"
霧生は目の前で不敵な笑みを装うユクシアを捉えつつ、冷静にそういった分析をして己の感情の高ぶりを抑える。
彼女との出会いから十年を経て、初めて明快に約束が果たされようとしていた。
時刻は午後10時過ぎ。《天上宮殿》の一角。
天上生専用の豪華な円形居住区画にある中央広間の、さらにど真ん中には、二人掛けのテーブルが設置されていた。幾度のアームレスリングの形跡が残るその席を挟み、霧生達は向かい合っている。
見回すと、今日の研鑽を終えた天上生達が円形居住区画の中央に据えられた広間を囲うようにして集まっていて、吹き抜けになっている2階の欄干にも、もたれ掛かったり、足を放り出してこちらの様子を見守る生徒達が大勢いた。
彼らはよほどユクシアが動いている所を見たいようだ。
レナーテ曰く、宮殿でも屈指の才能で知られるユクシアは、長時間眺めているか、何かアクションを起こしたりしない限り、活動している所を滅多に見られないハシビロコウのような存在だったらしい。
だった、というのは霧生が来てから変わったからだ。
そのためもあり、彼女に対する興味は以前より一層強まっている。
天上生と言えど集うのは必然的だろう。
霧生はユクシアに視線を戻す。
相変わらず気取った態度のユクシアは、見ていて愉快なものではない。
もし彼女が子犬であったら、尻尾をぶんぶんと振り回し、短く嬉し吠えを繰り返しながら辺りを転げ回り、とにかく全身で喜びを表現することは霧生にとって想像に易しいのに、余裕の素振りを見せているからだ。
とは言え霧生もそれは同じで、感情の高ぶりを制御するのに手間取っている。この熱く燃え滾る情緒を大っぴらにできたらさぞ心地良いだろう。
普段の霧生はそれをコントロールしたりはしない。
しかしユクシアを相手にしてみると、一転感覚が変わる。思春期真っ盛りのような自意識が派手に暴れだし、口数を減らす。
「キリュー、うまく笑えてないよ。緊張してる?」
幼少期を彷彿とさせるような生意気な口調でユクシアは言う。
とことん初心に返ってこの勝負に臨まんとしているのか、何の気もなくそう言ったのか、それとも彼女が変わっていないだけなのかは霧生には判断できない。
そもそもこうなったのは、先の一件での事後処理の礼をユクシアに伝えに来て、その流れで話しているとなぜか訳の分からない角度で口論となり、霧生が感情的に白手袋を叩きつけたことが発端だ。
でもまあ、良いきっかけだろう。
理性を働かせ、冷静さを取り戻した霧生はそう思っていた。
再会はしたものの、どちらからにしろ勝負をしようと言い出すのは難しかったからだ。
言い出すと、まるで節操無しのような負い目と、そちらがその気ならといった対応をされた時、後手に回る。
後手に回ると恥ずかしい。ので、こうして突発的に発現する勝負に関しては素直に良かったと思える。
目の前の一々スカした彼女を見ると、そんな感情も捨て去ってしまいたくなるが。
しかし元来、ユクシアと霧生の関係は、気兼ねなく挑み、気兼ねなく出し尽くし、気兼ねなく勝敗を決めるラフでハードなものだ。
お互い成長してしまったことでそれが失われたのだとしたら、それはそれで双方ショックを受けたはずだ。
この戦いでそれが取り戻される、そんな確信が霧生には、おそらくユクシアにもある。
僥倖だった。
「ハンカチは用意したか? 今日はお前、泣きじゃくるぞ」
「キリューこそ。泣いても負けなのは変わってないからね」
無造作であるが、どこか気品を感じさせる棒立ちのまま、ユクシアは言い返して来た。
そこへ、グラスとドスの効いたピンクの液体が波々と詰められたボトルを乗せてワゴンが二人の元へ運ばれる。
運び込んだのはキュリオという肥満体型の 天上生で、その後ろには彼の助手を務める草津唯華という天上生がいる。
キュリオが濃い顔をさらにシワ深くしながら、ボトルを高々と掲げると、ギャラリーから小さく歓声と拍手が散る。
しばらくして、彼はテーブルの上にボトルとグラスを配置した。唯華の方はなにやら落ち着かない様子で肩までの黒髪を時折弄りながら霧生とユクシアを交互に見ている。
彼らは魔術薬学を専攻する生徒。
さらに特筆すべきはユクシア親影隊のメンバーだと言うことである。
ユクシア親影隊は、文字通りユクシア・ブランシェットという何もかも規格外の少女を、自分の存在を除外した上で影から強く推す、在席人数においては学園一、ニを争う穏健派のファンクラブだそうだ。
小競り合いの最中、唐突に割り込んできて勝負内容の提示をしてきたのも彼らだ。
「僕はユクシアちゃんのカップリングをずっと探してたんだ。霧生君は完璧なんだ」
キュリオはブツブツと口を動かして、自分が触れた所を腰にぶら下げていたスプレーと布巾で入念に掃除し、部屋の端まで下がった。
唯華がボトルの液体を2つのグラスにそれぞれ注ぎ、これまた少し離れてかしこまる。
グラスからは驚異的に甘い香りが漂っていた。
「解毒系の魔術処置と《抵抗》が禁止でいいんだな?」
霧生は確認のため誰にともなく尋ねた。
高度な《抵抗》は体外のみにならず、体内までに衛生力を発揮する。
認識下にないもの、害を及ぼすと明確に理解しているものに対しては抗力を獲得し、たとえ食事に毒を盛られたとしても達人であれば身を守ることができる。
「はい。その他にも術酒の効力を妨げることを目的とした技能は全て禁止とさせていただきます」
唯華が解答する。
術酒とは、魔術薬学的観点から生み出された薬のことを広く言い表す言葉だ。
「だそうだ」
「知ってる」
これは世に愛おしくも蔓延る単純な勝負。格式低く、由緒ある対決。
自制心を競う、飲み比べである。
ユクシアに合わせて霧生は席についた。
辺りに漂う金色の色濃い粒子は、彼女の興を感じさせない笑みをいつでも無邪気なものに変えてしまいそうで、霧生を緊張させた。
ユクシアは見透かしたような瞳を向けてくる。新鮮味のある久しい感覚を、霧生が満喫していることも見抜いていることだろう。
「俺が勝つ俺が勝つ俺が勝つ俺が勝つ」
念を口に出すことで己を鼓舞する。
こうなればもう、ユクシアの期待に応える気など毛頭なくなる。ユクシアが満足するかどうかなど関係ない。
ただ、彼女に勝ちたい。そんな想いで溢れるばかりだ。
何から何まで比べて、比べて。競って、競って。挑み挑まれ、勝ち負かす。
敗北した時のことなど微塵も頭にない。
が、やはり幼少期、徹底的に負かされた記憶はどうしても蘇ってくる。
今なら届くのか、届かないのか。
少しの不安。緊張。高揚感に浮足立つ。体を駆け巡る《気》の感じがいつもと違う。ありとあらゆる鍛錬を積んで仕上げてきた自分に信頼できない要素が生まれている。
そう、これでいい!
これぞ勝負、これぞ挑むということ。
「キリューのその目、好き」
ユクシアは優しく微笑んでいた。
反して達観したような彼女のその目には儚さがある。本当の自分を別の所に隠して、傷付かないようにしているからだ。
霧生はユクシアを指差して言った。
「ちゃんと俺を捻じ伏せるイメージはできているか? いつも通りだ。どんな言い訳も利かないくらい、圧倒的に。
俺は出来てる。お前を粉砕する」
装い切れず、彼女の瞳がガラス玉のように煌めき、その口元は一瞬にやけそうになっていた。
霧生は挑発的に首をもたげ、下目でユクシアに笑みを向ける。ユクシアは不満そうに口をへの字に曲げた。
そんな中、ダンと足を鳴らした唯華が高らかに宣言する。
「草津唯華! 厳粛に審判を務めます!
当に相対するはユクシア・ブランシェット、並びに御杖霧生!」
頃合いを見計らった良いタイミングだ。
グンと、唯華は綺麗に伸ばした掌を天に振るい、
「──宮殿名物。媚薬、飲み比べ勝負!!
いざ尋常に──始めッ!」
それを勢い良く落とすことで、戦いの火蓋が切って落とされた。