第19話 憂い、晴れる
血と泥で塗れ、愛用している制服はズタズタ、息も絶え絶えといった様子の水面を、霧生は見下ろしていた。
「ハァ……、ハァ…………、参りました」
地に両の手をついた水面は頭を深々と垂れ、乱れた髪を丁寧にすくい、項を差し出して降参の意を示した。
弱者に生死を選ぶ権利など無い、そんな家の仕来りに則った礼節だが、霧生からすれば無作法を尽くしたもの。
──なぜ機会を与えない!
──見込みが無い。
迷わず兄弟達の首を切り落としていた祖父の姿が脳裏に蘇る。
「やめろ、吐き気がする」
言うと水面は体を起こし、倒れ込むように後ろに手をつく。彼女は肩で息をしながら「あ〜〜〜」と天を仰いだ。
「……ハァ……きっつ……、ハァ……まさか一太刀も、浴びせられないなんて……」
水面は腕を上げていた。
傷こそ負うことは無かったが、妹を相手に少しでも息を乱すのは初めてのことであったし、衣服を汚したこともこれまで無かった。
しかし霧生が彼女の健闘を称えることはない。水面の成長は、祖父の言いつけ通り研鑽を、殺しを重ねている証であるからだ。
それを霧生は憂いていた。
「水面、俺は」
「なに?」
祖父を恐れていても、そんな日常を是としている水面は変わることができない。
ただこの世に生を受けただけで、業を背負わされた。
同じ境遇を生き抜き、同じ苦痛を知っているからこそ、霧生はどうしても水面達兄妹を強く責めることができない。
道を示し、考えが変わるのを待ち、
いつか水面が救いの手を求めてくれないかと願うのみなのだ。
「俺はいつでも助けになるからな」
「……なにそれ、アハハ」
水面が茶化すように笑ったので、霧生は目を瞑り、溜息を吐いた。
彼女を想う気持ちもあるが、今は祖父の愚行を食い止めねばならない。
今回の件について詳しい事情を知っているであろう水面に尋ねる。
「で、殺し屋は二人か?」
「あー、まあ、うん。夜雲も来てるけど」
霧生は顔をしかめた。
ーーー
「だぁーッはっはっは! げほッ、オエェ、夜雲! 君はやっぱり殺しの才能がない! 僕は嬉しい! 僕一人殺せない君に乾杯! うぇゲホォォ!」
「うるっさい!」
全身を血に染め、盛大に吐血しながら仁王立ちで夜雲を煽るハオ。
エントランスを縦横無尽に飛び回りながら殺技を繰り出す夜雲。
そんな光景が、《転移回路》を経由し、宮殿へ足を踏み入れた霧生の目に飛び込んできた。
視界の端に、気を失っている女性を介抱しつつ、二人へ目を向けているユクシアを見つけ、霧生は連れてきた水面と共にそちらへ歩み寄った。
「何が起きてる?」
「見ていればわかる。ハオに助けはいらない」
ユクシアは端的に言った。
現れた霧生と水面の存在を完全に無視し、俄然勢いを増す一方的な殺虐に、霧生は今にも飛び出しそうになっていたが、ユクシアの言葉でなんとか思い留まった。
そして喚いてはいるが、本性を曝け出し、至って真剣な目をしてハオへと挑む夜雲を見て、霧生は大方の事情を察する。
「……夜雲、ガチじゃん」
困惑した様子で水面は呟いた。
夜雲が素の自分を出していることにも霧生は驚いていた。
いつぶりだろうか。霧生の逃避行においてもあんな姿は見ていない。幼き日以来だろう。
霧生は、霧生が、霧生であれば霧生のように。
殺しの才を持たずに生まれた夜雲は、そうした指導を長く祖父から受けてきた。
だから祖父の理想を求めて、性格や風貌、性別まで霧生の模倣をするようになってしまったのだ。
「……」
満身創痍のハオが立ち上がり、「41」と数字を告げる。
瞳を爛々と輝かせ、血でぐっしょりと濡れたシャツの袖で口元の血を拭いあげ、天井に足をつけた夜雲を見上げる。
「すごいね、彼」
ユクシアは興味深そうにハオを見つめていた。
霧生もまた見立て通り、いやそれ以上の真髄を魅せるハオに驚愕していた。
ハオの技力に、ではない。ハオが胸に掲げる絶対的な主義に、である。
また、ハオが爆ぜるように吹き飛んだ。
柱に叩きつけられた所を間髪入れず、夜雲の殺技が襲う。
熾烈な攻防が加速していく。
心臓を狙い、首を狙い、眉間を狙い、夜雲はハオの絶命を図る。あまねくハオは立ち上がる。
「42……! だめだ、全然、だめだ! こんなんじゃ僕は死なない、絶対に死なないぞぉ!」
「うぅあァ!」
掠れかけた声で衝動のままに駆ける夜雲。
ハオは両手を広げてそれを受け入れる。
エントランスでの惨状を目にした時、すぐにでも割り込み、夜雲の暴挙を食い止めようと考えていた霧生だが、今、足は動かない。
霧生が求めるべき境地が目の前にある。
「……これは、勝負だ」
殺し合いではなく──
霧生は目からウロコが落ちるような思いでいた。
ハオの突き抜けた信条が、死合を勝負へと昇華させているのだ。
絶対的な自信と技量に加え、経験と度胸が伴っている。
相手に殺意があるかどうか。何を行い、何を為そうとしているのか。
そういったことを、ハオは問題視していない。
命を賭けてでも己に立てた一つの芯だけを突き通すために、ハオは立ち上がる。
諦めない、妥協しない。諍いを嫌い、暴力を嫌っても、相手を拒絶しない。
しかし主張する。
お前はそうでも、自分はこうだ、と。
平和主義者。
否応なく、相手はそれに応える。あるいは応えさせる。
夜雲のように。
ハオは自分を絶対に曲げないための方法を知っているのだ。
過去に何があって、何を思ってこの極地に至ったのかは知る由もないが、どんな事情があっても譲らない部分を確定させている。
それは他でもない自分を守るための強固な鎧。
「こういうことだったのか……」
霧生は感動していた。
遮陽との対峙で霧掛かっていた核心に光が差す。
結局はとことん向き合っていくしかないということだろう。
思い詰めることも、悔やむこともあるかもしれないが、いざその局面に臨んだ時、迷いがあってはならない。
レナーテに対しても、遮陽に対しても。
己の主義を棚に上げ、諦めることなどあってはならなかった。
自分の主張を完膚なきまでに叩きつけねばならなかった。
相手が自分の理想通りに変わることを望んだり、こうでなければならない、などといった驕った押し付けをするのではない。
人と人。それぞれ自分の主義がある。
善悪ではなく、それはいつまで経っても、どうあがいても対等なのだ。
殺しを強く忌避するあまり、それに関わる人々を見下してしまっていた。
「水面、さっきの言葉を撤回させてくれ」
「……なに?」
「助けになるなんて、思い上がりも甚だしいことを言った」
「どういうこと、意味分かんない」
信じるものがあるならばこそ。
霧生も家族から逃げずに向き合っていかなければならない。
「俺はお前達を見下してたよ」
「お兄ちゃんはそれでいいんだって」
揺れる水面。
反して、いつしかエントランスには静けさが取り戻されていた。
ハオは地面に横たわり、夜雲は息を荒くしながら不安そうに彼を見下ろしている。
「……立つな、立たないで、もう」
夜雲は呟く。
ハオの指先がピクリと震える。
鮮血の波紋の中心にいるハオが片膝を立て、身を捩ってゆっくりと立ち上がった。
全身には深い刀創が刻まれ、多量の血を流しながらハオは口を開いた。
「ハァ……、ハァ……、49」
「……ッ! ぅ……、うああ……」
夜雲は悲鳴を上げながらよろめき、その場に崩れ落ちた。
「次で最後よ」
ユクシアが言った。
身じろぎし、夜雲に対して怒気を向ける水面を《気当たり》で宥める。
今、部外者の介入があってはならない。
ハオが夜雲にフラフラと歩み寄っていく。
「ゴホッ……、ハァ……ハァ……、立て」
「これじゃあ、私には、……なにもない! もう……!」
「僕は構わない。君がそれでいいなら」
その言葉で意を決したのか、夜雲はおずおずと立ち上がった。
血みどろの奥でハオは笑みを浮かべている。
「君はまだ何も知らない箱入り娘。悲観も良い、だが世界は広い。君がこれから得られるものなんて、山のようにある。
夜雲、それは君が選ぶものだ。
さあ、最後の一撃を見舞え」
「香流、私は……」
ギリと歯を噛み締め、瞳に意思を灯す夜雲。
想いを馳せるのは、夜雲を想い、夜雲のために死に行った少女だった。
水面は強く拳を握りしめていた。
奮起する夜雲を見据えたまま、ハオは両足をしっかりと地につけ、最後の一撃を静かに待つ。
夜雲は心を落ち着かせるように深呼吸をし、今一度姿勢を正す。
雲香流を携え、腰を低く構える。
ハオはにこりと微笑んだ。
「謹んで、参ります」
御杖流弑刀術──奥義。
《殺意》の奔流が夜雲を起点に渦巻いた。
十分すぎる間で、呼吸や態勢、機を整え、夜雲は地を蹴った。
「流香粹」
音もなく走った刀閃は、霧生が見てきた夜雲の技の中では郡を抜いて美しく、
しかしそれは宮殿の壁を傷つけるのみで、ハオを避けて通った。
ハオの背後に佇む夜雲は体を反転させ、その場に座する。
夜雲は唇を震わせながら、ふうと息を吐いた。
確かに50度目の殺技は放たれた。
「僕の勝ちだ」
立つのも精一杯であろうはずのハオは、不動の直立で言い放つ。
夜雲は深々と頭を下げた。
「……恐れ入りました」
激怒したのは水面だ。
振り返らなくても怒りに打ち震えているのが分かる。
正式な後継者でない夜雲が出し惜しみもせず全霊で挑み、敗北を喫したとなれば、水面が気にするのは家名の汚辱だ。
「もういいでしょ、殺してくる」
いつまでも頭を下げ続ける夜雲に辛抱を切らした水面は愛刀に手をかけ、一歩を踏み出した。
そんな彼女を霧生が止める前に、ハオが制止する。
「寄るな」
足を止め、鋭い眼光を向けた水面を他所に、ハオは夜雲の前に立った。
それでも構わず進んでいこうとする彼女の肩を霧生が掴む。水面は舌打ちしたが足を止めた。
「ほら、顔をあげて」
ハオは夜雲に手を差し伸べた。
50もの技を受け切り、立っているのがやっとの状態で、なお相手を思いやる。
あっぱれだ。
夜雲は血で汚れた床に額をつけて微動だにしない。そんな姿勢のまま小さく弱々しい声を出した。
「……私はどうすればいいでしょう」
最後には奥義を持ってしてもハオを殺せないと確信し、自ら斬らないことを選んだ夜雲。
御杖の教えに背く行為だ。水面の圧にも気がついているだろう。
夜雲にはもう行く宛がない。
もし水面が夜雲を許せたとしても、祖父は許さないだろう。隠し通せはしない。あれは敗北の匂いを機敏に感じ取り、必ず夜雲を殺す。
夜雲が霧生の模倣をしたままであれば、自ら命を断ったのかもしれない。夜雲の中の霧生は、夜雲にとっての理想の姿。引いては祖父の理想である。
だが今は違う。理想に倣わず自分の意志で決めなければならない。
それ故に、己を打ち砕いたハオに委ねたのだろう。今後のことを。
「そうだな……。じゃあ僕の弟子にでもなってみるかい? 君は見込みがある」
ハオは慈愛に満ちた笑みを浮かべながらそう言った。
御杖が他流の門下に入る。
夜雲が飲めば、一族にとっては前代未聞の汚辱だが、霧生にとっては喜ばしい。夜雲がそれを望むのを、見てみたい。
もはや水面は諦めたようで脱力し切っていた。きっと、恐ろしく冷めた目で夜雲を見ているのだろう。
夜雲が決めるには、長い長い時間を要した。
時折嗚咽を上げ葛藤し、そうして夜雲は──
「……どうか、お願い申し上げます」
御杖から解放された。