第16話 夜雲
決して届かぬ存在だと、目指すことすらおこがましいと、いつもユクシアだけが輪の外にいた。その度に自分の存在を疑い、強い疎外感に苛まれる。
天から授かった己の才能を卑下している訳ではない。
純粋に、自分が触れられる所にいると思って欲しい。そんなささやかな願いを抱いているだけなのだ。
ゆえにユクシアは、自分を例外なく殺せると判断した殺し屋の女に、あの日全力で挑んで来た霧生を前にして抱いた感情と似たものを感じたのだった。
「…………」
命が絡む戦いに才能なんてものは関係ない。彼女はきっと、あらゆる要素を度外視し、殺せる手段があるかないかの視点で動いている。差別のない一撃に、ユクシアの心が動くのは必然だったとも言える。
しばらく固まっていたユクシアだったが、ようやく心を落ち着かせると、見境の無い内なる欲求に落胆して我に返った。
なんて浅ましい──
分別もなく殺し屋に期待を寄せ、感情を左右させられるなど、あまりに程度が低い。
ユクシアの己に対する静かな怒気により、ピリと空気がひりつく。
それに抗うように女から放たれた虚仮脅しの《殺気》にユクシアは怯まない。一度受ければ理解が及ぶのだ。ユクシアを相手にして"二度目"の手は通用しない。
女がじりじりと後退している。
先の一撃に続き、すでに殺意をものともしないユクシアの異常性を今度こそ見抜いたのだろう。
そんな中で、ユクシアの気が楽なのは事実だった。
彼女は逃げるにしろ足掻くにしろ、全力を強いられている。
これはただの立ち合いではない。勿論ユクシアに殺意などないが、互いに「参った」では終わらない戦い。
生死を賭けた戦いを生業とする殺し屋が、埋めようのない格差に絶望し、跪いて放心したりはしないし、へらへらと笑ったりはしない。
皮肉にも、それだけでユクシアの足取りは軽くなる。
ユクシアは細剣の切っ先を揺らす。
女は背後の《転移回路》に飛び込むべく、体勢を低くしていた。
彼女がユクシアに勝てる見込みはゼロに等しい。早急にこの場を離脱することが最善の策と考えたようだ。
「どけ」
突如、殺し屋の女は背後から肩を掴まれ、限界まで目を見開いた。
その体がぐるんと宙に舞い、背面から叩きつけられたかと思えば、彼女はこめかみの上に踵を押し付けられる。
「ッ!? ぐっ……! なんだ……!?」
突然現れ、暴挙を行ったのは見知らぬ少年だった。
彼女が手にしていた短剣は先の一瞬の内に弾かれ部屋の端へ。女の顔を無造作に踏みつけるその片足は、彼女が両手で掴んでもビクともしていない。傍から見ても、圧倒的な《気》で完全に押さえ込まれていた。
「アンタ、ユクシアだろ」
少年はジタバタと激しい抵抗を重ねる女を涼しい顔で足蹴にしながらユクシアを指差す。
ユクシアは、少年が《転移回路》から現れた時点でその存在を察知していたが、まさか殺し屋の女に攻撃を仕掛けるとは思わず、この不可解な状況に眉を顰めていた。
少年は異様な雰囲気を放っている。
中性的な顔立ちに、肩まで伸ばしたサラサラの黒髪。ロングコートに身を包んでおり、背丈はユクシアとあまり変わらないくらいだ。
異様とまで感じたのは、少年には"彼"の面影がある点に起因する。
容姿もさることながら、《気》の流れや纏う雰囲気、特に不敵に浮かべる笑みなどは彼のそれに酷似している。
酷似、というよりは少年が模倣しているようにも見えた。
「そうだけど。あなたは?」
肯定し、問返すと少年は一層笑みを深めた。
口端から犬歯が覗き、双眸が細められていく。
「夜雲。御杖、夜雲」
「…………御杖」
馴染みのある姓名を復唱するように呟き、ユクシアは夜雲と名乗った少年を見つめた。
「ああ。御杖霧生の弟だ」
疑問を察したらしい夜雲が付け加えることで、細剣の柄を優しく握る手に少し力が入る。
「昔、何度かな。兄ちゃんがアンタの話をしてくれたんだ。天才なんだって?
だったらほら、こんな雑魚とヤってもつまんないだろ。俺が相手してやる。さあ構えろ」
「ぐ……、こ、この足を……どけろッ……!」
依然彼に踏みつけられている殺し屋の女が、夜雲の言葉を遮るように声を上げると、彼は表情を固めたまま視線を落とした。
その《殺気》はユクシアに向けられたものではなく、夜雲が殺し屋に向けたものであったが、女のそれとは比べ物にならない圧迫感にユクシアは僅かに目を瞠った。
否、圧迫感と言うと語弊がある。ユクシアの直感を正確に表すなら"違和感"と言うべきだ。
おおよそ夜雲は、殺し屋以上に殺人を普遍的なものとして捉えている。故に、罪の意識などは感じられず、その動作に移るまでが、呼吸に同義と言わんばかりに自然だったのである。
そんな一切混じり気の無い純粋な殺意は価値観の差異による違和感として、その異常を感じ取った五感が、圧迫感に変換して認識させる。
なんにせよ彼の《殺気》は女のものとは一線を画しており、別物だった。
ユクシアの動きに遅れが生じたのもそのせいだ。
「御杖流殺手術──」
夜雲の脚部に《気》が巡る。ぐしゃりと、彼女の頭がトマトのように潰れる──ユクシアの脳裏にそんな惨状がよぎった。
「……!」
「──鬼傅き」
ズン。
空気が振動し、風圧が部屋の隅まで行き渡る。
その時、ユクシアの視線は夜雲の足元にはなかった。
訪れた静寂を夜雲が破る。
「へえ。思いの外、いるもんだな」
夜雲は自分の足元を眺めていたが、しばらくしてユクシアと同じく、カフェテリアの方へ視線を動かす。
一変して、そこには間抜けな光景が広がっていた。
殺し屋の女は唖然とした顔でテーブル席に着いていて、傍らのカウンターでは一人の少年がセルフサービスのドリップコーヒーをせっせと二人分用意している。
「…………」
ユクシアは彼を知っていた。
彼は霧生と共にいた、確かハオという名の生徒だ。
ハオは二人の視線に応えるように振り返り、肩を竦めながら言った。
「ああ、僕のことはお構いなく」