第15話 孤高の背徳
大広間に繋がる回廊から心地の良い風が吹き抜ける。嵌め殺しの窓をあえて開放することで、天上宮殿のエントランスには空気の流れが出来ていた。
ゆえにユクシアは気付く。
《写し身》によって姿を消してはいるものの、堂々と《転移回廊》から現れた侵入者の存在に。
普段は賑いを見せるカフェテリアの一席に一人で腰掛けていたユクシアはテーブルの上に本を置いて立ち上がり、鞘から細剣を抜いた。
一切の気配を消して歩みを進めていたダガーがピタリと立ち止まる。
「あなたはここを通れない」
高度な《写し身》も、そこに存在する限りは空気の流れを阻害する。ダガーがユクシアの知覚を免れなかったのはそのためであった。
気付かれてしまった以上は魔力を無駄に食うばかりだ。《写し身》の魔術を解いたダガーの姿があらわになる。
ダガーは疲れを隠さずに言った。
「はぁ、こっちはハズレか。私もつくづく運が無い」
緊張感の無さにユクシアは眉をひそめる。
相対するダガーからは、目的意識もプレッシャーも感じられなかった。
怪訝に思いながらも適切な距離を保っていると、ダガーはまるで戦闘を放棄するかのごとく、片手にぶら下げていた短剣を無造作に放る。
彼女の短剣は大理石の上で回転し、丁度二人の間辺りまで滑ってきた。
「第一位だろう? 全く、お手上げだ」
肩を竦めつつ、ダガーがこの場を離脱するための魔術を用意している。周囲に漂う魔力を一目見るだけで、ユクシアにはそれが分かった。
現れて即退散の姿勢は、ユクシアの並外れた才覚を察してのことなのか。ユクシアはげんなりしたが、今は私情にかまけている場合ではない。
彼女を捕らえるべく、左足を前方に滑らせた、その時。
ゾクリ。ユクシアの背筋に悪寒が走った。
それがダガーから放たれた《殺気》によるものだと気づき、初めて向けられた正真正銘の殺意をどう受け止めればいいのか困惑していると、眼前に短剣が舞った。
先程ダガーが放棄したはずの短剣である。鋭利な刃先は意思を持ったかのように、ユクシアの首元めがけて食らいつく。
「……!」
数本、ユクシアの絹糸のような髪が散る。
瞬撃を、ユクシアはゆうに見切ることができた。
短剣は《写し身》の魔術で不可視となったワイヤーに繋がれ、ダガーが操っている。さらにその短剣もまた《写し身》によって刃長が偽られていたのだから、まさしく必殺の不意打ちと言っていい。
それを即座に見極め、不可視の剣先を躱し、その上でワイヤーを断ち切るという化け物染みた対応をしてみせたユクシアに、ダガーの思考がほんの一瞬止まる。
先日の序列戦を見る限り、ユクシアは才能を有していても殺し合いの経験が無いカモだった。
魔力量や純粋な技の精度、ある程度の力量差は、駆け引きや技の相性などで覆すことができる。
だが、今の彼女の動きはそういう次元の話ではない。
いつもこうしていると言わんばかりの体捌き。ダガーの刃が自分に届くことはないと確信しきった王者の風格。
ずっとぬるま湯に浸かってきたはずの少女が初めて《殺気》を受けた後の佇まいではない。
ダガーは失態を悟る。
(なぜ見誤った。こんな化け物を)
惨殺はまず不可能だ。全力で挑み、ありとあらゆる手を尽くしても、殺せるイメージすら湧かない。
彼女を躱して他の天上生を狙うのが最善だが、彼女を躱すというのが現実的ではない。
この思考の時間すら彼女にとっては長すぎる猶予だろう。なぜ仕掛けてこないのか。
平静を装いつつも動向を伺うが、ユクシアの意図は読めない。
それもそのはず。ユクシアもまた動揺しているのだ。
完全に不意を突いた一撃。それ自体を見切ることは難しくなかった。
問題は、少なくとも今の攻撃が少しの妥協も無く、万全を期して、ユクシアを"本気で"仕留めるつもりで放たれたものだったということだ。
その事実がユクシアを打ち震わせる。
いつもより力強く脈打つ鼓動の奥からこみ上げてくるもの。
それは、ユクシアが求めていたものに限りなく近い感覚であった。