第13話 信条の揺らぎ
こうなった時だけはどうすることもできない。
いくら足掻いても、どれだけ信念を突き通そうとしても、最終的には自分を曲げるしかなくなる。
それは霧生にとって、耐え難い苦痛であった。
地を伝い、空気を伝い、視線を伝い、霧生へと遮陽の"殺意"が押し寄せる。辺りに悪意が充満していく。
霧生がやるせなく目を閉じたのを見て、遮陽は少しの怒りを覚えた。
「余裕ぶってんなァ。女守りながら俺に勝てると思ってんのか?」
遮陽が霧生へ向けた一歩を踏み出した。彼の意識は、本来の標的であるレナーテにも向けられている。
「……勝つ?」
言葉を交わすつもりはなかったが、霧生はその言葉に反応する。殺し殺されで、勝った負けたをのたまう。そんな彼を霧生は哀れみの目で見据えた。
《殺気》の質から推し量れる遮陽の人殺しとしての歴。決して浅くはない。
彼に対してはどんな言葉も意味を為さないのだろう。根本的な考え方や、常識が一切異なっているのだ。
しかし無駄だと理解していても、露ほどに在るかもしれない遮陽の良心、あるいは僅かにでも自責の念が芽生えていることを、やはり霧生は願わずにいられない。
「殺すか、殺されるか、だろ」
結果が勝ち負けに昇華しない浅ましい闘争。その無意味さを訴えかけるように、霧生は語気を強める。
「あ?」
遮陽は言葉の意図が読めず、首をひねった。
「……人は死ねばそこで終わりだ。
悔しいという想いも、嬉しいという想いも、重ねて来た研鑽も、何もかも、死をもって潰える」
再戦の機会は永遠に失われ、抱く感情の行き場は無くなる。それを前提に戦うことを、勝負と呼べるのか。
敗北とは死であると、幼い頃からそう教え込まれた記憶が、霧生の脳裏に蘇る。
霧生がトドメを刺さなかった立ち合い相手の首を、祖父が容赦なく刎ねる。
実の親に斬り伏せられる父の姿。
幼くして間引かれる腹違いの兄妹達。
──"彼女"の心臓に、刀が深く突き刺さっていく。
吐き気を催しそうな程に忌々しい光景が、霧生の瞳に映っては過ぎ去っていく。
「……なぜ殺して良いと思う」
霧生は尋ねた。刀を握る力が緩む。
どこか懇願するようにも思える問いに、遮陽は呆れ果てた。
「殺し屋に説教なんぞ、的外れも良いところだぜ兄ちゃん。
俺らはよォ、良いとか悪いとか、んなことは微塵も考えてねえんだわ」
地面に接する足の裏から木々に刻まれた紋様に魔力を通し、遮陽はいつでも霧生を殺せる所まで準備を進めている。しかし下手にダガーの紋様を消費することはしない。
遮陽は霧生の後から現れるかもしれない新手のことも視野に入れている。目の前の生温い少年は、1対1の内に効率良く体力を温存して始末するのがいいだろう。レナーテも惨殺と言うにはまだまだ足りない。
「俺には殺しの技があって、それで飯が食っていける。それだけだ。俺にとってどうでもいい奴が何人死のうと関係ねーよ」
「…………」
霧生は口を噤む。
遮陽にとって殺しは生業。日常に成り果ててしまっている。そうして善悪の区別を付けずに生きて来た遮陽との隔絶的な価値観の差は、どうしても埋められないのだ。
「まあテメーがどう考えるのも勝手だがな? それを俺に押し付けてくんのはどうもいただけねぇ」
遮陽は背の後ろに手を回し、両手の人差し指をクナイの柄尻の輪に引っ掛ける。それに《写し身》の魔術を浸透させる。
「ッてなわけで、死んどけ」
一瞬の予備動作を経て、遮陽は前方に体勢を低くしながら踏み込んだ。背景が写し込まれた、視認できない2本のクナイが投擲される。クナイの軌道は、霧生の体を避けてレナーテへと続く。
強い殺気を感じ、自分が狙われていることを察した彼女の心臓が跳ねる。正面に立つ霧生に反応はない。
「……っ!」
まだ動けないレナーテは目をぎゅっと瞑った。
だが彼女にクナイが届くことはなかった。霧生が刀をただ一度横に払うだけで叩き落としたからだ。
「やるねえ」
ぴゅうと口笛を吹く遮陽。《写し身》によって視認が妨げられたクナイに反応した霧生に対する素直な称賛。遮陽は霧生の評価を一段階引き上げ、さらに投擲を続けるべく、再び背後に手を回す。そうして今度は10本のクナイを指に掛けた。
今や戦闘不能であるレナーテへの攻撃が、そのまま霧生への有効打に繋がる。霧生は本来なら身一つ守れば良いところに、余計な守備範囲が追加されている状態。そして霧生から仕掛けてくる様子もない。
ならば手数で後手を強いて、体力を削る。障害を消す手段でありながら、レナーテの惨殺という本来の目的も達せられる効率的な攻撃。
「お前の言う通り、押し付けだ」
遮陽がクナイを投擲しようとしたところで、霧生がまた口を開いた。
殺意を持って攻撃を仕掛けたというのに、まだ懲りずに話そうとする霧生に、遮陽は驚く。この後に及んで何を話すつもりなのか。それが気になって、思わず動きを止める。
しかしそんな遮陽をよそに、霧生は説得する努力を打ち切ることに決めていた。
霧生の苦心は遮陽には届き得ない。
これまで遮陽のような者と相対する度にこうして諭しては来たが、理解を得られたことは一度もなかった。話す前から分かり切っていたことである。
「俺はお前のことも、本当は殺したくないと思ってる」
霧生は吐き出すように言う。
「でもここで見逃せば、お前は生業にせよ気晴らしにせよ、殺しを続けるんだろ」
霧生が見逃したために、見知らぬだれかの研鑽が、歴史が、遮陽に摘み取られ続ける。
そんな誰かのことを思うと、霧生は悔しくて、悔しくて今にも気が狂ってしまいそうだった。
「……だから、殺すしかない」
霧生の背後でへたり込むレナーテは、その声が震えていることに気づいた。遮陽をまるで恐れず、堂々と振る舞っているように見えて、どこか追い詰められているようだった。
今だから、レナーテは霧生の殺しへの嫌悪感を深く感じ取ることができる。
遮陽の殺意は依然としてレナーテにも向けられている。
頼もしくも悲観に暮れた背中を見上げながら、彼女は恐怖を誤魔化すように、強く唇を噛んだ。
「言ってろよ!」
遮陽が10本のクナイを放ち、その場から跳ねる。宣言の割に、霧生からは殺意が感じられない。所詮は戯言だ。
羽虫でも払うかのように、クナイを次々と払い落としながら、霧生は溜息を吐く。
「お前が想像の何倍も強くて、俺を振り切ってどこかに逃げてくれればいいのに」
そうであったなら、殺さずに済む。仕方ないと割り切って、この業から逃げられる。
最低な、淡い期待を抱く。
「でもきっとお前は──」
遮陽はもはや霧生の言葉に興味は無かった。視覚外からの攻撃に転じるべく、彼は飛び回る。
しかし霧生は正面を見据えたまま、言葉を続けた。
「今までの研鑽も虚しく、何の実力も発揮できないまま、訳も分からずに」
柄を持つ手に力を込め、刀の切っ先をほんの少しだけ土に触れさせた。寸刻後に遮陽の首が飛ぶのが容易くイメージできる。そんな自分を激しく嫌悪した。
「死ぬ。──いくぞ」
"霧立ちのぼる"
少女の声が霧生の頭の中に響く。
霧立姫に紐付けられた術式が、それを起点に展開された。
辺りに濃霧が立ち込めていく。周囲を飛び回る遮陽の影がそれに埋もれていった。
(馬鹿がよッ!)
これ幸いとばかりに遮陽は自ら霧に紛れる。鋭敏な五感を求められる殺し屋に視界の妨げなど無意味。呼吸を止め、足音を消し、霧の向こうにいる霧生に狙いを定める。
そんな遮陽の背後に霧生が現れた。
「……!」
立ち込める霧は目を眩ませるものではない。所作一つ一つを術式とするための、自己中心的な空間。
霧生が一歩を踏み出せば、呼応するように周囲の霧がうねりを見せる。体に纏われた魔力がそれに浸透し、即時的に魔術が発動する。
足元から、霧生の刀が振り上げられる。
遮陽は右足を地面に食い込ませ、方向転換することで、刀を躱す。頭上に伸びる軌跡を潜り、遮陽は霧生の懐に踏み込んだ。
脇腹目掛けてクナイの切っ先を振るう。霧生は反応できていない。
──殺った。
確信し、遮陽は腕に送る《気》を増幅させる。そして得物を勢い良く振り抜いた。
「……ッ!?」
が、手応えがまるで無い。
振り抜き様に視線を流していくと、胴上から真っ二つに分かれた霧生の体は、動作を続けたまま幻のように揺らめいていた。
遮陽は目を瞠る。
直後、遮陽は頭上に影が出来るのを感じた。クナイを構えつつ見上げると、逆さに舞う霧生が振り下ろす刀が眼前に迫っていた。
遮陽は驚愕に口を半開きにしたまま、脊髄反射でクナイを向かわせる。刀とクナイがぶつかり合う。
そう思い、力んだ遮陽に冷気が覆い被さる。
眼前で刀を振り下ろしていたはずの霧生が、またも揺らめき、遮陽に寄りかかるようにして霧散していた。
「あ……」
遮陽は助走を付けて踏み込んでいる霧生に今更気が付いた。霧生が握る刀が遮陽の胴体を横断していく。
これも幻。霧状の冷風が遅れて遮陽を襲う。
霧生の姿が捉えられない。何が起きているのかも分からない。遮陽はいつの間にか立ち尽くしていた。
霧生は霞の向こう側から遮陽を見据え、また距離を縮めていく。呼応するように纏わりつく霧。
霧生は一心に考えていた。せめて楽に殺してやりたい、と。
死の恐怖に怯えることなく、何が起こっているのか分からないまま、一瞬の内に。
遮陽の意識外から切迫した霧生は、その首に向けて霧立姫を滑らせる。
終わりだ。
「……やめてくれ」
「ッ!!」
遮陽が零し、霧生は咄嗟に刀の軌道を変えた。
ボトリという音と共に、遮陽の重心が傾く。視線を下ろすと、そこには腕が落ちている。言わずもがな、遮陽のものだ。
血飛沫が上がる。小さく肩を揺らす遮陽は、落ちた腕を見つめたまま佇んでいた。
霧生は顔を歪ませギリと歯を鳴らす。
遮陽は実力差を感じ取った訳でもなく、状況を理解していた訳でもなかった。
数多の修羅場を潜ってきた殺し屋としての本能が、漠然と彼に死を悟らせ、訪れる最期の瞬間までに取ることができる唯一の選択肢を、選ばせたのだ。
命乞い。
熟練の殺し屋である遮陽だからこそ、無意識にそれが出来てしまった。
「ふざけるな!!」
遮陽の胸ぐらを掴み、霧生は叫んだ。
遮陽は開いたままの口を動かすが言葉は出ない。今ようやく状況を飲み込み始めているところであった。
命乞いをしなければ死んでいたこと。切り離された右腕。多量の出血。殺しにおける、霧生との途方もない力量差。
自分が握るカードの全てが、霧生には一切通じないと直感的に悟る。
「ぁ……俺ァ……」
霧生は遮陽を殴り飛ばし、そのまま地に組み伏せる。そしてその喉元に刀を押し付けた。刀を押し付けようとする理性を、情念が止める。
「ああ、クソっ……!」
何度もその首筋に刃を食い込ませようと試みたが、出来なかった。
動悸が加速する。生に縋ろうとする遮陽を霧生はもう殺せない。
とうとう、霧生は刀を遮陽の首から退けてしまった。
それを機に霧が晴れていく。
二人から少し離れたところに座り込むレナーテは、遮陽を組み伏せる霧生の姿を目の当たりにした。
「……お、俺が悪かった……!」
遮陽から紡がれるのは仮染の言葉。その場を生き抜くための方便。
霧生は歯を食いしばり、今一度遮陽に刀を向けた。ザンと、遮陽の腹部と肩に刃を突き立て、すぐに手当てしなければならない致命傷を的確に与えた。
「ッぐぁぁ!」
だが、それで遮陽が死ぬことはない。霧生に殺すつもりがないのだから。
霧生は遮陽の肩を貫く霧立姫に、力無く寄りかかった。
「誰に雇われた……、人数は。全部吐け」
霧生が尋ねると、遮陽は生きるためペラペラと情報を垂れ流す。
それを虚ろに聞き入れて、霧生はまた口を開いた。
「……今だけでいい、俺の前だけでいいから、誓ってくれよ。二度と人を殺さないって」
引き攣った遮陽の目を見据え、霧生は言う。
それはきっと無意味な誓いになる。
それが分かっていても、霧生はその言葉を聞かなければならなかった。でなければ平静を保てない。自己が崩壊してしまう。
「誓うって言え!」
「わ、分かった、誓う!」
霧生の中にある矛盾。隠しようもない弱さが露呈する。
霧生は肩から刃を引き抜いて、血を切った。その後、刀を鞘に納めると深い深い息を吐き出し、遮陽の上から退く。
「……行け」
そうしてまた、己の逡巡に目を瞑るのだった。