第10話 再戦の取り決め
「霧生くん」
宮殿内で行方不明になってしまったハオを置いて、ひとまず地上に降りようとした霧生を呼び止めたのはレナーテだった。
「なんでユクと話してたの」
振り返ると、そこにはいつにも増して負の感情を宿した瞳で霧生を睨めつけるレナーテがいる。
《転移回廊》が置かれるエントランスホールには、殺し屋襲来に備えて決して少なくない数の天上生が配置されており、霧生達はカフェで談笑していた彼らの注目を既に集めてしまっていた。
「なんでって」
「学園辞めてよ霧生くん。なんでまだいるの? 約束でしょ。早く消えてよ。私に負けたじゃん」
答える間もなく矢継ぎ早に言葉を続けるレナーテ。霧生は視線を上にやってから、ふうと息をついた。
「やっぱりお前とはちゃんと話しておいた方がいいか」
《転移回廊》に向かうつもりだった霧生は90度方向転換し、カフェの一席に腰を落ち着けた。
「お茶しようぜ」
「…………」
腹の底から嫌そうな顔をしたレナーテだったが、霧生に物申したい事があるのも事実、彼女はテーブルを挟んで霧生の前に立った。
「まあ座れよ」
正面の椅子を足で押して促すも、レナーテが座る様子はない。小さく唇を噛み締めながらこちらを睨み下ろすのみだ。
霧生は彼女をどう諭せばいいのか考える。
レナーテが純粋に真っ向から嫉妬心をぶつけて来るのであれば何度でも叩き潰すだけだが、"殺意"が混じるとそうはいかない。
衝動的に誰かを殺したくなる程憎むことは仕方ないとしても、一度でも行動に移してしまえば、負の感情にそれが孕むことを常駐的に許容してしまう。抵抗が無くなる。
挙げ句、負に押し潰され、他人を妬み、自己の向上を無意識に否定する。そうして潰れていく者は決して少なくない。そしていずれ人を殺めることすら良しと考えるようになるのだ。
まず、己のためにならない。
レナーテを諭すにはそれが第一であるが、霧生がこの件において重きを置くのは「他人」に対してである。
人を殺すということは──
「話はシンプルだよ。霧生くんは負けたんだから学園を去らないといけない。ホントにそれだけ。負け犬は消えて」
霧生の思考を遮るように"負け"を連呼され、ピシリと理性にヒビが入る。
「OK。まず俺は負けてない」
結果、霧生の口からは反射的に感情的な言葉が放たれた。しかしすぐに落ち着きを取り戻す。勝ち負けを主張し合って済む問題ではない。
「負けじゃん。あの時私から逃げたんだから。なんか変な言い訳してたけど、実際勝てないって思ったんでしょ」
レナーテは霧生の神経を逆撫でする言葉を的確に選び、それを容赦無く浴びせてくる。
この学園に来て下手に関わって来た者より、霧生の性格についての分析が進んでいるようだった。
しかしそれは霧生も同じことである。何度か関わってレナーテを理解し始めている。
「エスプレッソ」
霧生が黙り込んだのを見て彼女はパチンと指を鳴らした。するとカウンターのグラインダーがひとりでに豆を挽き始め、コーヒーメーカーにフィルターが被さり湯が沸き立つ。一連の動きを経て、湯気の立つマグカップがテーブルの上に降り立った。
それを少し啜ってテーブルの上に置くと、レナーテはまた口を開く。
「何も言い返せないの?」
「勝てる勝てないなのか? 俺を殺そうとしたのに」
霧生はレナーテの良心に手を伸ばした。
「そうだよ。だってあなたの方が強いって自負があるなら殺すにしろ殺さないにしろ、ねじ伏せればいいだけじゃん。私に殺されると思ったから逃げたんでしょ。素直に負けを認めれば良かったのに」
──認識が軽い。
霧生の手を払い除けるかのようなレナーテの肯定に、そんな感想を抱く。
そうやって直接的に物事を考えられるのは、才ある者に《技能》を継承することを主目的にしたこの学園で育って来たからである。そして、霧生に合わせてその認識を改める必要はない。
それはこの学園で研鑽する者の魅力の一つ。
きっと、悪意のために《技能》が振るわれる世界を知る霧生の認識が重すぎるのだ。
だからこそ、霧生は自信を持ってレナーテが間違っていると言い張れるのだが。
「お前も本当は分かってるんだろ」
「何が」
「宮殿に殺意に基づいた研鑽をしてる奴がいるのか? いるとしても、それは人として尊敬できると思うか? 自分のやってることを見返してみろよ」
パシャリ。
レナーテが手に持ったマグカップを振り向けていた。出来たてのエスプレッソが霧生の髪を滴った。
「それじゃお前の気は済まない」
レナーテの瞳を見据える。
「御託はいいって。あなたがどう思おうと私から逃げた事実は変わらない。辞めてよ、学校。ホントにただそれだけなんだって……」
目に涙を溜めて訴えるレナーテ。
そこまでか、と霧生は思わず目を瞠った。
「どんだけ目の敵にしてるんだよ。俺はお前のことが好きなのに」
「私は嫌いなんだって! もう目に入るだけで嫌……本当に、自分でも分からないくらい……あなたが無理」
髪をくしゃくしゃと掻き乱しながらレナーテは憎悪を撒き散らす。
霧生はコーヒーでベタベタになった髪を軽く揃えながら深く息をついた。この調子だと再戦はまだまだ見込めそうにない。
ユクシアを頼るのは逆効果になるだろう。彼女が介入してこないのはそう思ってのことなのかもしれない。
そして憎しみが先行しすぎて、彼女には何を言っても響かない。
こうなるとやはり時間を空けるしかないのだろう。
しばらくはユクシアとも関わらないようにして、レナーテがある程度落ち着いたら、勝負の中で少しずつ互いの理解を深めていく。
それが現時点で考えられる最善の案だ。
レナーテを見据えたまま口を閉ざしていると、彼女は観念したといった様子で両手を下ろした。
「……分かったよ」
「…………」
「霧生くんの望む形で戦う。
だからもっかい決闘して。それで私が勝ったら今度こそホントに消えてよ」
「今のレナーテには無理だ」
平静を欠きすぎている。戦っている内にまた殺意が芽生えてくるに違いない。
「できるから。お願い」
レナーテが懇願し、霧生は目を瞑った。
彼女ができると言うなら、それは正当な勝負の申し出だ。出来ないと分かっていても、断るのが最善と理解していても、
無碍するのは信条に反する。信じて受けるのが筋だろう。
「……分かった。その代わり少しでも殺意を感じたら、また無効にするからな」
しばらく考えて込んでみても、やはり霧生にはそれを断る事が出来なかった。
レナーテの口元が吊り上がる。
「うん、それでいいよ」
「じゃあ殺し屋の件が済んだら……やろうか」