第3話 手短に再会を済ませる
「でも霧生くん、ここは広いよ。どこにいるかも分からないでしょ?」
煽って置きながら霧生を渋らせるようなことを言うレナーテ。
「いいや、俺には分かる」
霧生は振り向きもせずそう言って、大広間の扉を開け放った。
そこで稽古をしていた天上生達の意識が一斉に霧生へと向く。
彼らに軽く手を振りながら周囲を見回せば、"黄金の粒子"が大広間から伸びる回廊の奥へと続いていた。
並外れた生命力を持つ者は、図って意識しなければ、存在するだけでその痕跡を辺りに振り撒いてしまう。
常に湧き出る《魔力》や《気》を少しも漏らさないよう体内に囲っておくというのは、才に恵まれた者であればある程、煩わしいものだ。
《天上宮殿》では誰もがそのような小事に囚われることなく研鑽しているようで、辺り一面にどれも常軌を逸した才気の痕跡が残っている。
中でも、彼女のものは顕著だ。
数多のそれに混じる別格の気配が、際立って目につく。肌に感じる。
霧生は、彼女のことを今もなお鮮明に思い出すことができるから、それを正確に知覚できた。
そんな才気を辿り、あえて塗り潰すように、必要以上に存在感を放ちながら霧生は回廊を闊歩する。
そうして辿り着いたのは突き当りの巨大な扉。この先にユクシアがいるという確信があった。
その扉を押し開く前に、霧生は振り返る。
後方から追って来ているレナーテに「付いてくるな」という念を込めた視線を送った。
「……」
彼女が眉を寄せるのを見て、伝わったとしておく。
霧生は背の丈の何倍もある扉を両手で押し開いた。
そこに現れたのは"景色"
青空は遠く、晩春の若葉のみずみずしいみどりが視界一面に広がる、一つの"風景"である。
よく見渡せば田畑や家屋もあちらこちらに点在しており、ここに暮らす者の生活が伺えた。
「へえ……」
凄まじい規模の《隔離空間》に霧生は一度目を瞠る。
《隔離空間》とは、実在する空間を歪めることで、広げたり縮めたりしたスペースのことである。
高等魔術の中でも、第一級と呼ばれるもので、幾重もの自律術式を組み立ててようやく発動できる類の魔術である。
この規模の《隔離空間》は外の世界で様々な経験を積んだ霧生でも初めて目にする。
一体どれ程の術者がどれだけの人数でこの空間を維持しているというのか。安全性を考えると、天上生総がかりだとしてもおかしくはない。
なんにせよ正気とは思えない試みに霧生は胸を踊らせた。
中へ進むと、空間の安定を保つためか、背後の扉がひとりでに閉まる。見れば入ってきた扉の裏側にも景色が広がっていた。
この空間においても彼女の気配を辿る。
畦道を行き、進めば進むほど痕跡は色濃くなっていく。
盛り上がった野原の先から、ヒュンヒュンと剣舞の音が聞こえてくる。
繊細な所作の一つ一つに膨大な《気》を消費して、何者かが舞っている。
霧生が近づいて来ていることなどとうに承知のはずだ。
草原を越えると、少女の姿が見えた。
丘の先に見える、夕焼けを模造した光が彼女を照らし、彼女は金の燐光を鮮やかに散らす。
その手前、十数歩まで来ると、丁度彼女が舞い終えた。
あれだけの動きを見せて、呼吸には少しも熱が籠もっていない。
「楽しそうだな」
声を掛けると、少女、ユクシア・ブランシェットは汗一つ伝わない、あの日を彷彿とさせるしれっとした顔をおもむろにこちらへ向けて、口を開いた。
「なんだ、キリューか」
澄んだ瞳に雪を欺く白い肌。端麗な顔立ちにはほんの少しだけ幼さが残っており、絹糸のようなブロンドは夜空色の外套によく映える。背の丈は霧生の方がいくらか高くなっていた。
薄っすらと笑みを浮かべてじっと見つめてくるユクシアに、霧生は唇を真一文字に結んだ。
そんな霧生の視線を誘導するように、彼女は手に持っていた細剣を鞘へ納める。
「それ、使えるのか?」
ここぞとばかりに問う霧生。
「今の、見てなかったの」
今の、というのは剣舞のことだろう。
「無闇やたらに振り回してるように見えた」
焚き付けるように言うと、ユクシアは催促するように"霧生の腰"に視線を落とす。
「…………」
この学園に来てから肌見放さず身につけていたが、気付かれるのは初めてのことであった。
背景を写し込む《写し身》の魔術などではなく、特殊な術具によって存在の一部を封印することで認識を阻害していたはずの、刀。
勘付いた者はいたかもしれないが、ここまで明確に察知されるとは。
要望に答え、それにそっと手を添えると、彼女もまた細剣の柄に指先を乗せた。
「──霧立姫」
銘を囁くと、藍色の組紐が解け、宙に舞う。佩いた鞘が顕になっていた。
これを振るう相手は二種類。
──────か、真に認めた好敵手か。
シャララと耳あたりの良い鞘走り音を立て、光が現れる。
それは刀身。穢れ一つなく、明るく冴えた八雲肌。覗き込めば、吸い込まれそうになる程恐ろしく澄んだ中直刃が反転した景色を映し出す。
そして加速した。
鞘から抜き去られても、《気》の軌道に乗った刀の加速は止まらない。
軌道はユクシアの首筋に続く。
しかし、軌道がその先を描くことはなかった。
彼女が自ら首元に添えた細剣が、音一つ立てず霧立姫の推進を止める。
常人なら目にも止まらぬ速度で放たれた剣撃を、細剣の切っ先でクッションするように受け止めたのだ。
そこから互いの刀剣はピクリとも動かない。
「「合格」」
その言葉が重なることで、今度は互いに顔を顰めた。
「いや、それは俺のセリフだろ」
「私のセリフ」
「俺の方がちょっと早く言った」
「私」
「スカし女、泣かす」
「悪ガキ」
切っ先を合わせたまま、低レベルな言い争いをする。
霧生の心情は普段とは違っていた。
いつもならこのような言い争いも勝負のアクセントとして歓迎するのだが、この澄ました少女が相手となると心底ムキになってしまう自分がいた。
くだらない悪口一つになぜかどうしようもなく感情を揺さぶられて、悔しくて、なんでもいいから勝ちたいと思う。
だが、この感情を求めていたのだ。
自然と柄を握る力が強まる。
「でも、来てくれてありがと。好き」
顰めていた顔が柔らかい笑みに変わって、霧生の力が僅かに緩んだ。
その瞬間、ユクシアの体が刃を沿うように懐へと滑り込んでくる。即座に刀を握り直した霧生はそれを真横に振るい、彼女を飛び退かせる。
「お前な……」
「会えるのはもっと先になるかと思ってた」
悪びれず、悪戯っぽい笑みを浮かべるユクシア。
「恥ずかしがって中々会いに来ないだろうなって」
「言ってろ」
霧生が脇構えからユクシアの側面へと躍り出ると、剣戟が始まった。
しかしそれは風を切る音のみが響き渡る歪な剣戟である。
刀と細剣同士がぶつかり合うことは決して無く、振るわれたそれらは総じて空を切る。
「2位なんてガッカリだ、ユクシア」
重ならない剣の軌跡が飛び交い、それを躱し合う中、霧生は本音を零す。
事情をおおよそ推測できても、それは紛れもない本心であった。
過ぎた刀に一瞬、少し困った表情のユクシアが映る。
「形式上だけでもそうじゃないと、心の安寧を保てない」
意外にも、ユクシアは唯一の弱みを隠さなかった。
頂点という名の退屈。誰も彼もが自分に憧れてしまう絶望。いつでも結果に"必然"の文字を据えられる勝負には、どうしても意義を見出だせないのだろう。
「かわいそうな奴」
「キリューが来たから、その必要もなくなったんだけど」
霧生の鼻先スレスレを細剣が横切って、霧立姫がユクシアの瞳の一寸先を通り過ぎていく。
ユクシアがシャンと細剣を納めたのを見て、霧生も霧立姫を鞘に納める。
「なるほどな」
トンと両足を地面に落ち着けて霧生は頷く。
「馬鹿なキリューにも悩み事はあるんだ」
短い言葉と、童心に返って剣を交えることで、内に抱えるものを図らずも少しずつ曝け出すこととなった。
勝負ではなく、一種のスキンシップだ。
「とりあえず、お前は1番になって来いよ。話はそれからだ」
鞘に組紐を巻き付けながら、霧生は踵を返す。霧生はともかく、ユクシアのささやかな雑念は手っ取り早く解消できることである。
「そのつもり。その後はキリュー、嫌という程負かしてあげる」
「俺のセリフな」
ーーー
「…………」
霧生とユクシアのやり取りを大水晶の間で終始監視していたのはレナーテである。
流石に趣味が悪いとは思いつつも、二人の関係はクラウディアも気になるところではあったので、共に覗き見をしていた。
そしてそんな二人の後ろにも、ユクシアの動向を気にしていた天上生達がいる。
大水晶からの視線には気づいていたはずだが、霧生とユクシアは気にも止めない様子であった。
「あんなにはしゃぐユクシア、初めて見たな……」
ユクシアの知られざる一面に驚くのはクラウディアだけではない。他の天上生も同じことだ。
クラウディアは驚愕の一方で、彼女の演舞に当然のように付いて行っていた霧生の実力にも悲観していた。
自分と霧生の間には計り知れない距離がある。霧生へのリベンジを目論む者としては、気の遠くなるような力量差を見せつけられたようなものだ。
だが、今はそれより──
と、クラウディアは恐る恐るレナーテに視線を向ける。
「なんなの、それ」
レナーテはドス黒い負のオーラを全面に溢れ出させていた。
ユクシアの抱えていた弱み。もうかれこれ10年近く共に過ごして来たのに何も知らなかった。
彼女に憧れ、尊敬すら抱いていた自分を悔いることはできない。その感情が本物だったからこそ。
何が親友だろうか。彼女から何も打ち明けられるはずがない。
ユクシアの人生に誰よりも長く関わって来たはずの自分は、彼女にとっては有象無象の一人として映っていたのだ。
ギリと、レナーテが強く歯を軋ませる音が、ざわつく空間にもはっきりと響いた。
「許せない……」
その嫉妬と悔恨にもならぬ憎悪は、論なく霧生へと向けられる。