第1話 霧生の、霧生による、霧生のための勝利学
一流の《技能者》を目指し、世界中から才溢れる生徒が集うアダマス学園帝国。
座学棟3号館102大講義室では、良い意味でも悪い意味でも今最も注目されている生徒、御杖霧生が担当する『勝利学』が満を持して開かれていた。
当初の予定から3週間もずれ込んで、ようやく第1回目の講義である。
そんな初の講義にして、『勝利学』は規定時間を大幅に超え、既に3時間に渡って行われていた。
「まさかこんなに早く再戦することになるとはな、クラウディア」
"新しい"三人掛けの講義机を挟み、霧生の正面に立つ少女の名はクラウディア・ロードナー。
3週間前、霧生に敗北を喫し、その意趣返しのため、大いに奮闘する少女である。
そして霧生とクラウディアの二人を囲むのは、『勝利学』に出席するおよそ100名弱の生徒と──講義机の残骸の数々である。
「こんなこと言っても無駄なのはよく分かってんだけど……、お前は本当にむちゃくちゃだ。どういう育ち方をしたらそこまで頭がおかしくなる?」
表面上は呆れたような声色で霧生をなじるクラウディアだが、これから始まる勝負にどこか緊張した様子も伺える。
彼女が腰に届きそうな黒髪を掻き上げて後ろで結うと、褐色の首元が顕になった。
「とか言ってやる気満々じゃないか」
「当然。やる以上は本気でいく」
瞳に爛々と輝く闘志を燃やし、クラウディアは腕を捲る。
良質に鍛えられたその腕は以前とは違い傷だらけで、治療の暇すら惜しんで研鑽を重ねていることが推し量れた。
霧生もまた改めて腕捲りをする。
周囲でそれを見る生徒のほとんどが片腕を負傷していた。
負傷した生徒の一人であるリューナが小さく呟く。
「どうしてこうなったの……」
時は3時間程遡る。
ーーー
ーー
ー
午後1時、『勝利学』が始まる昼一番の時刻。
先日行われた学園史に残るエルナスとの立ち合いを含め、連日注目を集めていた霧生の講義には総勢400名にも上る生徒が押し寄せていた。
履修登録の時点で大混雑を予測した学長が『勝利学』に大講義室を割り当てたが、それでも定員を超える人数が押し寄せて収拾がつかない状況だ。
混乱には『勝利学』に興味を示した天上生達の下界という要因も相まっている。
「はじめまして」
喧騒の止まない講義に霧生の肉声が"響き渡った"。
広い講義室に満遍なく声が届くように《遠響》の魔術を使った第一声。それにより室内のざわめきがピタリと止む。
遠距離での会話に便利な魔術の行使、もとい霧生の気遣いは威嚇に近い形で受け取られたらしい。
それを気にも止めず、霧生は言葉を続けた。
「勝利学の講義を受け持つことになった御杖霧生だ。講師とはいえ、皆と同じ生徒の身なので好きに呼んでくれ」
生徒に対する態度をどうするか悩んでいた霧生だったが無理に取り繕わず自然体でいくことにした。
400人もいて生徒達からの応答は一言もない。時折頷いている者がいる程度だ。
まばらに点在する仰々しい外套を着衣している生徒は天上生で、彼らは熱を持たない、かといって冷めてもいない目で値踏みするように霧生の仕草をつぶさに観察している。
天上生クラウディア・ロードナーだけは野犬のような眼光で常時霧生を睨みつけていた。
そんな威嚇に反して手元にはしっかりと筆記用具とノートが置かれており、霧生から学ぶ意欲は旺盛なようだ。
他にもリューナやレイラ、ニースなどの顔見知りが講義室内では目に入る。
ホワイトボードの前を往復しながら一通り室内を見渡し終えた霧生は教壇の前に止まった。
「さて、さっそくだが皆は勝利学をどういった講義だと考えている? なんとなく俺と皆で解釈がかけ離れている気がしている」
ざわめく講義室。
霧生は最前列中央の席に座る金髪の少年に視線を移した。
歳は霧生より4、5程下の、13くらいだろうか。絵に描いたような美少年で、周りと比べて頭一つ分程小さい。
彼は霧生と視線が合うと小さく身を震わせた。
「名前は?」
霧生は彼に向かって歩を進めながら尋ねた。
「ノア・フランシス……、です」
「ノアか、よろしく。
じゃあノア、勝利学はどんな講義だと思ってる?」
「……正直イメージできていません。文字通り勝利を学ぶ講義でしょうか」
「ふむ、それはそうなんだが……。うーん、惜しいな……」
霧生が中腰になると、視線の高さが丁度ノアと同じくらいになった。
ノアは緊張を誤魔化すように一度前髪を整える。
霧生は中腰のまま講義机の上に右肘を付き、応答を待つように手を開く。そして左手で講義机の端を掴んだ。
それは明らかに"腕相撲"の姿勢。
「えっ……、え? あの、ちょ……えっ……?」
戸惑うノア。
霧生は真っ直ぐにノアの両の目を見据えたまま静止している。
講義室内の視線全てがノアと霧生に集っていた。
そうなると彼は渋々といった様子で霧生の手を掴み返し、腕相撲の図式が完成する。
「ノアのタイミングで来い」
告げるとノアは意を決したように息を吐き、こちらの手を強く握った。
「……では、失礼します」
グンと霧生の腕に強い負荷がかかる。
なるほど。
この歳で学園にいるだけあって、まともに《気》を扱えている。今の強かな雰囲気を見るに、"才能潰し"などの妨害を退け、上手く成長できている才格者なのだろう。
しかし霧生の腕は微動だにしない。
「確かに勝利学は勝利を学ぶための講義だ。だが、ノアの答えには主語が抜けていた……勝利学は」
「くっ……んぬぅぅぅぅぅ!」
必死に霧生の腕を倒そうとするノア。
霧生は彼に正解を告げた。
「勝利学は、"俺が"勝利を学ぶための講義だッ!!」
バチィィィン!
「うわぁぁぁぁぁぁあ!?」
一気に力を込めた霧生がノアの腕を講義机の上に叩きつけた。
当然用途が違うので、講義机はその衝撃に耐えきれず真っ二つに割れた。ノアの左右に座っていた生徒が立ち上がり退く。
机と共に地面に転がるノアを見下ろし、霧生は拳を握った。
「ィよォし!」
勝利の声が響き、ドン引きといった視線の数々が霧生に突き刺さる。
ノアは赤く腫れた手を半泣きで摩りながら座り込んだ。
霧生は踵を返し、再び教壇の前に立つ。
「と言う訳で、今日の講義は腕相撲だ。勿論、この講義に意義を感じない者は"逃げ"帰ってもらって構わない。
まあその場合、俺の不戦勝になるが」
室内に喧騒が戻って来た。
「ふざけんな!」「こんなの講義じゃない!」
怒号が飛び交う。
霧生が思う通りに講義を行うなら、このような反応はどうしても避けられない。
故にふるいをかける。
『勝利学』という名の講義だが、霧生は他人の勝利に対する観念を捻じ曲げたくはなかった。
関わることで各々が自ずと考え方を変えるのは構わないが、霧生がこうだと教えるからこう、というのは自分の信条に反する。
勝利とは多種多様であって良い。
喧騒の講義室の中、一人の天上生が席を立った。
それにより喧騒が収まる。
彼は一直線に出口へと向かっていく。霧生はそれを視線だけで追う。
やがて扉を開けて彼が消えると、霧生はそれを待っていたかのように拳を握りしめた。
「よし! 不戦勝!」
ピタリ。扉の向こうに消えた足音が一瞬止まったが、再び歩みを始める。
それを皮切りに生徒達が次々と席を立ち、続々と教室から出ていく。
そして定員オーバーだった大講義室はガランとした。空席一つなく埋まっていた席はスカスカ。
ざっとみて残った生徒は100人に届かない。
その中には今しがた打ち砕いたノアに、リューナ、クラウディアの姿もあった。
「思ったより残ったな。
では、講義を始める」
ーーー
ーー
ー
クラウディアは講義机に5の文字を描くと、その周囲が僅かに発光し、収束する。
霧生は軽く机を叩いてみる。
すると机の強度が上がっていた。
「机に"強靭さ"を付与した。これでちょっとやそっとじゃ壊れない」
「いいね」
現在78人抜き中の霧生がそっと肘を乗せる。
客観的に見てクラウディアが霧生に勝つ望みがある最後の砦だろう。
「言っておくが俺が消耗してると思って油断なんか」
「しない!」
言葉を遮るようにクラウディアが声を上げた。
霧生は口をつぐむ。
「しない」
「悪い」
前回と違う腕相撲とはいえ、リベンジを挑むクラウディアに対しては軽率な言葉であったことを反省する。
クラウディアは机に肘を置き、霧生の右手をとった。
それを見て勝負開始の掛け声を任せたリューナが前に出た。
「用意……」
誰かがゴクリと息を飲む。
ここにいる者の殆どが、霧生が一度クラウディアに勝っていることなど知らない。
しかし二人のやり取りから、一度彼女が負けているという驚愕の事実を察した者は少なくないだろう。
「始めっ!」
ズン。
掛け声と同時に大講義室が揺れた。
パラパラと天井から砂埃が落ちてくる。
《技能者》同士の腕相撲は単なる腕力比べではない。《気》の総量、その扱い方が勝敗に大きく影響してくる。
最も重要なのが、相手の《気》の流れを見極めることである。
力の進行方向、気の重心は《気》の流し方次第で簡単に覆る。
クラウディアと霧生の腕はほんの一瞬だけ拮抗したが、直後クラウディアの方へと一気に傾き、そのまま机へと沈んだ。
ドゴン!
『強靭さ』が付与されたはずの机に大きくヒビが入り、やがて崩れ落ちる。
霧生は空に押さえつけたクラウディアの手を解放した。
彼女は口を半開きにしたまま虚空を見つめている。
「粉砕」
霧生が天上生をも下す存在であることを、その場にいた生徒が認識し、驚きと尊敬の念から小さく歓声が上がった。
だが。
「クッソッ!」
彼女の悲痛な悪態で場の空気が固まった。
掌から血が垂れる程に拳を握りしめて悔しがるクラウディア。
霧生はそんな彼女から視線を外し、新しい講義机を床から取り外して中央に置いた。
「はい、次」
ーーー
「では、また来週。あ、クラウディアは少し残るように」
「はぁ?」
霧生の92人抜きによって初の『勝利学』は幕を閉じた。
大講義室から心身ともに消耗した91名の生徒が退出して、クラウディアだけが霧生の言いつけ通り残った。
「で、なんだよ」
クラウディアがこちらまで歩んでくる。
「クラウディア、修復魔術は扱えるか?」
「……そりゃあ当然、使えるけどよ」
「じゃあ悪いけど片付け手伝ってくれ……」
霧生は粉砕された講義机の残骸を指差しながら言った。
「……そういやお前、ユクと知り合いだったんだってな」
床に散乱する講義机の瓦礫に一つ一つ修復魔術を掛けながら、少し躊躇いがちにクラウディアが尋ねてくる。
「ユク……。ユクシアか? やっぱここにいるんだな」
世界中を巡り、彼女がここにいると確信を持ってやってきた霧生に驚きはない。
「どういう関係なんだ? あいつ、お前が学園にいるって知った途端研鑽を始めて」
まるでそれが異常なことであるかのようにクラウディアは言う。
「大した関係じゃない。というかそれはあいつが今まで研鑽を怠っていたということか? 泣かす、って伝えといてくれ」
「って言われたら、『キリューのためにわざわざ止まってあげてた』って言えって」
「…………」
カチンと来て思わず押し黙ってしまう。
「まあそれはともかく、想像以上に皆の反感買ってるぞお前。私を含めな。
せっかく上に来る権利があるんだし、一度謝罪に来たらどうだ」
"果てしない研鑽"に魅力を感じないという理由で天上入りを断った霧生だが、学長の采配により《天上宮殿》に自由に立ち入る権利が与えられていた。
謝罪というのはクラウディアの冗談だろうが、一度様子を覗いてみるのもいいかもしれない。
「……悪くはないな」
霧生の頭には才能の権化、ユクシア・ブランシェットの幼き日の姿が浮かんでいた。
そこから会話も無く、大講義室を完全に元通りにした霧生達。
部屋を出ると、一人の少女が二人の前に立ち塞がった。
背の丈は霧生より頭一つ低く、艶のある桃色の髪が印象的な少女。彼女もまた、天上生のみが着用を許される色付きの外套を纏っている。
「こんにちはクレア、はじめまして霧生くん?」
他所行きの笑みを顔に貼り付けて彼女は淑女のお辞儀をした。
「降りてきたのかよ。それなら素直に講義に出りゃあ良かったのに」
「えー、なんで? 私が下で教わることなんて何もないじゃん」
その言葉は霧生に向けられた悪意だったが、クラウディアも巻き添えを受けている。
「誰だ?」
「……レナーテ・ベーア。お前に一番キレてるやつだよ」
訪ねると、クラウディアがそっと耳打ちをしてきた。