第33話 天地始動
闘技場に隣接する医療センターの12階。
集中治療室の扉が霧生の手によって開かれた。
無数のモニターや点滴が囲む中央のベッドに横たわっているのは患者衣姿のエルナスだ。接合された右腕を上肢台に固定され、彼は窓の外をぼんやりと眺めている。
最先端の科学と魔術を駆使した高度な医療技術を持ってしても、エルナスが意識を取り戻すのには丸一日を要した。
「おう」
短く言葉を投げ掛けると、エルナスの少し掠れた声が返ってくる。
「……ああ」
窓に映る景色では《天上宮殿》が雲のように征く。
エルナスの傍らに立った霧生もまた、それを眺めた。
彼の体を繋ぐ医療機器の稼働音が静かに響く。昨日の勝負がまるで嘘のように、ゆっくりと時が流れていく。
「最高グレードの治療で全治二ヶ月だそうだ」
ふとエルナスが口を開いた。
「外傷はともかく、中身が酷いらしいな」
「く、くく……っぷはは」
エルナスがあまりにも他人事のように言うので、思わず霧生は吹き出した。
一頻り笑って、霧生は言う。
「無茶やったな」
「ああ」
「やりすぎだ」
そんな褒め言葉に薄く笑みを浮かべるエルナス。彼は窓に向けていた視線を首だけ動かして霧生に向けた。
「そっちはそれだけか。馬鹿みたいだな」
やや赤く腫れた霧生の頬を見て、エルナスはやるせなさそうに目を瞑った。
「結構痛むぞ」
軽く頬を擦れば鈍い痛みが伝わる。
「キツイ冗談だ」
エルナスが吐き捨てると、また心地良い静寂が流れる。
だが、今度は短い間を置くだけでその静寂が破られた。
「傷が癒えたらここを出ようと思ってる」
「そうか」
霧生は短く相槌を打つ。
それは他者に追随するものではなく、エルナス自身の意思なのだろう。
瞳を合わせずとも霧生にはそのことが分かった。
「長い間ここに閉じこもっていたから、世界を見て回りたい。俺は人を知った気でいたが、お前に会って考えが変わったよ。
まだまだ色んな奴がいるんだな」
決意と、新たな信念を胸に灯したように。
エルナスは改めて窓の外を見やった。
霧生はエルナスの見舞いに来た訳ではない。彼が自分に伝えたいであろう言葉を受け取りに来たのだ。
そこで言葉が途切れたのを見て、霧生は静かに踵を返す。
出口まで歩を進めたところで、背後から声がかかった。
「──御杖」
「なんだ」
扉に手を掛けたまま静止し、霧生は問い返す。
「1年後か、10年後か、もっと先か。いつになるかは分からないが……また必ず」
振り返ると、エルナスは凛とした瞳で真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「お前に勝ちに行く。覚えてろ」
《気当たり》も何もない"ただの言葉"にビリと空気が震えた。
霧生は堪えきれず笑みを零す。
しかして勝者らしく、待ち人らしく、確かな風格でエルナスを睨みつけ、
「いつでも来い。1年後でも、10年後でも、100年後でも明日でも。
その時もまた、完膚無きまでに粉砕してやるよ」
そう言い放った。
ーーー
「おひさ、お兄ちゃん」
医療センターを出た霧生の背中を何者かがポンと叩いた。
その時、いくら霧生が高揚感で周囲の警戒を怠っていたからとは言え、《殺気》や《気当たり》が無かったからとは言え、
こうも容易く背後を取られるなど、それは確かな異常であった。
振り返ると、そこにいたのは日本で言う女子高生の格好をした黒髪の少女。
否、霧生の妹である御杖水面がいた。霧生のことをお兄ちゃんなどと呼ぶ者など、彼女を除いて一人も存在しない。
「お前か、水面」
極めて自然なようで不自然に膨らんだ胸。
濁水のようにくすんだ瞳。
「ごめんー。あんまり派手に動いてるもんだから見つけちゃった」
「ちょっと早くないか?」
頭をガシガシと掻きながら霧生は嘆く。
幾重にもダミーの痕跡をばら撒いて来たのにもう追いつかれてしまうとは。
「馬鹿みたいに技を見せびらかすからじゃん。各国のお偉いさんがここに集まってさぁ、逃げる気あんの、って感じ」
──学長のせいか。
学長は選抜戦で各国の大御所を学園に招致したが、一族のことを知っているのなら当然その辺りの配慮は行っているものだと思いこんでいた。
とはいえ遅かれ早かれ見つかるのは分かっていたことなので、誤差とも言える。
生徒を通して霧生の名が学園の外に広がるのは防ぎようもない。これだけ暴れていれば尚のことであった。
「あ、そうそう見てたよ。昨日の"茶番"」
人差し指を立て、水面が言う。
その言葉には霧生も黙ってはいられなかった。
《気当たり》を込め、妹を睨みつける。
「茶番か……。お前らからしたらそう見えるんだろうな」
「ちょ、やめてよ怖いって。いやでもあんなの茶番じゃん。だってさ、何回殺せた?」
水面は袖に埋もれた手をブンブンと振って霧生の《気当たり》を誤魔化す。
「殺さないよう最大限に気を遣いながら戦ってさ、御杖の技が泣いてるよ。
まあ、殺しの為に振るわれない技を御杖と呼べるのかって疑問はあるんだけど。
……あー、なるほど、だから"御杖流"って呼んでるんだ」
死を持ってのみ決着とする一族の歪んだ価値観。それは霧生の勝負に基づく信条とは真逆の位置にある。
ペラペラと不快なことを話し続ける水面に、霧生は目を瞑った。
「うるさいな。さっさと帰ってじじいに報告してこい。それが仕事だろ」
「わかった、そうする」
5年に及ぶ逃避行。
一族の追っ手をここまで何度も凌いで来たが、ここまで来ればいよいよ祖父も動いて来るだろう。
寿命を待っていたが、水面の様子からしてその気配は無さそうだ。
水面達ならともかく、祖父を相手にして生き残ろうとすれば"殺し合い"は必至。
避けていたケジメをつけなければならないのかもしれない。
勝負の高揚から一気に叩き落とされ、霧生は深い溜息を吐いた。
「あーでもちょっとだけ時間稼いだげるよ。
私、お兄ちゃんがいたおかげで学校とか行けてさ。それについては凄く、感謝してるんだ」
「どっちの味方なんだお前は」
真剣な表情をしているが、くすんだ瞳からは真意が読み取れない。
「私はお兄ちゃんの味方で、御杖家の次女だよ」
それだけ言って、水面は霧生の前から消えた。
ーーー
「あー、もうムカつく! なんなのあいつは! ねえ聞いてよユク!」
「どうしたの、レナ」
《天上宮殿》大水晶の間。
喚き散らしながらテラスにやってきたレナーテの要望を汲んで、ユクシア・ブランシェットは問うた。
視線は本に向けられたままで、頁を捲る手が止まることもない。
「クラウディアから聞いたんだけどあいつ、天上入りを断ったんだって! ナメてるでしょ? こんだけ騒がせて、選抜戦めちゃくちゃにしておいて! 上に来たらコテンパンにしてやろうと思ってたのに!」
「何の話か分からない」
視線を手元に落としたままユクシアは頁を捲る。
一陣の風がテラス大水晶の間から吹き抜け、ユクシアの絹糸のような髪を撫でる。
靡くその髪にレナーテは粒子を空目した。
「……そっか、そうだよね。興味ないよねユクは」
冷めたユクシアに当てられ、レナーテの熱が引いていく。
「聞くよ。あいつって?」
ユクシアは文字に目を滑らせながら申し訳程度の機嫌取りを行った。
だがレナーテにはそれで十分である。すぐに荒い鼻息を取り戻し、近頃精神を乱してくる男の名を連呼した。
「御杖霧生、御杖霧生だよ!」
ピタリ、ユクシアの小説の頁を捲る手が止まる。
風が吹き、ひとりでにパラパラと頁が捲れていく。
「え……」
ユクシアが読書を中断することですら驚愕であったのに、レナーテは彼女の顔を見てさらに驚いていた。
なぜなら、そこに笑みがあったからだ。
それは彼女が稀に見せる人当たりを極限まで追求したような笑みではなく、
少女らしい、無垢な笑み。
「……ユクがそんな嬉しそうに笑うとこ、初めてみた」
驚きのあまりポカンと口を開いたままでいたレナーテがようやく言葉を絞り出す。
そんな彼女をおいて立ち上がったユクシアは、テラスの欄干に両手を掛けて地上を見渡した。
「待ってたよ、キリュー」
第一章、終