第30話 唯一の期待を受けて
「学長、もう3日になります」
講師と学長秘書の仕事を掛け持つルーナが、学長室に入るや否や呆れた顔で抗議した。
「何がだね?」
「御杖霧生が闘技場を占拠し始めてからですよ」
ルーナが溜息混じりに答えると、アダマス学園帝国学長、オーランド・サリバンは書類の山に追われていた手を止め、苦笑を返した。
「その件か。しかし占拠と言う程でもないだろう。彼は闘技場に居座っているだけ、他の生徒に迷惑を掛けている訳ではない」
天上生を決める決勝の戦いがエルナス・キュトラの無断辞退により御杖霧生の不戦勝といった形で幕を下ろしたことは記憶に新しい。
しかし霧生はその勝利に納得せず、あれからずっと闘技場でエルナスを待ち続けているのだ。
「いいえ、しっかり苦情が来ています」
不眠不休、飲まず食わずで闘技場に居座っているのだから闘技場を研鑽のために利用する生徒にしてみれば、邪魔になることこの他ない。
「講義にも差し支えていますし」
御杖霧生が受け持つこととなった講義、『勝利学』の受講延期もとうとう三週連続となっていた。
「……ふむ」
学長は脇の文鎮を取り除き、その下の書類を摘み上げる。
それは昨日受け取った"エルナス・キュトラの卒業届け"。
アダマス学園帝国において、一定の課程を修了した生徒は卒業認定を受けることができる。当然、学園で17年もの研鑽を積んだエルナスは卒業に必要な課程などとうの昔にクリアしていた。
「……エルナス・キュトラの卒業届け、ですか」
学長が手にとった書類に複雑な視線を落とすルーナ。
17年の研鑽の先にあったエルナスの野望がこんな形で潰えるのは、彼の無才を知っていたとしても思うところがある。
「今晩には発つらしい。エルナスが去れば彼もいつまでも闘技場に居座る訳にはいかなくなるだろうよ」
学長は他人事のように話しながら卒業届けを下ろし、その上に文鎮を置き直す。
「……そうでしょうか。私には事態が悪化するようにしか思えませんが」
そうなればルーナは霧生が死ぬまであの場所に居座る気がしてならないのだ。
強制的に退去させる手段は、天上選抜戦における彼の立ち合いを見た限り相当骨が折れるだろう。
エルナスの再戦が見込めるのならそれが霧生を退かせる穏便な手段であり、かつ未だ学園に残る霧生の立ち合いを見に来た大御所に対しても体裁が保てる。
「今ならまだ引き止められるのでは?」
ルーナがしたのは秘書としての進言。
学長は静かに口元を上げた。
「結局のところ、当人にしか理解し難い巡り合わせなのさ」
「巡り合わせ?」
「君も経験したことがあるだろう? その"局面"が運命的なものであると確信したことを」
ルーナはしばし考え、学長の言葉を飲み込む。
「ええ、まあ……」
「思うに、御杖の少年はエルナスとの立ち合いを諦めているのではなく、きっと確信している」
「…………」
学長の言わんとすることは理解できるが、ルーナには霧生のことが分からなかった。
霧生にとってエルナスなどとるに足らない存在のはずなのに、なぜそこまでこだわる必要があるのか。
エルナスのような才能も無く、意地汚く野望に縋り付く恥も外聞もない生徒を相手取ることが、なぜ"局面"に至るのか。
「我々とは感性がまるっきり違うのだよ、彼は」
眉を寄せるルーナを学長は笑った。
「いずれにせよ、闘技場の問題はすぐに解決する」
ーーー
父の命により荷物をまとめ終えたエルナスはベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。
ひび割れた端末から鳴り響く着信音を、随分と長い間無視している。日課の研鑽もあれ以来怠っていた。
(解放されたような気分だ)
エルナスの心境はかつてない程に穏やかであった。
学園へ入学して以来、否、生まれて初めて感じる安寧である。己の才能を顧みず、《天上生》に固執していたことを今では馬鹿らしくすら感じていた。
そして、エルナスを呪縛から解き放ったのは父である。
執着から強制的に切り離されたことでエルナスの視野は広がった。
兄のようになりたい、両親に愛されたい。認められたい。
17年積み重ねてきたそんな想いも、何もかも些細なことに思えた。
それに、父のキュトラ家のことを考えて無断辞退させる、というのはおかしな話であった。
そんなことをしてしまえば家名を余計に汚してしまうことになる。戦いから逃げるより、戦って負けた方が体面を傷付けずに済む。
3日前の父の一方的な言葉はエルナスを思ってのことであったのかもしれない。
そう考えれば多少は満たされるというものだ。
エルナスは着信音の鳴り止まない端末に手を伸ばす。
「……なんだスタンズ、しつこいぞ」
通話を掛けてきていたのはスタンズ、エルナスの側近を務める生徒であった。エルナスのことを心配して電話を掛けてくるのは彼くらいのものであった。
『エルナスさん!? やっと繋がった……! いや、学校やめちゃうんですか!?』
「ああ……」
騒がしい声を耳元からやや遠ざけ、頷く。
『そんな……。どうしてなんですか!』
「もう、どうでもよくなったんだよ。色々と」
学園に残るだろうスタンズに言うことではない。それを分かっていながらも、エルナスは続ける。
「……俺達もういくつになると思ってるんだ。こんな所にいつまでも閉じこもって……才能も無いのに」
『……でも、地上シメてんのはエルナスさんじゃないですか。俺はエルナスさんのこと、マジで凄いと思ってますよ』
「慰めにもならない言葉だな。お前には悪いが、俺はここらでリタイアさせてもらうとするよ」
『エルナスさん……そんなの、無責任すぎますよ』
「……悪いな。じゃあ」
そう言って一方的に通話を打ち切ろうとすると、『エルナスさん!』とスタンズが声を荒げた。
終了ボタンをタップする手を止め、もう一度端末を耳に近づける。
『御杖のやつ、まだ待ってるみたいですよ』
「…………」
プツリ。無言で通話を打ち切り、エルナスは端末をゴミ箱へ放った。
眉間をほぐし、壁に掛かった時計を見やる。
時刻は午後2時を指していた。
エルナスは今夜の便で家族と共に故郷へ帰ることになっている。
最後に学園を周るには良い時間だった。
立ち上がったエルナスは、使い古したローブに手を伸ばす。
周囲の否定的な視線をいつにも増して感じるのは、3日前の天上選抜戦における無断辞退が影響しているからだろう。
しかし今のエルナスには彼らに対して威圧的な視線を返す必要も、権威と力を示すために《気当たり》を撒き散らして闊歩する必要もない。
学園を去ることを決めた今、取り合う道理はない。
影で蔑まれても今なら寛容に受け流せるだろう。
エルナスは魔術区へ進み、学園の敷地を囲む《森林迷宮》の中へ入り込んだ。
目印に沿って進むと拓けた場所に出る。稽古に必要なスペースを確保するため、周囲の木々を切り倒した空間だ。
17年間、エルナスは誰にも見られることのないこの場所に一人で篭って研鑽を積んだ。学園で最も馴染み深い場所である。
「ここへ来るのももうこれが最後か」
見上げると、木々の隙間から見えたのは《天上宮殿》。どんな時も不変とそこに浮かんでいる。
地上にいる限り、それはどこにいても目に入るのだ。
「ふう」
エルナスは自嘲気味に笑い、目を伏せた。
あの場所に微塵も未練が残っていないと言えば嘘になる。
夢、野望、憧れというものは体に染み付くものだ。すっぱりと諦めてしまうことはできない。
最後にあの宮殿から地上を見下ろしたかったが、天上候補生でなくなったエルナスに立ち入る権限はない。
だが、このような結末を迎えられたのはエルナスにとって幸運だった。
止め時を見失っていたのだ。諦められずとも、才能が無いならその現実に嫌でも納得しなければいけなかった。
血が滲んだ木の幹にそっと手を触れる。
《森林迷宮》を後にしたエルナスは他人の目を憚ることなく地上を見て回った。
塔剣山。
大工房。
訓練場。
座学塔。
どの場所においても敗北の記憶が色濃く残っている。
改めて思うのは、やはりこの学園が嫌いだということだ。
得られたものは決して少なくない。
学園の外に出ればエルナスは正当な評価を受けるだろう。
いいや、学園でもエルナスを上回る生徒の方が圧倒的に少ないのだ。
なのに、劣等感を拭えない。
自分を認められない。
そんなことも、いずれ忘れられる日がやってくるのだろうか。
気が付けば、エルナスは闘技場の前に立っていた。
生徒達が奇異の目でこちらを見ながら通り過ぎていく。
それも仕方ない。天上選抜戦から逃げるなど前代未聞だ。
そして中には例の少年が未だ待っているのだろう。
スタンズの言葉がやけに耳に残っていた。
──御杖のやつ、まだ待ってるみたいですよ
あのイカれた少年のことだ。きっと自分が来るまでいつまでも待つつもりなのだろう。
エルナスが霧生に対して抱くのは、今は怒りではなく僅かな罪悪感。
自身が霧生が構う程の存在ではないからだ。
『俺はお前に勝ちたい』
先日の言葉が脳内で反響する。
勝ちたいも何も、実力差は歴然だろう。
廊下を潜り、エルナスは闘技場の土を踏みしめた。
腕を組み、中央に佇むのは一人の少年。
闘技場では生徒達が彼から大げさに距離をとって、訓練に励んでいる。
アリーナ席に点在する人々のうちの誰かがエルナスに気づき、やがてそれは伝染していく。
3日前闘技場に現れなかったエルナスが今更現れたのだ。その動向を気にするのは当然だった。
そして霧生が静かに首をもたげ、やがてこちらを見据えた。
「来たか」
エルナスは洗練された《気当たり》に僅かに気圧されたが、ゆっくりと歩を進めていく。
「あれから……ずっと待っていたのか?」
「ああ」
霧生は選抜戦に来なかったことを咎めるどころか、今更現れたエルナスを歓迎するように笑った。
ローブは砂埃で煤けており、目の下には僅かにくまができている。
「……悪いが、戦いに来た訳じゃない」
言うと、霧生は表情を変えることなく聞き返してきた。
「じゃあ、何しに来たんだ?」
「謝りにきたんだよ。俺の負けだ。だからもうやめてくれ。
俺はもう、諦めた」
エルナスは、霧生と目を合わせるとどうにも耐え難い感情が湧き出てくるのだが、それも以前よりは遥かにマシなものだった。
少なくとも落ち着いて会話ができる程度には。
「諦めた、だと?」
「そうだ。せいせいしたよ。あんなにも執着してたのにな……」
「クク、フハハ、アッハハハハハハハハハハ!! ハハハハハハハハハハハハ!」
唐突に大笑いを始めた霧生に、エルナスは思わず眉を寄せた。
霧生はピタリと笑うのを止め、言い放つ。
「解放されたフリか?」
「なんだと?」
「苦しいだろ、エルナス。楽に生きる方法を教えてやろうか?」
霧生の的外れな言葉にエルナスは失笑した。
苦しくなどない。ようやく解放されて、これから楽に生きているのだ。
そんな反論をする前に、霧生が言葉を紡ぐ。
「無茶をしろ」
そして予想外の言葉が紡がれ、エルナスは間髪入れずに反論するために開きかけていた口を閉ざした。
「後先考えないことだ。リスクをとるのさ」
エルナスと霧生の対面を知ってか、こんな僅かな時間で闘技場にいた生徒達は撤退し、アリーナ席には観客が集まりつつあった。
エルナスの頬に一筋の汗が流れる。
「そんなこと……俺が一番やってきたことだろ……」
「そうか? 俺の目にはエルナス、お前が打算的に映ってる」
「お前に何が分かる……。才能に恵まれたお前に……!」
「それが俺だ」
ピシャリと事実を叩きつけられる。
「そして」
霧生はこちらに指先を向けていた。
「それがお前だ」
「ふざけんじゃ……」
渾身の一撃を放つため、深く踏み込んでいた。ジリと霧生の懐の土をえぐり、左足がめり込んでいく。
「ねェ!」
その後エルナスが放った右拳は、霧生の左手により、ことほど呆気なく捉えられ、ピタリと止まっていた。
「その気概があるなら、お前はまだ……
負けてない!」
直後、霧生の右拳が何の抵抗もなくエルナスの鳩尾にめり込んでいた。
「かっ……は……!?」
霧生が拳を振り抜くと、エルナスはボールのように吹き飛び、アリーナ席の壁にぶち当たり、膝から前のめりに倒れた。
その上から崩壊したコンクリートの壁が覆いかぶさる。
呼吸もままならない。苦しくてもがきたくてどうしようもない中、エルナスは安心していた。
──ほら、見たことか。
これがその結果だ。実力差は歴然。
でも丁度良い。これで正真正銘、決着は付いた。
御杖も満足しただろう。罪悪感も拭えるというものだ。
無数の視線が突き刺さるのが分かった。
当然の結果を見る目だ。
──もう終わりだろう
──17年も研鑽してあのザマか
──才能がない
──勝ち目はないな
数多の思念を感じる。
そして、アリーナ席に集まっている者達の、霧生への歓声。
立ち上がる必要はない。否、立てない。
このまま寝ていれば、楽に何もかもが終わる。
そんな中、異質とも言える何かを、エルナスは感じ取った。
──お前は立つ。
明確に。
「うぁあ゛がッ!」
覆いかぶさった瓦礫を思い切り腕を振るうことで払い除け、膝をつく。
「ゴッは……がはっ! ぉぅゴホッ!」
地面に手を付き、息を吐き出す。
困難になっていた呼吸を取り戻し、視線を上げると、その先には臨戦体勢をまるで崩さぬ霧生の姿があった。
彼は立ち上がりつつあるエルナスを当然だといった様子で見詰めている。
なぜこの男にここまで感情が揺さぶられるのか。
エルナスはその瞬間理解する。
──そうか。
こいつが、
この男だけが──
俺に期待しているんだ。
「はじめようかエルナス。今日は限界超えてもらうぜ」