第26話 空に届かない
──やっとここまで来られた。
天上選抜戦を一週間後に控えた生徒、エルナス・キュトラは寮自室の洗面台に両手を付き、そう独りごちた。
今、17年という長い月日の中で、彼がひたむきに目指して来た到達点──《天上宮殿》での"果てしない研鑽"、
《天上生》になるという悲願が、ようやく果たされつつある。
その事実を再確認すると、エルナスの手はまた震え出した。
歓喜、安堵、緊張、恐怖、不安。
17年で降り積もった数えきれない感情が、彼を戸惑わせる。
エルナスは震える両手で受けた冷水を、顔に勢い良く打ち付けた。
濡れた前髪を伝い、ポタポタと水が滴っていく。
ふと顔を上げると、彼は鏡に遠き日の自分を幻視する。
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フィンランドの名家、キュトラ家の次男として生を受けたエルナスは、父と愛人の間に生まれた不貞の子であった。
故に母からは愛されず、父からも、あたかも自分が家庭に不和をもたらした原因であるかのように冷たく接された。
エルナスは一家の中で孤立した存在だった。
打って変わって、歳の離れた兄アウリスは正妻の子として父からも母からも深く愛されていた。
アウリスは、エルナスが物心付く頃には『アダマス学園帝国』を卒業し、キュトラ家の次期当主となるため、屋敷に帰って来ていた。
アダマス学園帝国を卒業できる程のアウリスは、言うまでもなく才者である。
兄が天才だという話は、使用人や地元の人々の話でエルナスも知っていた。彼は父の魔術師の才を受け継ぎ、武術においても幼き頃から才の片鱗を見せていたらしい。
そんな兄と接する時だけは、両親にも笑顔が戻る。アウリスは一家の温もりであり、父母にとって自慢の息子だった。
アウリスは、エルナスにも冷たくすることはなかった。
その理由は、単にエルナスに興味が無かっただけであったのだが、当時6つのエルナスがそれを悟ることなど出来ず、唯一普通に接してくれる兄として強い憧れを抱いた。
──兄のようになりたい。
そしてエルナスは知る。
兄の才能を持ってしても届かない領域の存在を。
それは技能界において名高いアダマス学園帝国における、至高の霊堂──《天上宮殿》
技能を極めんと欲する《天上生》が住まう、真なる才能の居城。
幼いエルナスは思った。
兄を超え、《天上生》になることが出来たのなら、両親は自分を愛してくれるはずだ。
認めてくれるはずだ、と。
そうしてエルナスは、アダマス学園帝国への入学を決意した。
しかし入学したのはいいものの、エルナスには才能がなかった。
適正が低かった故に、受けられる講義が少なかったエルナスは学園でも孤立する。まだ幼く、社交経験が無かったこともそれに拍車をかけた。
ただ一つ救いだったのは、エルナスが研鑽を苦としなかったことだ。
どんなに小さな事でも自分の成長を感じると、自分に価値を見い出せた気がして、彼は喜んだ。
自分には天上に至れる程の才能が無い。
そんな現実には彼自身もとうに気付いていたが、ひたむきに努力を続ければいつかは報われる。
エルナスは頑なにそう信じた。
事実、凡才であったはずの彼は着実に適正を伸ばしていき、目まぐるしい速度で技能を習得していった。勿論、尋常ならざる努力があってのことだ。
入学から8年が経過したある日、学園でもそれなりの地位と力を手に入れたエルナスは思い切って帰省することに決めた。
年に数回は家に手紙を送っていたエルナスであるが、その返事があった試しはない。
だからこそ、成長した自分を見てもらおうと、エルナスは一度実家に帰ることにしたのだ。
しかし、そこで目にしたものはエルナスにとってあまりにも酷な光景であった。
エルナスが知らぬ内に、キュトラ家には第三子が生まれていた。父と母の血を受け継いだ、由緒正しい血統の弟である。
そんな幼い弟を囲み、兄アウリスを新たな当主としたキュトラ家はエルナスが介入する余地など無い程に円満であった。
両親を含め、笑顔が耐えない家庭をエルナスは目の当たりにした。
それはそう、まるで自分など最初からいなかったかのように。
エルナスの入学を許したのも、邪魔者を追い出す良い口実だったからに他ならない。8年間返事が無かったのも、自分の存在を忘れようとしているからだ。
それを悟ったエルナスは、もう家には帰れなくなった。
《天上生》を目指していた理由も見失う。
なったところで、両親は愛してくれるのだろうか。認めてくれるのだろうか。
思い込んでいた理想を否定される。
だが、エルナスにはこれしかなかった。
何かが変わる。そう信じてひたむきに研鑽を重ねるしかなかった。
そんな時、ユクシア・ブランシェットという少女が学園に入学する。
彼女の才能は、アダマス学園帝国においても桁外れであった。
"才能潰し"による洗礼も軽く退け、学園始まって以来の偉業をいくつも成し遂げた。
そんな才能の権化である彼女に、エルナスは挑んだ。
当然結果は惨敗。
エルナスの8年にも及ぶ研鑽が、才能という絶対の壁を前にして打ち砕かれる。
埋めようの無い程の才能差。
その後、すぐにユクシアは天上入りした。
彼女の同期であるレナーテやクラウディア達も、地上に燻るエルナスをあざ笑うように次々と空へ立った。
それから周囲の視線が変わる。
いつまでも天上生を目指すエルナスは、陰で笑い者にされた。
エルナスは才能を嫌うようになる。
とうとう研鑽にも苦痛を感じるようになった。
いくらそれを重ねても、無駄だ。
なのにエルナスは《天上生》という頂を諦められない。
両親を、兄を、周りを見返すため。
才能が無くても至れることを証明するため。
そして、報われたい。
そんな想いから、エルナスは研鑽を重ね続けた。
ーーー
もはや夢などと聞こえの良い言葉で済ませられるものではないだろう。
純粋な憧れはいつしか消え失せ、失ったものは多い。必要の無い過程を得た。
エルナスは鏡の向こうにいる自分を見つめる。
輝きを失った擦れた瞳に、無理矢理鈍い輝きを宿し、地上の覇者としての表情を作る。
17年、ありとあらゆる手段を用して登り詰めてきた。
ここまで幾度とない敗北を重ねた。必要なもの以外は全て捨ててきた。
他の誰にも真似できないことだ。
エルナスはそうやって己を鼓舞し、リビングへと進む。
テーブルの上から手に取ったのは一通の手紙。一月前、家族へ向けて送った手紙の返事が3日前に届いていた。
初めて返ってきた手紙には、家族で選抜戦を見に来る旨が短く綴られてある。
天上選抜戦は伝統的に親族の招待が認められている。エルナスは家族を招待していた。
それは当然、父を、兄を遥かに超えた今の自分を見てもらうためだ。
他の候補生のことは何年も前から研究し尽くしているし、自身のコンディションもこれ以上無く整っている。
エルナスには間違いなく、候補生の中で一番自分が強いという確信があった。
選抜戦はつつがなく勝てるだろう。
しかし、こんなチャンスはもう二度と来ない。この機を逃せばまた真なる才能が次々と台頭し、エルナスの前に立ち塞がるのは明白だ。
期待と不安を胸に、今日も研鑽のため、エルナスは何着目になるか分からない制服のローブに手を掛けた。
そんな時、部屋にチャイムが鳴り響く。
ドアホンのモニターを覗くと、そこにはエルナスを天上候補生に推薦した講師、ベイルが立っていた。
「何かあったのか?」
エルナスは玄関の扉を開き、ベイルを部屋に招き入れる。
彼は神妙な面持ちで玄関に上がった。
「実は来週の天上選抜戦なんだが、全体公開式になった」
それを聞いてエルナスは眉を顰めた。
「なぜいきなりそんな変更が?」
「学長の推薦で候補生が急遽一人増えたからだ」
エルナスは小さく目を見開いた。同時に、心臓がドクンと跳ねる。
既に頭に浮かび上がっているのは、頭のおかしい新入生の名前。
「……何と言う生徒だ?」
震えそうになっている唇を動かし、エルナスは問う。
数多の敗北を経験して来たエルナスは、自分が勝てない相手を経験で見極めることができる。
一昨日見た"彼"に対しては、まるで勝てるビジョンが見えなかった。
もしあいつが自分と戦うため天上選抜戦に出るのなら、不味い。
17年という人生を懸けた野望が潰えることになる。
「御杖霧生」
ベイルから、無慈悲にもその者の名が告げられた。