第22話 渇望を得た少女
天上宮殿のエントランスホールには、地上との行き来を担う《転移回路》が設置されている。
ホールには天上生達が意見を交わすための交流所としてカフェも開かれており、彼らにとっては唯一の憩いの場とも呼べた。
熱く研鑽を語る天上生達により、カフェは日々賑わっている。
しかし今──そんなエントランスはどこか不穏な、騒然とした空気に包まれていた。
原因は、同志クラウディア・ロードナーの帰還によるもの。
それはただならぬ、帰還である。
クラウディア・ロードナー。
先代学長の指南を受けた彼女は、齢十八にして"天上序列"の下位に名を連ね、気強く豪快な性格で知られている。
研鑽に対して芯のある心構えは周囲からも高く評価されており、行く末も期待される天上生の一人だ。
だが──
地上と繋がる《転移回路》から現れたクラウディアには、その風格が無くなっていた。
天上生の象徴である"色付き"の外套はズタズタに破け、泥まみれ。彼女自身も傷を負い、歩くのがやっとだ。
顔を歪め、涙を流し、嗚咽をなんとか殺しながら足を引きずり大広間へ向けて進むその姿が、エントランスを騒然たらしめていた。
声を掛ける者は誰もいない。否、誰も声を掛けられない。
しかしそこへ、騒ぎを聞きつけたレナーテが大広間から現れた。
「ちょ……クレア!? 何があったの!?」
ズタボロになったクラウディアを見て、レナーテは目を丸し、迷うことなく駆け寄っていく。
クラウディアとレナーテは愛称で呼び合う程の仲である。しかしそんなレナーテを、クラウディアは力任せに押し退けた。
「退いてくれ……」
「いやいや、手当しなきゃ! ちょっとそこ座って!」
押しのけられたレナーテは、それでもクラウディアの傷を手当するべく強引にその腕を掴む。
が、それも振り払われる。
「退けって!」
クラウディアの涙が宙に散った。
「……誰にやられたの」
払われた手を下ろし、レナーテは瞳の色を落とす。
怒気を抑えた声色。
技能を競い合うに当たって、こうなるまで戦う必要はない。少なくとも、天上宮殿ではそんな無益な事は行われていない。
勝敗が着いて尚、戦いを強制されたか、もしくは執拗な攻撃を受けたか。
どちらにせよ、レナーテは親友がこんな目に合わされて黙っていられる質ではなかった。
クラウディアは口をつぐむ。
「…………」
クラウディアの赤く腫れた目を、レナーテは容赦なく覗き込んだ。
「例の新入生でしょ」
続けて問い詰める。
クラウディアが地上へ講義を受けに行っていたことは天上宮殿では周知の事実。そこからその予測を立てることは容易い。
確か名前は……
「御杖霧生」
ギリッ。
その名を聞いたクラウディアは強く歯を軋ませ、レナーテを睨んだ。
「……レナには関係ねぇだろ」
並々ならぬ闘志が宿る瞳。
立ち合いで負けたとしても、彼女は相手の力量を認め、そこから学ぼうとする清き心の持ち主だ。
余程の屈辱を受けたに違いない。
今度はレナーテが口をつぐんでいた。
「いいか。あいつに手出したら…………許さねぇぞ」
「……分かったよ」
その言葉に頷き、立ち尽くすレナーテを取り残してクラウディアはエントランスを出た。
大広間を抜け、人気のない回廊へ出たところで、クラウディアはその場に崩れ込んで感情を発露させる。
「くっ……ぅ……うぅぅッ……! うぁぁぁ……!」
滴る涙。
外套の裾から覗くシャツの袖は血で滲んでいる。
クラウディアの全身全霊を持ってしても、霧生にはまるで歯が立たなかった。
そしてこれはただの敗北では済まない。
霧生が天上生を侮辱したのではないのだ。
自分が侮辱させた。あのような汚行を、自分が許した。天上生の品位を貶めた。
それが何より許せない。
「違う!」
クラウディアは大理石の床に強く拳を打ち付ける。そうではない、と。
──あいつが糞なだけだ。
才能の差も研鑽の差も断じて認められない。
あのような不道な輩に劣っている自分が許せない。
立ち上がり、向かう先は"老練の間"。
若き力を失い、歳相応の研鑽を詰む天上者が集う空間。研鑽そのものに喜びを感じる生徒の枠を超えた老師達が暮らすところ。
クラウディアは回廊の最奥にある扉の前に辿り着いていた。
固く閉ざされた扉を迷わず開け放つと、一気に視界が開ける。
そこに広がる風景を一言で表すなら、『村』である。
どこまでも続く青空。田畑には麦や稲の穂が生い茂り、その間に点々と文化多種多様な家屋が立てられていた。
この摩訶不思議な部屋は、数多の高等術式により管理されている隔離空間である。
クラウディアは体を引きずり、点在する家屋の一つへと向かう。
木彫りの装飾が施された洋風の戸を叩くと、一人の老婆がクラウディアを出迎えた。
彼女の名前はジーナ・セヴィニー。
アダマス学園帝国前学長にして、クラウディアの師を務めていた人物である。
「先代……」
「クラウディア、どうしたんだい」
ボロボロになっているクラウディアの風貌を軽く見回し、ジーナは尋ねる。
クラウディアは真一文字に結んでいた口を開いた。
「先代……、どうか私に、もう一度……一から技能を教えてください……」
クラウディアの充血した、切望の瞳を見てジーナは目を細める。
「ふむ……。おまえがそんな目をする日が来るとは」
それは強さへの渇望である。
ジーナは以前からクラウディアの性質を惜しんでいた。
彼女の研鑽の姿勢は正直すぎる、と。
クラウディアは天上生としてのプライドが高すぎるが故に、負けても折れることはない。敗北をも研鑽と捉え、自身の糧にする。
だが、ジーナは彼女がそれで伸びるタイプではないと考えていた。同期のレナーテに大きく差をつけられているのは、その点だ。
敗北を認めない泥臭さこそ、クラウディアには合っているはずなのに。
しかし人の性質など簡単に変えられるものではない。故に、クラウディアを焚き付けるのはジーナもしあぐねていた。
「どうしても……、どうしても勝ちたい相手がいるんです」
クラウディアの心からの訴えに、ジーナは堪えきれず微笑む。
「いい人に巡り会えたねえ、クラウディアや」
誰かは知らないが、クラウディアの尋常ではない様子からしてその意図があったに違いない。
執拗にプライドを傷つけることで、彼女が奮起するのを理解していたのだろう。
それは師であるジーナが選べない手段であった。
「して、その相手というのは?」
彼女に火をつけた天上生は誰なのか。
ジーナは興味本位で尋ねる。
「……御杖、霧生」
少しの間を置いて、クラウディアは憎き相手の名前を告げた。
そしてジーナはその名を聞き、クラウディアが行く道の険しさに歓喜混じりの苦笑をこぼすのであった。