第20話 霧生の絶望。それとは無関係の挑戦者
中央区にある座学棟一号館、303講義室は大勢の生徒で溢れ返っていた。座席間の通路や講義室の最後部、窓の外に至るまで、室内は大混雑を極めている。
アダマス学園帝国において一講義にここまでの生徒が集まるのは珍しい。だがそれも無理はない。本日ここで行われるのは新入生御杖霧生による講義、『勝利学』なのである。
講義名からしてその奇異具合と不明瞭さが生徒達の興味を引いたのは言わずもがな。しかし、この講義がささやかな催事を思わせる程の騒ぎになっているのには別の決定的な要因があった。
それは天上生クラウディア・ロードナーの"下界"。
この学園にいる者なら誰しもが憧れ羨む存在──天上生。
そのうちの一人が『勝利学』を受けるために地上へ降りてくる。ならば我も勝利学をと、地上で高みを目指す者達が駆り立てられたのであった。
そして現在。303講義室に集まった生徒達は最前列中央に圧倒的怒気を放ちながら陣取るクラウディアに釘付けとなっている。
彼女を目にするつもりでやって来ていた者達はこう思っていたことであろう。その挙動一つ一つをつぶさに観察し、天上へ至る技を盗もう、仕草から心構えを感じ取ろう、自分が目指すべき姿をこの目に焼き付けよう、と。
しかし、そこに天上生として洗練された佇まいや威厳はない。
机の上に肘をついて脇腹まで思いきりだらしなくもたれ掛かり、腰まで伸びた黒髪を盛大に巻き散らかしているクラウディアは、良いペースで舌打ちを打っていた。机の上に添える指先はトントントントンと絶え間なくせっかちな音を響かせている。しなやかでありながら力強さを感じさせる彼女の脚線美もまた、大股を開き、その片方は貧乏ゆすりで震えていた。
とはいえそんな彼女の姿を見ても幻滅した様子を見せる生徒はいない。むしろ彼女が今抱えている怒りに共感する者がほとんどだった。
なにしろ勝利学の講義が始まってからかれこれ40分。新入生にして講師である御杖霧生が未だ姿を現わしていないのだから。
「御杖霧生……!」
クラウディアがギリと歯を鳴らす。
303講義室の200名を超える生徒を前にして、空白の教壇だけが広々と佇んでいる。
講義室に残る生徒達が諦めて帰らないのは、天上生であるクラウディアが苛立ちを露わにしながらでも待っているからだ。彼女が帰らないのに先に帰る訳にはいかないと、個々の向上心がそうさせていた。
天上生すら侮ってみせる新入生は稀にいる。学長お墨付きの御杖霧生は実際それなりの実力があるのだろう。なにせ講義を任せられる程だ。
しかし許されないことは許されない。
特にクラウディアは約束が守られないことを激しく嫌う。
“上”を行く者としてのプライドがある。
天上生である自分が蔑ろにされることは天上を目指す生徒たちへの侮辱であり、学園の存在否定であるとまで考えているのだ。
故に遅刻など言語道断、ましてや講義をすっぽかすなど、それが有り得てしまうならクラウディアは天上生としての誇りを守るべく、霧生に"教育"を施さなければならなくなる。
彼女はそれを望んでいる訳ではない。ただ、この講義が学長直々の推薦ということもあって、柄にもなく期待していたのだった。何か新しいことが学べるかもと。
それこそ人目もはばからずただ一人下界してくる程に。だがその期待は裏切られつつある。
現在進行形で天上生の顔に泥を塗っている霧生へのヘイトは静かに、だが急激に溜まっているのだった。
ふとクラウディアの二つ隣に座っていた茶髪の少女、リューナがおもむろに学園端末を取り出し、それを耳に当てながら講義室の外へと出た。
彼女が通話で呼び出している相手は勿論霧生である。ほどなくして、通話が繋がった。
『リューナか。どうした?』
休日に電話が掛かってきたかのような声色の霧生に、リューナは思わず眉間をつまんだ。
「いやアンタがどうしたの? 勝利学の講義は?」
人目を憚りつつ、リューナは受話口を手で覆って尋ねる。
『あぁ、その件か。悪いが急用が入ったから一回目の講義は来週に延期だ』
「…………」
端末から響く音声がそのまま頭痛となる。リューナは目をぐっと瞑った。
「……延期って、何も聞かされてないんだけど」
『そりゃあ急用だからな。まあ、こういう時はブッチした方が反感も買えて経験上良いんだ』
リューナの呆れは一周回って感心に変わる。ここまで常識外れな思考回路をしている人間をこれまで見たことがない。
しかしそれはそうと、である。
「アンタそれはまずいわよ」
リューナは今しがた出てきた講義室の方に視線を向けた。
「今日は天上生の人も来てるんだから……」
『おー、それなら丁度良かったな。どうだ? そいつ怒ってるか?』
「もうカンカン」
『いいねぇ~。あー、すまん着いたみたいだから切る。じゃ、また明日』
「ちょっ、霧生……!」
ブツリ。通話は突然一方的に切られ、ツーツーとビジートーンが鳴り響く。リューナは溜息混じりに端末を耳から離し、通話画面を終了させるべく視線を落とした。
そんな時、褐色の手がリューナの肩をガシッと掴む。
「うわっ……!」
突然の事に驚き、とっさにその手を振りほどこうとする。しかしその手はまるでゴムのような柔軟性でリューナの肩を離すことはないのだった。
「ちょっと!」
リューナはそこで手の主が天上生クラウディア・ロードナーであることに気づく。
クラウディアがまとう紺色の外套の下に着衣越しでも分かるスラっとした四肢が覗く。
褐色の肌に、腰まで伸びた黒く艶のある髪。刺すような美しさのクラウディアに、リューナは一瞬息を呑む。
そして憧れの天上生に肩を掴まれていると認識し、リューナの体が強張った。一方クラウディアの顔は違う意味で強張っている。
「なあ……今のは、御杖霧生か?」
クラウディアは通話の内容を聞いていた。霧生の戯言を、一言一句聞き逃すことなく。
リューナはそれを感覚的に察するが、やや混乱気味なのもあって気の利いた言い逃れなど思いつかない。
「え……と、そうなんです……けど、霧生に悪意はなくて、ですね。いや、あるのはあるんですけど、その、悪い奴じゃないというか……」
庇う必要などないはずなのに、友人を取り繕ってしまうのがリューナの良いところであり、悪いところでもある。
「とにかく、御杖霧生は来ないんだな?」
「ええ……そうなります」
逃げ場のない質問にリューナは肯定するしかない。クラウディアはスウと息を吸って、リューナの肩から手を離した。
「御杖霧生……殺す」
クラウディアは引きつった笑いを浮かべながら指先を曲げ、パキと音を鳴らす。その瞬間、リューナの前から彼女の姿は消えた。
ーーー
アダマス学園帝国の敷地を囲むのは森林迷宮と呼ばれる山地だ。
外から中へ入り込めないよう、中から外へ辿り着けないよう、無数の術式によって無限回廊と化した森が学園の城壁となっているのである。
そんな迷宮で、霧生は少し前で立ち止まっている灰色の髪をした青年に背後から声を掛けた。
「探したぞエルナス」
それを受け、その青年……エルナスは振り返らずに返す。
「尾けてきたくせに何が探しただ」
「なんだ、気づいてたのなら教えてくれよ」
「…………」
ゆっくりと振り返り、エルナスは霧生の姿を目をやや細めて見つめた。
霧生は辺りを見回しながらエルナスの元へ歩んでいく。
この辺りだけ木々が切り倒されており、体を動かすには丁度良いスペースができていた。
「へえ、天上候補生様がこんなところで研鑽とはな。人払いの結界まで張って。
俺はお前のことが気に入ってきたよ、エルナス」
エルナスの深い溜息が響き渡る。
「何の用だ。言っておくが俺は頭のおかしい奴の相手をしている暇はない」
「当然、リベンジしに来た。お前にやられた足もこの通り完治したことだしな」
「あれはお前が訳のわからない術式で勝手に負った怪我だろ」
エルナスが言っていると、霧生は既に準備運動を始め出した。
そんな霧生をエルナスは心底めんどくさそうに見つめている。
「さて、どうする? またじゃんけんでもいいが」
ぐるりと腕を回して霧生は尋ねた。
が。
「いいや、勝負はしない」
エルナスから返ってきたのは拒絶だった。
バシャンと目の前でシャッターが閉められたかのような孤独感。一瞬意味が理解できなかった霧生は瞬きを二度して、尋ね返した。
「し、勝負しない……?」
「しない」
ガクンと、霧生の世界がブレた。否、それは単に霧生が膝から崩れ落ちただけである。
霧生が最も恐れたことが起きてしまった。『勝ち逃げ』という、対処不能の理不尽。
「なんで……、なんでなんだ……?」
霧生はエルナスを見上げる。その声は震えていた。
「分かってるだろ。お前が俺より強いからだ」
「そ、そんな……」
「前は疲弊していたから分からなかったが……、どうやら俺とお前の間にはちょっとやそこらじゃあ埋まらない差があるらしい。
さっき、お前が尾けてきていたのも本当は気づいていなかった。カマをかけただけだ」
どこか哀愁を漂わせてエルナスは話す。
「それと勝負を受けない理由は関係ないはずだ……」
「いやあるだろ。なぜ負けると分かってる戦いに臨まないといけないんだ?
それに、負けて"天上入り"に差し支えたら洒落にならない」
「エルナス……お前本当は"違う"だろ……? もっとこう……そうじゃないだろ? 目を見れば分かるんだ。お前本当は……」
「いいか。何と言わようがお前と勝負はしない。悪いが他を当たってくれ」
「う、うわあああああああああああああああああああああああ!?」
あまりのショックに地面へ慟哭を放つ霧生。
勝負をする気のないエルナスを叩きのめした所でリベンジが果たされたことにはならない。前回のような敗北を精算するためには、お互いに勝ちたいという想いを賭けた勝負でなければならなかった。
エルナスにその気が無いのなら霧生に成すすべはない。
この一週間募り募らせた再戦への想いが無残に踏みにじられていく。
四つん這いで這いつくばる霧生を尻目に、エルナスはこれ以上関わるつもりはないとばかりに立ち去ろうとしていた。
エルナスの足音が離れていくのを感じ、霧生は顔を上げた。そしてエルナスの背中に向けて叫ぶ。
「エルナス……! お前……このままで済むと思うなよ! 絶対だ……! 絶対その気にさせてやる!」
そうしてエルナスは霧生の前から消えてしまったのだった。
その虚無感からしばらく伏せていた霧生だったが、ふと来客を予見する。
風を切る音。それは木々の隙間を塗ってこちらへ向かってきている。
霧生は首だけ動かし、何者かがやってくる方向をじっと見つめた。
その直後、褐色の肌をした黒髪の少女が森の奥から軽やかに飛び出してきた。
外套のポケットに両手を突っ込んだまま、森の中を駆けてきたはずなのに息切れ一つしていない。
彼女は霧生の姿を見つけて悪役のような笑みを浮かべた。
「探したぞ御杖霧生」