第19話 噂の新入生、御杖霧生
晴天に浮かぶ天上宮殿の東側に聳え立つ塔には百万を超える蔵書がある。
"知識の塔"と呼ばれるその塔は、頂上まで吹き抜けになっており、どこを見回しても視界一面に無数の本が飛び込んでくる、本棚で組み上げられたかのような建物だ。
「レナ聞いたか?」
蔵書の一つをレナーテが手に取ろうとした時、中央のテーブルに腰掛けていた彼女の友人、クラウディアが尋ねた。
「何を?」
レナーテは身の丈の半分はありそうな巨大な書巻を抱えて振り返る。
「今朝学長が来て教えてくれたんだけどさ、下で面白い講義が始まるんだって」
クラウディアの言葉を聞いて、レナーテは眉をひそめる。
「講義? 学長が天上生にわざわざそんなこと伝えに来たの?」
「そう。なんでも新入生が講師らしい。行ってみたくね? ほら、私らってそういう口実がないと堂々と下に降りられない訳じゃん」
クラウディアは言う。果てしない研鑽をするという名目で天上生になった自分達は、軽い気持ちでは地上に降りられない。かつて地上で研鑽を重ねていたクラウディアも、空に浮かぶ天上宮殿で人知れず高みを目指す彼らの孤高さに憧れたものだ。
それがアダマス学園帝国の文化であり、天上生として持つべきプライドである。
しかし講義を受けるため、という名分があれば別だ。それが例え新入生の講義であったとしても、なんら恥じることはない。教え、学ぶことに歳の差や、歴、身分の違いは関係ないからだ。
「うーん。いつ?」
「明日の朝一。今のところ降りるって言ってるのは私だけだけどな」
「まあ、それでも結構な騒ぎになるね」
「なるな」
「まあ、私も気が向けばって感じかなあ」
「そうか。おっけー」
「んじゃ」
クラウディアと別れ、レナーテは知識の塔を後にした。
一階にある大広間では組手の肉弾音が昼夜問わず絶え間なく響く。螺旋階段を上がって静寂の間に入ると、遮断魔術により下の階の喧騒はもう聞こえてこない。
そこで瞑想する天上生達の邪魔にならないよう、レナーテは気配を極限まで消して通りすぎる。
その先にあるのは大水晶の間だ。
「はい、これであってるよね」
美しい陽光が差し込むいつもの場所に座り込むユクシアに、レナーテは知識の塔から持ってきた書巻を手渡す。
読書に耽っていたユクシアはおもむろに顔をあげ、それを受け取った。
「ありがと」
ユクシアはレナーテに微笑みかける。普段あまり表情を崩さない彼女が不意に笑うと、その破壊力は凄まじいものになる。
それは同性であるレナーテも思いがけずドキッとしてしまう程だ。彼女の友人をしていると、こういうことが多々ある。
ユクシアは絹糸のような髪を耳に掛け、読書に戻る。そんな彼女にレナーテは話題を降った。
「そういえばなんか、学長お墨付きの講義が下で始まるらしいよ」
「そうなんだ」
途端に素っ気なくなったユクシアに、レナーテは小さく笑う。彼女の気性の移り変わりはまるで猫のようである。
しかし奔放でありながら、実力者としての気高い振る舞いは誰もが憧れる。彼女は才能の象徴のような存在だ。
レナーテもユクシアの背中を必死に追いかけて来たものだが、いつしか肩を並べる友人以上に慕情を向ける存在となっていた。
「ユクは行く?」
「いかない」
ユクシアはまるで興味を示さずページをめくった。
まただ、とレナーテは思う。
彼女からは時折哀愁を感じる。だが、天上宮殿での生活はユクシアにとっても退屈なものではないはずだ。ここは外の世界で味わってきた孤独とは無縁の場所。化物のような才能を飼っている者のみが集っている。
なのにユクシアは、どこか物足りなさを感じているように思える。
「じゃあ私もやめとこうかなあ」
水晶の景色をぼんやりと眺めながらレナーテは言った。
ーーー
「これで治っただろう」
医療センター勤務の医師、シュウ・ズーシェンが霧生の右足に巻かれたギプスを取り外し、その膝を軽くポンと叩く。
「ええ、ありがとうございます」
「どうだ、問題なく動かせるか?」
エルナスに敗北した日から丁度一週間。自傷魔術によって運悪く折れてしまった右足も、医療センターの高度な医療技術とシュウの治癒魔術によって早くも完治に至った。
医療センターでは高い治療費を払えば払う程、比例して高度な治療を受けられる。つまりその分早く完治する。
講師となった霧生は優遇措置としてその高度な治療を無償で受けられるようになっていた。
「完全に元通りです」
ベッドに腰掛ける霧生は何度か右足を踏み鳴らしてみる。
この一週間、自傷魔術による傷が痛む度に例の敗北が脳裏に蘇る生活であった。そんな生活に別れを告げる時が来たのだ。
(ようやくリベンジが果たせる)
霧生は一度強めに足を踏み鳴らしてそう意気込む。この一週間、待ち望んでいた瞬間だ。
「問題ないみたいだな」
霧生の前に片膝を着いていたシュウは満足げに頷いた後、立ち上がった。
日頃から手傷が多いゆえ、それなりの医術を心得ている霧生だが、この医療センターの設備と技術は流石だと唸らざるを得ない。
シュウ曰く、どれだけ重症でも生きてさえいればおおかたは完治させることができるらしい。
「本当に助かりますよ。気軽に大怪我ができるっていうのは」
誰かに治してもらえるのなら、自力では回帰不能なレベルまで自分を追い込むことも可能だ。霧生はアダマス学園帝国の素晴らしい環境を改めて感じていた。
「君な……。まあ、息があるなら治してやるが。あまり無茶して死ぬなよ」
「ハハハ、そんな無茶はしませんって」
おかしなことを言うシュウに、霧生は拳を口元に当ててクスクスと笑う。
死は勝利から最も離れた概念だ。確かに先日は気を失う程はしゃいでしまったが、ここは戦場ではない。気絶したからといって死ぬ訳では無いし、勝利の為に多少の無茶が許されるのは、研鑽の場ならではである。
「いや君の自傷魔術が既にかなりの無茶なんだが」