第10話 全身全霊のじゃんけんを行う
青年の声が響くと、騒然としていた講義室に静寂が訪れる。
無差別な《気当たり》が室内の生徒達を襲っていた。
《気当たり》は相手を気で威圧する技能である。そして青年のそれは凄まじいものであった。目の前に立つ霧生には、その重圧がより強く伸し掛かる。
(このクラスの実力者もいるのか。正直今やり合うのはかなり分が悪いな)
霧生は一度冷静になり、状況を分析する。
このレベルになってくると、《気当たり》や立ち振る舞いを見ただけでは測り切れない部分も出てくる。実力者はあえて己の力を偽ることも多く、常に余力というものを意識しているものだ。霧生とは違い。
「スタンズ、下がれ」
横から霧生に再び殴り掛からんとしていたスタンズに、青年は命令する。
「だけど、エルナスさん……」
食い下がるスタンズ。端末を破壊されたことに怒りを感じているらしい。
しかしエルナスと呼ばれた青年は、今一度語気を強めて言った。
「下がれ」
その言葉によりスタンズは数歩下がり、行動を控える。
アッシュグレーの髪をかき上げながら、エルナスは椅子から立ち上がった。
「新入生は俺が誰かなんてまだ分からないよな」
背丈は霧生と比べて頭半分程高く、彼は視線だけで霧生を見下ろしてくる。すると僅かにその目を瞠った。
「……ん? お前もしかして、一昨日闘技場で決闘をしていた新入生か?」
「そうだな。見てたのか」
「ああ、上からな。そうかそうか。お前程の実力者なら多少気が大きくなってこういった事をしでかすのも無理ない」
上から。その言葉で霧生はあの時天上宮殿から感じた視線に合点がいく。そして霧生の戦いを見て尚余裕の態度でいられるエルナスは、相当の自信があるようだ。
「天上生も地上で講義を受けるんだな」
「厳密には天上"候補生"だ。退屈な講義を受ける必要はすでにないが、ここでは人と会う約束をしてる」
だから悪いが──
エルナスは続けた。
「さっさと失せろ。見逃してやる」
霧生が煽ったとはいえ、そもそもこうなった原因は先に手を出してきたスタンズにある。それには感謝こそすれど、怒りを感じている訳ではないが、一応先に席に座っていた霧生にはそれを取り返すという大義名分があるのだ。
せっかくの争いをみすみす手放すなど、霧生にはできない相談である。
パキパキ、と指を鳴らし霧生は戦意を示す。エルナスは心底面倒臭そうに溜息を吐いた。
「やめとけ。その様子だと、まともには動けないんだろう?」
エルナスは霧生の消耗まで見抜いているらしい。
隣のスタンズが鼻で笑う。自分が殴り飛ばしたからだと思っているのだろうが違う。
例え全能の神であっても、自分自身と戦えば無事では済まないものだ。
(確かに、まともにやり合うのは厳しい。だが短期決戦なら別だ)
それを踏まえ、霧生は提言する。
「……そうだな。だから、じゃんけんでどうだ」
「じゃんけんだと……?」
エルナスは怪訝な顔をする。
「ああ。俺が勝ったらそこを退け」
「なんなんだお前は! またボコられない内に黙って失せろ! 大体お前にこの講義を受ける権利はないだろうが!」
我慢ならないと言った様子でスタンズが横から口を挟んで来る。しかしエルナスは肩を竦め、薄く笑った。
「……じゃんけんか。俺が勝ったらすぐに消えてくれるんだな?」
「勿論だ」
その言葉に頷く霧生。スタンズが苛立ったように、その大きな拳を横に凪ぐ。
「エルナスさん、なんでやってしまわないんですか」
「スタンズ、こういった頭のおかしい奴には何を言っても無駄なんだ。じゃんけんで消えてくれるなら無駄に体力を使うこともないし、損害は少ない」
「いやいや、俺が表でちょっと教育するだけの話でしょうよ。いつもそうしてるじゃないっすか。エルナスさんが出るまでもない」
「何言ってるんだ? お前の手に負える相手じゃないから、こうして俺が立ってるんだろ」
「は……?」
スタンズが間の抜けた声を上げた。
「いいから下がってジャッジしろ」
程良く鍛えられた腕で、エルナスはスタンズの胸をドンと押す。彼はよろめき、後ろの壁にぶつかった。
「じゃあてっとり早く済ませようか。行くぞ」
そう言ってエルナスは片手を腰まで持ち上げた。
その瞬間、霧生は目を見開き《解放》する。全身の気が血流を駆け巡り、飛躍的に身体能力が上昇する。
エルナスは顔をしかめた。
「はぁ。洒落臭いな」
《解放》まで使ってじゃんけんをするつもりではなかったのだろう。
溜息を吐きつつ、彼の方も《解放》する。
「あいつもやり手みたいだが、エルナスにじゃんけんで勝てる訳ないだろ……」
そう誰かが呟くのが聞こえた。
武術を扱う者同士のじゃんけんは運で決まる勝負ではない。
元来、じゃんけんに存在する必勝法。
相手が手を出す瞬間にそれを見極め、手を変える。相手に悟られないレベルでの後出し。技能の世界ではそれがまかり通る。
しかし実力の近い者同士では当然どちらが後に出したかなど一目瞭然だ。故に、それを判断し、掛け声を掛けるジャッジ役が必要になる。
霧生はスゥと深呼吸した。
そして気の巡りを一層加速させる。霧生を中心に、その身から溢れ出した気が波紋を描いて広がった。
「うそ、あれ《過域》!?」「ただのじゃんけんだぞ!?」「命懸けじゃねえか!」
《解放》の一段階上の技能、《過域》
少しでも気の制御を誤れば、全身の血管が破裂して絶命する。達人でもここぞという場面でしか使わないリスキーな大技である。
一瞬で勝負が決まるじゃんけんだからこそ、それを使用する。
「ふざけるな」
などと言いつつ、エルナスも《過域》を使う。技能者の質にもよるが、《解放》では《過域》の反射スピードに勝てない。手を出す速度も変わってくる。
「さあ、やろうぜ。じゃんけんぽんの、"ん"な」
霧生にしてみれば本日何度目か分からない《過域》の使用。全身が悲鳴を上げているのが分かる。
状況は圧倒的不利。
今朝殆ど使い切ってしまった気でなんとか《過域》を回しているのだ。
「じ、じゃんけん……」
スタンズが少し震えた声で掛け声を掛けた。
「ぽ──」
そこまで、霧生もエルナスも直立のまま動きはない。しかし。
「ん」
スタンズがその声を放った途端、バチンと電撃でも散ったかのような、じゃんけんで鳴る音とは思えない音が講義室に響き渡った。
二人の手が音速を超えて繰り出されたことによる衝撃波である。
スタンズが恐る恐るといった様子でその結果を覗き込む。
霧生の手はグー。エルナスもまた、グー。引き分けだ。
「チッ……!」
舌打ちする霧生に対し、エルナスは目を見開いていた。そしてみるみる内にその表情が歪んでいき、歯軋りした。
勝利を確信していたからだろうか、引き分けという結果に酷く怒りを感じているように見える。
「スタンズ!」
エルナスが声を上げると、スタンズはビクッと体を震わせ、再び口を開いた。
「じゃんけん──」
今度は構えを見せるエルナス。それに合わせ、霧生も同様に構えをとった。
互いに互いの手を凝視する。
「ぽ──」
「シィィッ!」
「ズゥァッ!」
ここからは百分の数秒の世界だ。
掛け声を兼任するジャッジ役のスタンズの口元、舌の動き、そして相手の手。全神経を研ぎ澄ませ、視線を交互に動かす。
「──ぉ」
その母音に反応し、グーのまま振り下ろされていく霧生の右手。エルナスの初動はパーだ。
一手受け読みなら、二本指を弾いて出すだけのチョキに対し、五本指を畳まなければいけないパーは弱い。
無数に手を変え反射戦を楽しんでも良かったが、体力面での問題がある霧生は直前まで手を変えない選択をする。先程のように読み合いで引き分けになってしまえば、三度目を《過域》で挑むのは難しくなってくる。
スタンズの口元が閉じられた。"ん"の発声まで瞬刻もない。
絶妙なタイミングで霧生はチョキへと手を変える。それに合わせ手をグーへ変動させるエルナス。霧生はここで少し猶予を置く。想像以上にエルナスの反応が速い。否、疲労した霧生が遅い。
だが、勝てる。
(追い付いてみろ!)
「ん」
バチン──!
その衝撃波により、霧生とエルナスの頬が斬れ、そこに血が滲む。
吹き付けられ逆だった髪が落ち着く。気がつけば講義室の人間が集り、霧生達を囲んでいた。
ごくりと、誰かが唾を飲む音が聞こえた。
霧生の手はグー。
そして、エルナスの手はパー。
「おお……」
講義室に小さく歓声が上がる。
敗北。その事実を認識したことがトリガーとなり、霧生の体内に刻み込まれている概念術式が起動する。
発動するのは自傷魔術。霧生が自分の敗北に架した背水の罰。
「ぐあああっ!」
霧生は後方へと吹き飛んだ。スタンズに殴り飛ばされた時よりも勢いよく壁に衝突し、講義室の白い壁に大きな窪みを作った。
そこを中心に、ピシピシとヒビが入っていく。
「は?」
なぜ今吹っ飛んだのか。周囲の者達に分かるはずもない。
当事者であるエルナスも、困惑した表情を浮かべていた。
「がはっ……」
盛大に吐血する霧生。
朦朧とした意識の中で、自分に敗北を与えた男、エルナスを睨みつける。
「エ、エルナス。この敗北、覚えたぞ……」
そうして霧生は意識を失った。