プロローグ 勝利にハマった日
──その少年は彼の一族曰く、二百年に一度の逸材であった。
少年の才能を見込んだ彼の家族は、彼が物心つく前から微に入り細を穿つ英才教育を施し、知恵と力は重荷にならぬと様々な経験をさせた。
少年が六つになった頃には十分過ぎるほど一族の技を受け継ぎ、未来を期待させた。
名を、御杖霧生と言った。
霧生は俗に言う努力する天才であり、一を聞いて十を知り、さらにその十から学ぼうとする気構えで日々取り組んだ。
特に彼が恵まれていたのは、才能に恵まれすぎなかったことだ。
ゆえに霧生は不可能を可能にするまでの過程と苦労を知ることができたし、自分の成長を実感し、さらなる高みへ嬉々として進むことができた。
そんな霧生の意欲旺盛さは、彼の病的なまでに負けず嫌いな性格が起因している。
霧生は"勝利"を経験したことがなかった。
霧生の父は、外の子ども達が比較対象になるとは考えていなかったから、霧生がいつも相対し、比較されて来たのはその道の達人や過去の偉人達だった。いくら天才と言えどまだ年少であった霧生にとって、"勝てる"環境ではなかったのだ。
「仕方ない」
「負けて当然だ」
「相手が悪い」
際限なく敗北を重ねさせられた霧生を、周囲の者達はいつもそう言って宥めた。
まだ勝利も、本当の敗北も知らない少年を。
──その少女は俗に言う天才であった。
否、彼女のことを天才などと言う慣れ親しんだ言葉で表現する者などいないに等しい。
神童の中の神童。前世でどれだけの徳を詰めばここまでの才能を授かって生まれることができるのだろうか。そう思わせる程に少女は才気煥発であった。
少女の名はユクシア・ブランシェット。
ユクシアの両親は、娘の抜きん出た才能を知って、然るべき環境を与えられる程度には金銭的に余裕があったし、教育的リテラシーが高く、《技能》にも造詣が深かった。
しかしそうした環境の中でもやはりユクシアは抜きん出ていて、同じように天才と呼ばれる子ども達を各分野で一蹴した。
あるいは学業。
あるいは武道。
あるいは作法や芸術に至るまで。
知力、運動能力、容姿と、三拍子どころかそれ以上が揃っていたのだから、もはや羨むことすらはばかられる、そんな少女なのであった。
ユクシアは息を吸って吐くように、あまねく可能性を凌駕していく。そんな彼女にとって"勝利"など平凡で、価値に乏しいありふれたものであった。
つまるところ、幼くして達観していたユクシアは勝つことに飽きていたのだ。
原因はユクシアの才気以前に、周囲の者達にあった。一人の少女に敗北を喫した者は、その関係者は、いつもこう言う。
「まあ仕方ないか」
「負けて当然だよ」
「相手が悪かった」
ヘラヘラとした笑みを浮かべ、例に漏れずそう言うのだ。
──二人が出会ったのは、日差しの強いある夏の日のことだった。
霧生は父の仕事の付き添いで。ユクシアはバカンスでそのリゾートホテルに長期滞在することとなっていた。
その時、神童と持て囃されたユクシアは、七つにして早くも反抗期を迎えていた。
とは言っても精神的に成熟しつつあった彼女の反抗と言えば、少し距離を置く、という何とも子どもらしくない、両親からして見ればどうにも始末に負えないものである。
そうであったから、バカンス中もユクシアは家族から一人離れ、あえて子どもらしく草むらなどを駆けてみたり、剣を振ったり、時にはカフェのテラスでコーヒーを啜りながら小説を読んだりと、持て余した時間をなんとか消費していた。
霧生の方は、父の仕事が一段落付いていたので、主に一人で外を目的もなく探索することに熱中していたが、父の言いつけもあってあまり遠くに行くことはなかった。
それゆえに霧生は手入れされた広い芝生の上を無邪気とは言い難い表情で走り回るユクシアを見つけたのだった。
打って変わって好奇心旺盛な霧生がユクシアに興味を持つのは必然であり、これまで同年代の子どもとほとんど関わることがなかったのもそれに拍車をかけた。
ユクシアと遊ぶことを勝手に決めた霧生は彼女の元へとずんずん進み、話しかけた。
「楽しいのか?」
霧生が近づいて来るのに気づいたユクシアは足を止め、どこかただならぬ雰囲気を纏う彼を待っていた。そして思いがけない質問を受けると、一瞬面喰らい、しかし答えは迷わず口に出した。
「全然?」
ユクシアが肩を竦めると、絹糸のような長く美しいブロンドの髪が揺れる。
澄んだ瞳に雪を欺く白い肌。身長はユクシアの方がやや高かったので、霧生はその容姿端麗な顔立ちを口を真一文字にしてしばらく見上げていた。
その後視線を下ろすと、霧生はその少女が白い柄の細剣を腰に下げているのに気がついた。
「それ、使えるのか?」
「人並み以上には」
「ふーん……。俺は霧生。御杖、霧生だ」
「私はユクシア・ブランシェット」
ユクシアは霧生が腰に刀を下げていることには気づいていた。元々一般利用客の少ないリゾートホテルだとユクシアは聞いていたので、霧生がおそらく真剣であろう刀を下げていることに疑問は抱かない。
しかし霧生がその真剣でいきなり斬り掛かってくるなどとは予想だにしなかった。
「シィッ!」
霧生の初動に対し、ユクシアは咄嗟に剣を抜いた。合金同士がぶつかり合い、チリと小さい火花が散る。
「私と試合がしたいの?」
距離を取り、ユクシアは尋ねた。霧生が彼女に向けていたのは刀の峰。殺意がないのは分かっていたが、まるで迷わぬ一閃の軌道はユクシアの首まで弧を描いていた。迎撃していなければ最悪後遺症が残る大怪我をする可能性もあっただろう。
それに対して怒る訳でもなく冷静に試合の申し込みだと解釈したユクシアは、たった一度の打ち合いで霧生が同年代においてはかつてない使い手であることを悟った。それでも自分の方が上であることも。
「そうだ。かかってこい」
霧生が言い終えるか否か。それくらいの時であった。ユクシアは瞬時に霧生の懐へ踏み込んでいた。
構えた細剣を霧生の喉元へと突き出す。霧生はかろうじてそれを横へ薙いだ、否、薙ぐことが出来たのは、霧生が反応できるギリギリの突きをユクシアがあえて繰り出したからだ。
軌道を変えられた細剣に従い、軽やかな足捌きで霧生の横へと回ったユクシアは、上腕の尺骨神経を的確に叩き、続けて刀を叩き落とす。
「はい、私の勝ち」
彼女が宣言し、勝負あった……かのように思われたが、霧生は即座に屈み、ユクシアの足元目掛けて払いを掛ける。
それを軽く避けたユクシアは落ちた刀を遠くへ蹴飛ばしつつ、リーチの差が存分に発揮される間合いをとった。
その間合いを霧生は容赦なく詰めていく。ユクシアが細剣を振るっても、素手で剣の樋を弾いては、何度も彼女の急所目掛けて蹴りや拳を繰り出した。
霧生が怪我をしないように立ち回っていたユクシアだったが、こうも向こう見ずに突っ込んで来られるとキリがない。彼女は細剣を投擲し、その陰から再び霧生の懐へと潜り込む。
そして鳩尾に掌底。続けて霧生の襟首をぐっと掴んで地面に投げつけると、そのまま動けないように組み伏せた。
「私の勝ち」
そう言って、霧生をすぐに解放した。
「ぐ…………ぁ……」
その時霧生にはまだ敗北の実感が無く、鳩尾を押さえてただ地面にうずくまるのみだった。
一つ彼が分かっていたことは、手加減されていたこと。あまりに実力が違いすぎたこと。
ユクシアに挑む者はいつも知らない。その少女が度を越した天才であることを。神童であることを。勝利に愛されていることを。
だが彼らはそんな絶望的な差を知り、嘆いたりなどしない。知って、自分の敗北に納得するのだ。
その敗北は必然。相手が悪かったのだと。
それは霧生とてきっと同じことだろう。ユクシアはまた無益な勝利を重ねてしまったのだと思った。
「仕方ないよ」
自嘲気味にそれだけ言って、ユクシアは立ち去ろうとする。しかし。
「うっ……く……。っ……ぐ」
そんな啜り泣く声を聞いて、彼女は思わず振り返った。
霧生は泣いていた。草を手一杯に掴み、大粒の涙を流していた。悔しさのあまり強く噛んだのだろう、結んだ唇からは僅かに血が滲んでいる。
霧生には分からない。なぜここまで悔しいのか? これまで何度もこうして打ち負かされ、育てられてきたはずなのに。
仕方ない。負けて当然。相手が悪い。敗北の度にそう宥められ、霧生もそうだと考えてきた。
ではなぜ?
勝とうとしたからだ。勝てると思っていたからだ。
それに気づき、霧生は初めて敗北を実感した。
負けた。圧倒的に。その上相手は勝って当然だと言わんばかりの態度。相手は同年代の女の子なのに。
「…………明日も、ここにいるか?」
鼻を啜りながら霧生は尋ねた。
「……え、あ……、うん」
戸惑いながらもユクシアは答える。
「明日は勝つ……!」
それだけ言い残して霧生は走り去っていった。
その時、ユクシアは勝利の実感こそ湧かなかったが、霧生に敗北を刻み深く傷つけた、という事実だけは重く心に伸し掛かっていた。初めてのことだった。
それからというと、来る日も来る日も霧生はユクシアに挑んだ。彼女がどこにいても必ず見つけ出し、勝負を持ちかけた。
あるいは学業。
あるいは武道。
あるいは作法や芸術、スポーツからゲームに至るまで。
必ず勝つと意気込んでは、毎度完膚なきまでに打ちのめされた。
霧生の負けず嫌いは度が過ぎていて、じゃんけんで負けたくらいでも悔しさに涙する程であった。
ある日それを情けないと思ったユクシアは。
「泣いたら負けだよ」
と霧生に言った。
すると途端に霧生は泣き止んだ。霧生はそれからいくら負けようが悔しさに涙することはなくなった。
ユクシアはと言うと、何度も霧生を打ち負かしていくうちに「私は大人げないのかもしれない」と思うようになった。ユクシアは良くも悪くも自分が人と違うことを知っている。見下している訳ではないが、いくら挑んで来るとはいえ子ども相手に毎回本気で勝ちにいくのはどうなのだろうか。
そんな考えが浮かんでいたユクシアは、カフェテラスで小説を読んでいたところ挑まれた「しりとり」にて──
「セミ」
「み……、み……、みかん」
しりとりくらい。そう思って一度わざとらしく勝利を譲った。
すると霧生は。
「よっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「え……」
「よっしゃよっしゃよっしゃよっしゃよっしゃよっしゃよっしゃよっしゃよっしゃよっしゃよっしゃ!!」
これでもか、と言うくらい喜んだ。
彼の初めての勝利、その実感であった。
「俺が勝った!」
霧生は訳のわからないダンスを踊りながらユクシアを中心に周回し、俺が勝った俺が勝ったと叫びながら草むらを駆け、ホテルの従業員達に自分の勝利を触れ回り、やがて息を切らしながらユクシアの元へと帰ってきた。
「し、しりとりで勝ったくらいで大袈裟じゃあない?」
「粉砕!」
「…………」
その時、神童・ユクシアに新たな初めての感情が芽生えた。
(なんだろう。これは……。
なんか……、なんか悔しい!)
「……今の、わざと負けてあげたんだけど……!」
「言い訳しても俺の勝ち〜」
「み、だったらミートボールとかミツバチとか水たまりとか、いくらでも出てくるし」
「でも、俺の勝ち」
にんまりとユクシアの悔しそうな顔を覗き込みながら、霧生は言う。彼にとってユクシアがわざと負けたかどうかなんて関係なかった。勝ちは勝ちだ。
「も……もっかい! もっかいするよ! しりとり!」
パタンと小説を閉じ、ユクシアは声を上げる。
「えぇ〜?」
霧生にとってはあまりに荒唐無稽な初勝利。無気力試合だったはずなのに、ユクシアにとっては初めて味わう敗北感。
しかしこのくだらないようにも感じる一戦が、二人の勝敗観念をより強く、あるいは大きく変えてしまったのだった──
それからもしばらく、ユクシアと霧生の勝負は続く。一切手加減をしなくなった彼女に霧生が勝つことは難しかったが、ユクシアはいつしか霧生との勝負を楽しむようになっていた。
どれだけ圧倒的でも。一切歯が立たなくても、霧生はユクシアに挑み続け、その度の敗北に納得することはなかった。
そんな霧生をユクシアは尊敬した。親以上に自分と対等に向き合ってくれる、心の底から超えようとしてくれる。初めて出来た友達とも呼べる存在。
霧生もまた、自分が何を求めて生きていけばいいのか、それを示してくれた彼女に感謝した。
だが別れの時はやってくる。
二週間弱の滞在を経て、霧生の父に次の仕事の目処が付き、彼はリゾートホテルを離れることになったのだ。
そのことを、霧生はユクシアに告げた。
「結局私には一回しか勝てなかったね。それも、わざと負けてあげたしりとり」
いつものカフェテラスで小説を読んでいた彼女は言った。
「なんて言い訳しても、あれは俺の勝ちだぞ」
例の一勝を巡って、二人は何度このやりとりを繰り返したのだろうか。霧生はこの時も、ユクシアを煽るようにそう言った。
しかしいつまでも顔を背け続けるユクシアに違和感を感じ、霧生は彼女の顔を覗き込む。するとその澄んだ瞳からは、今にも涙が零れそうになっていた。
少女の瞳に霧生の姿が映ると、ポトリ、無造作に開かれた小説の一ページが大粒の涙で滲んだ。
「……泣いてんじゃん」
「だって……。こんなに、楽しかったの……。初めてで……」
指で何度も何度も涙を掬いながら。嗚咽交じりにユクシアは言った。
いつでも別れは辛いものだと大人達は言う。いくら才能があっても。どれだけ成熟が早かろうと。限られた時間の中で人は経験を重ねていく。
進境著しい、それゆえまだ幼い少女にとって別れは辛いものであった。
「確か、泣いたら負けだったよな」
コクリ。ユクシアは頷き、その敗北を認める。
「キリュー……」
やがて泣き止んだ神童の少女は美しく透る声で、か細く言葉を紡ぐ。かつてない弱々しさの声に霧生は言葉を呑んだ。
「……またいつか……勝ちに来てよ」
霧生は頷く。
「絶対……、絶対だからね。私が何をしてても、どこにいても、きっと見つけて……。勝ちに来て」
「分かった。絶対だ」
霧生は深く頷いた。