今の私と、過去の私 1
~今の私と、過去の私 1~
怪獣の存在そのものが私だったと発覚したところで、やるべきことが見えました。
それは好き嫌いをなくすことだ。
まんま、あの絵本の主人公である『我儘怪獣ドルン』と同じだった私は、あのままではダメだと思ったのだ。
超身近に反面教師がいたよ。
それも絵本というありがたい優しい教本だ。
思い返せば、ピーマンの苦味に悶絶して前世の記憶が目覚めたのも、なんとなく納得できるような気がする。
嫌い嫌いの延長で、何かが振り切れてしまったんじゃないかな、あの時のレーンは。
とりあえず、今日これからの食事の席でちょっとずつ好き嫌いを改善すべく頑張ろうと思います。
前世では克服できた野菜の苦味も、今のお子サマ舌ではかなりの苦行になりそうだから、そのあたりは覚悟を持って挑まねば。
何より、嫌いだからって除けてばっかりじゃ作ってくれた料理人の皆さんに申し訳ないじゃないか。
一生懸命腕によりをかけて作ってくれているというのにね。
そこは感謝の気持ちでありがたくいただいて、そしてきちんと完食しましょうよ、っていうやつだ。
ちなみに今の時間を確認したら、ちょうどおやつ時にあたる午後三時を過ぎたところだった。
暴挙をやらかしてひっくり返ったのが昨日の夕食時。
なので、実に半日近く寝込んでいたことになる。
朝も昼も抜いた状態の私はかなりお腹が空いていて、これからサロンでおいしいお菓子をいただけるとあって心ウキウキだ。
今はニッコニコのご機嫌な笑顔でロイアス兄さまに手を引かれてサロンに向かっています。
それにしてもサロンはまだか。
部屋を出てから結構歩いてるはずなのに、未だ目的地のサロンに到着しない。
公爵家だけあってだだっ広いお邸なのは分かってたけど、こうも目的地に着かないとなると不安にもなってくる。
どこか別の違う場所に向かっているんじゃなかろうかと。
ただしこれが一人であれば、の話だ。
今は兄さまに手を引かれながら、お母さまの後をついて歩いてますからね。
二人が意地悪をしていない限りは、違う場所に連れていかれるということはないと思います。
ただ手を引かれて歩いているだけというのも何なので、行く先々で目に入る置物だったり、絵画だったりを眺めてみることにしました。
興味を惹かれて立ち止まると、兄さまもお母さまもその都度待ってくれますし。
遠慮なく見ることにした次第です。
やっぱりキレイな絵には惹かれます。
時間の許す限り、ず~っと眺めていたいくらいです。
それはもう前世の頃から大好きです。
超難関で狭き門とも言われていた学芸員を目指していたくらいですからね、前世の私は。
それも絵画や美術の方です。
……と、ふと前世の自分のことが頭にぽんと浮かびました。
────一生懸命だったよね、あの頃の私……
でも。
その夢は叶えられないまま、私の人生は終わって、今この世界で、こうしてレーンとして生きている。
もう二度と、その夢を叶えられることはない。
公爵家の娘として生まれてきたこともそうだし、それ以前に、この世界に学芸員という職業があるのかどうかすら分からない。
仮にあったあとしても、この世界の常識として貴族の娘が働くなんて考えられない世の中なのかもしれないし。
「レーン?」
立ち止まり、一つの絵をじっと見たままぼんやりしてしまった私を見て兄さまが怪訝な顔をしました。
もう何度目になるのかも分からない『レーンの様子がおかしいぞ』状態です。
「……ん~ん。なんでもないです」
「何でもないという顔じゃないようだけど?」
「きれいだな、っておもってみてました」
誤魔化しのためにそう言って一つの絵を指差すと、兄さまが『……ああ』と納得したような声で同意を示してくれました。
その絵は朝露に濡れた草花が柔らかく光を反射している様子を描いた一枚。
幻想的な早朝の一場面を切り取ったような、美しい絵。
優しい色使いと、温かみのある柔らかいタッチが見る者の心を和ませてくれるような、そんな不思議な作品。
改めてもう一度じっくりよく見てみると、尚更その美しさが見えてくるのだから名画というものは素晴らしいと思う。
今美術館とか連れていってもらえたら、飽きることなくずっと絵の前に張りついていると自信を持って言い切れる。
「絵が好きなことは覚えているんだね、レーンは?」
「にいさま?」
言われた言葉の意味が分からず、思わず首を傾げた。
兄さまの目が、じっと私の目を見つめている。
それは決して探るような悪い意味の視線ではなく、ただただ、今の私の中に前の私との共通点を見つけたと言いたげなそれだった。
既にこの家中の人たちには、今の私の状態が『一部の記憶が抜け落ちた、一時的な記憶喪失』であると知れ渡っている。
それは兄さまも例外ではない。
けれど、本当は記憶喪失でも何でもなくて、ただただ、自分のことがよく分からないだけ。
今までの私は幼すぎた。
そして今の私は、前の私の記憶と本来のレーンの記憶が入り混じったことで生まれてきた、中途半端な幼女フローレンだ。
だから私は、私を知ろうとしている。
その答えを今一つ、兄さまから教えてもらえた。
『レーンは、絵が好きだ』ということを。
「絵を見ることも。描くことも好きだよね、レーンは」
「かくのも、すき……?」
「そうだよ。こっちにおいで」
「? はい」
そう言われて、手を引かれ、サロンに向かう方とは別の廊下へと兄さまは進んでいこうとする。
その前にちゃんとお母さまに断りを入れることも忘れない。
「母上。少し寄り道をします」
「それは旦那さまのお部屋へ向かう途中の廊下かしら?」
「はい、そうです」
「分かったわ。ではわたくしは先にサロンに行ってお茶の準備をしておくわね」
「ありがとうございます、母上」
「いいのよ。ゆっくりレーンに見せてあげてちょうだいな」
「はい」
兄さまが一体何をしたいのか、お母さまは察しがついているようだ。
一方で私は兄さまがどこに行って何をしようとしているのかさっぱり分からないため、連れられるままについていくしかない。
あ、行き先は判明してた。
さっきお母さまが『旦那さまの部屋へ向かう途中の廊下』って言ってたから、お父さまの部屋に限りなく近いところなんだろう。
「ロイにいさま、おとうさまのおへやにいくの?」
行ったところでお父さまは仕事のために留守だ。
主のいない部屋に行くことも、ましてやその付近に行くことも何の意味もないはず。
何のために兄さまがお父さまの部屋の方へ行こうとしているのか、ただただ疑問だ。
「さっき母上が言っていただろう? 行くのは父上の部屋ではなく、その途中の廊下だって」
「でもにいさま、おとうさまのおへやのちかくにはだれもいないです。おとうさまがおるすなのに、ほかのだれかがいるのはへんです」
「いいんだよ、レーン。人に会う目的でそこに向かうわけではないから」
「それじゃあ、なにをしにいくんですか?」
「それは着いてからのお楽しみだよ」
結局教えてもらえませんでした。
ただ、あまり表情変化のない兄さまの顔がどことなく楽しそうにしているように見えるのは気のせいでしょうかね?
とりあえず行けば分かる、とのことなのでおとなしくついていくことにします。
あ、手を引かれているので、正確には連れていってもらう、ですね。
「………………」
それにしても、本っっっ当にだだっ広い邸だな、オンディール公爵家。
歩けども歩けども目的地になかなか辿り着けない。
さながら巨大迷路のようだ。
兄さまが一緒じゃなければ確実に迷っている。
よくよく思い返してみれば、私が目覚める前のレーンだって、一人でこのお邸をふらふら歩き回るようなことはしていなかった。
家族、あるいはメリダをはじめとする私専属の侍女が一緒だったのがほとんどだ。
大抵は兄さまのあとをちょこちょこついて回っていたんだっけ。
それもわぁわぁぎゃあぎゃあ騒ぎながら。
────うっわぁ……
────さぞかしウザかっただろうなぁ、兄さま……
子どもだからそれが普通だと言われたら、そうなんだろうなと納得はいくけど、やっぱり限度ってものはあるよね。
あれだけうるさかったレーンが急におとなしくなった(……と思われている)今、兄さまの中では、それはそれは戸惑いが大きかったに違いない。
子どもらしくない、急に大人びたと言われたのも納得だ。
あの時の兄さまが受けた衝撃は、鈍器で思いっきり頭部を殴られたようなそれと似たようなものだっただろう。
でも。
今だから、分かってきた。
きっとあの頃のレーンは、構ってほしかった。
特にロイアス兄さまに。
うるさくしてでも、騒いででも、纏わりついてでも、兄さまの側にいたかった。
我儘を言って困らせることで、自分を見てほしかった。
────大好き、だったんだなぁ……
今もその気持ちは変わらない。
私が目覚めたことで、その気持ちの在りかたは変わったけれど、根底にある兄に対する『好き』の気持ちは変わらない。
今までは、好きだから、ただただ構ってほしかった。
でも今は、好きだから、迷惑をかけたくない。
そんな感じで気持ちに変化が出ている。
もちろん今までのレーンに、迷惑をかけたくないっていう気持ちがなかったわけじゃない。
分かっていても、止められなかった。
幼いがゆえに、構ってもらいたいという気持ちのほうがずっとずっと大きかった、ただそれだけ。
実際に迷惑がられて、一人部屋で泣いたこともあったなと、そんなことを思い出すくらいに、今の私とレーンの記憶は完全に一つに重なりつつある。
それから、少しずつ私自身も見えてきた気がした。
昔の、前世の私が好きだったことをレーンも好きだったという事実が、私に確信させた。
確かにレーンは私で、私はレーンだったのだと。
ただ……なぜ『私』が『レーン』として生まれ変わってきたのかは分からないままだけれど。
「また考え込んでいるね、レーン」
「!」
「今度は何を考えていたんだい?」
不意に声をかけられて、ハッと意識が引き戻される。
考えていたのは、私のこと。
でもそれを正直に告げていいものか迷ったのは一瞬だった。
「わたしのこと、かんがえてました」
「レーン自身のことを?」
「はい」
「……そうか」
深く追求されることはなかったけれど、どうやら思うことはあったらしい兄さまがこう言葉を続けた。
「知りたい答えの一つはこの先にあるよ」
「えっ?」
言われて辿り着いたその先はお父さまの部屋へと続く廊下の一画。
今までは等間隔に飾られていたはずの絵画が、ここには全く飾られていなかった。
普通だったら違和感しかないと言ってもおかしくはないその一帯が、どういうわけか、違和感どころか暖かみを感じる空間に見えた。
例えるならば……そう、子ども部屋。
廊下であるはずなのにそう思わせたものの正体は、まだまだ拙いながらも一生懸命に描かれた、子どもが描いたと思しき絵の数々。
それが壁一面に、スペースの許される限り貼られていたのだ。
まるで前世の世界で、コルクボード上に無造作に写真を貼りつけて飾っていたような、あんな感じによく似ている。
立派な額縁もない、作品名や作者名を書いたプレートもない、単にスケッチブックに描き散らした絵を余すことなく一枚一枚飾りました、といったような一つの空間だった。
「ここにある絵は、全部レーンが描いたものだよ」
「わたし……?」
「そう。絵が大好きで、いつも一生懸命に何かを描いてた」
懐かしむように兄さまは言う。
「描きあがったら、笑顔でそれを皆に見せてきて。褒められたら本当に嬉しそうにしていたよ」
覚えてる。
ううん、思い出した、というべきかな……。
「次から次に描きあげるものだから、父上がレーンの絵を飾ろうって言い出して。それで、部屋を出た時、一番最初に見えるところがいいって、この場所を選んでレーンの描いた絵を飾るようになったんだ」
「おとうさまが……」
「そうだよ。『一日の始まりにレーンの絵を見たら何でも頑張れる』っていうのが父上の口癖になったくらいに、父上はレーンの描いた絵がお気に入りだったからね」
一枚一枚、無造作に貼られた絵を目で追ってみた。
結構な数で、その全てを自分が描いたという記憶はない。
ただ、不思議と懐かしいと思うことはあった。
それは、この絵のタッチだ。
ここにある絵のどれもこれもが、確かに私の、前世での私の描きかたに酷似している。
大人だったあの頃よりはずっとずっと稚拙で未熟。
でも、小学生の低学年くらいの頃に描いていた絵が、今目の前で見ている絵とほぼ同等だと言えるくらいによく似ているのだ。
────……ああ
────そういう、こと……
何が『そういうこと』なのか、自分でもさっぱり分からない。
ただ、この時の私は、確かに何かを掴んでいたのだと思う。
そう思える何かが、心の中に生まれていたんだと思った。