不届きメイドの不可解な様子(エルナ視点)
フローレンの専属侍女の一人、エルナ視点のお話です。
前々回の食堂のお話でわざと派手に転けた方の侍女です……(^^ゞ
~不届きメイドの不可解な様子~
夜も遅いこの時間、オンディール公爵家のとある一室は不自然なほどの静寂に支配されております。
決してこの部屋が無人だから……というわけではございません。
ちゃんと室内に人の存在はあるのです。
にも関わらず、不自然極まりない静寂が部屋を支配しているのでございます。
……申し遅れました。
私の名はエルナ・ネイファード。
ネイファード伯爵家の三女として生まれましたが、今この場におきましては伯爵家は何の関係もございません。
ここオンディール公爵家に仕えるようになって早二年、今はフローレンお嬢様付きの侍女として日々務めを果たしている次第でございます。
ですから、今の私はエルナ・ネイファードではなく、ただの一介の侍女エルナなのです。
さて。
本日、遅い夕食の席にて一つの騒ぎが起こりました。
いえ、起こりました……というのは少し違いますね。
正しくは、お食事の前にちょっとした謀をして、故意に騒ぎを起こさせた、ですね。
それも全ては私がお仕えする小さなお嬢様、フローレン様の身を守るため。
ですが、事態は想定していた通りの、最悪に近い形となって現れてしまいました。
できればほんの少しの被害も出さずに解決したかったのですが、お嬢様の頑固なまでの生真面目な性格が仇となり、それが最悪に近い形へと事態を運んでしまったのです。
この時ばかりはロイアス坊ちゃまの甘言に誘惑されてくれたら良かったのに……と、思わずにはいられませんでしたが、その反面、私の食育の成果がきちんと現れているのだという成長の証を目の当たりにできた瞬間でもあったので、喜んでいいのか、それともがっかりした方がいいのか、少しばかり考えさせられてしまったのも事実だったりします。
状況が状況でなければ、間違いなく喜んでいいことであったのは確かです。
今はその騒ぎの大元凶とも言うべき人物、レミアを拘束してこの部屋へと連れてきて実に30分ほど経過したといったところでしょうか。
ちょっとした談話室様のこの部屋には、小さめのテーブルとそれを囲むように小さなソファーが設置されており、そのうちの一つに奥様───フレイヤ様がかけられていて、そのすぐ側に私が控えて立っている状態です。
奥様の向かい側のソファーには件のレミアが、男性使用人に抑えられる形で座らされています。
この部屋へと連れてこられてかれこれ30分、レミアは未だずっとこの状態のままで沈黙を守っている、といった感じです。
正直……私は、あの場でレミアがもっと暴れてくれることを期待しておりました。
ロイアス坊ちゃまが絡んだ時点で、必要以上に騒ぎ、そして取り乱した上で大暴れしてくれたらどんなに良かったことかと。
実際はそうはいかず、多少うるさかったとはいえ大騒ぎというには至らず、また暴れることもなかったためにレミアを取り押さえるタイミングというものがなかなか掴めなかったのです。
分かりやすいそれらの行動をレミアが取ってくれていれば、私も力技で押さえつけることができたものを、そこまでに至らなかったということはレミアもまた思っていたよりは愚かではなかった、ということなのでしょう。
それ故に、お嬢様だけに留まらず、ロイアス坊ちゃままでもが警戒していた苦味調味料を混入したスープを口に入れることになってしまったのです。
その時のロイアス坊ちゃまの『下げてくれ』という言葉と、それとなく装った奥様からの指示がなければ、直接的に私がレミアを取り押さえるための理由は存在しませんでした。
最終的にレミアを取り押さえることができたとはいえ、何とも残念な結果に終わってしまった感は否めません。
やはり『誰にも』『何の被害もなく』平和的に解決できることこそが最善のやり方なのでしょうから。
未だ顔面蒼白状態で沈黙しているレミアを無感情のまま眺めながらも、頭の中ではつい先ほどまで関わっていた騒ぎに関する一人反省会を繰り返しております。
『ああすればよかった』
『こうすればよかった』
そういった後悔点というものは事が済んだ後になっていくらでも現れてくるものです。
人生とはままならないことの連続であるという確固たる証とも言えるでしょう。
「……そろそろ落ち着いてきたかしら、レミア?」
そんな中、静かに言い放たれた奥様の言葉に、私はサッと思考を脳内一人反省会から現実である目の前の事象へと切り替えました。
同時に目に入ったのは、奥様の言葉を聞いて震え上がるようにビクリと肩を跳ねさせた、過剰なまでの怯えを見せるレミアの姿です。
急におとなしくなったことといい、どうもレミアの様子が不可解に思えてなりません。
食堂での騒ぎの最中、私に飛びかかってきた時の様子とはまるで逆。
奥様が騒ぎに介入した瞬間に顔色を悪くしたことは明白ですが、その時以上に今は意気消沈しているといった具合の弱りようなのです。
「そう怯える必要はないわ。今ここであなたに厳罰を与えるというわけではないのだから」
静かに淡々と紡がれる奥様の言葉は真意なのでしょう。
落ち着いて受け止めることができてさえいれば、今の奥様の言葉が真実であるということはすぐに分かります。
現に奥様は怒りの感情を言葉に乗せているわけでもなく、また、先ほど食堂で見せていた目だけ笑っていない静かな怒りを乗せた笑みを浮かべているわけでもないからです。
笑顔こそありませんが、普段と変わらないおっとりとした態度でレミアと向き合っている状態です。
「顔をお上げなさいな、レミア」
再び告げられた言葉に、レミアは恐る恐るといった体で顔を上げました。
相変わらず顔色は悪いまま。
そして僅かにではありますが、強く握り締めた手が震えているようにも見えます。
「今まで報告に上がってきていたことも含め、あなたがロイアスとフローレンにしてきたことは、簡単に目を瞑るなどできないことだわ」
やはり静かに紡がれる奥様の言葉に、レミアはしばらくの時間をかけて、消え入りそうな声でようやく『…………はい』と一言だけ、返事という形で声を発しました。
「公爵家の者に危害を加えてタダで済むはずなどないことくらい分かっているでしょうに。それなのに、なぜあのような真似をしたのかしら」
それは咎めるというよりは、単純に疑問で仕方がない、とでも言いたげな口調でした。
その証拠に奥様は、一見すると少女のような表情と仕草で頬に軽く手を当てつつ首を傾げたのです。
そんな奥様の様子に、レミアは底知れない恐怖を感じたのか大きく肩を震わせたようでした。
「そんなにわたくしの娘が邪魔だった?」
「……ッ!」
「この世界からいなくなってしまえばいいと。消えてしまえと願うくらいに憎かった?」
「め、滅相もございません!!!」
暗に『殺すこと』を匂わせた奥様の言葉を耳にしたことで、このまま沈黙していることが危険であることをレミアは悟ったようでした。
先ほどの消え入りそうな声とは打って変わって、今度は悲痛な声で奥様の言葉を否定したのです。
それは、今にも泣き出す一歩手前の情けない声にも聞こえました。
「……でも。邪魔だったのよね? わたくしの娘、フローレンの存在が」
「それ、は……」
「あの子がロイアスの側にいることがそんなに気に入らなかったの?」
「……………………」
「けれど、あの子たちは兄妹ですもの。互いが互いに側にいることはちっとも不自然ではないし、寧ろそれが当然とも言えるわ」
何度も繰り返すようで恐縮ですが、静かに続く奥様の言葉には、決して怒りの感情などは乗っておりません。
ただただ穏やかに、普段と変わらぬおっとりとした口調で思うことを言葉にしているだけです。
ですが。
レミアにはそれが恐ろしく感じるのでしょうか。
膝の上でぎゅっと手を握り締め、相変わらず蒼白い顔で奥様を覗うように見つめたまま、再び言葉を失ったようでした。
「目的は一体何? フローレンを排除すること? ロイアスに取り入ること? それともその両方? そしてそれは誰かの指示? それともあなた自身の意思かしら?」
次から次へと連ねられていく奥様からの問いかけにレミアの顔が段々と下がっていきました。
このまま奥様の顔を見つめていくことが怖くて仕方がないのでしょう。
どんなに今の奥様に怒りの感情が見えなかったとしても、問いかけられている立場にあるレミアにはそれが分かっていないようですから、普段通り穏やかな奥様が余計に恐ろしく見えているのかもしれません。
「それ、は……」
俯きながら再び発せられた声は、最初の頃と同じで消え入りそうなそれでした。
「お嬢様が……邪魔で……」
何をどう言っていいのか分からずといった感じなのか、言おうとしては躊躇い、口を開こうとしては閉ざし、時々何かを深く考えるかのように頭を抱えながら、それでもレミアは奥様の問いかけに答えなければと必死なようでした。
こちら側が求めている問いに対する答えを一つ得るまでの間は『とにかく長い』の一言に尽きます。
それでも奥様はレミアを急かせることはなく、辛抱強く答えを待っているようでした。
レミア自身の口から語られる真実を。
「フローレンの存在自体が邪魔だった?」
「…………いいえ」
「では、何かの目的を遂行するためには、フローレンがいると都合が悪かった。その目的がロイアスだった。そういうことでいいのかしら」
「は、い……」
「何を目的にロイアスに近づこうとしたのかはこの際はいいわ。大体の予想はついているもの。それで?」
言いながら奥様が取り出したのは、今日の騒ぎの要因となった件の紛失していたはずの調味料の小瓶。
「なぜこのようなものをフローレンの料理に混入したのか教えてくれる? 今日だけではないわよね? 昨夜のフローレンの様子から察するに、昨日の夕食にも今日と同じようにこれを混入させたことに間違いはないのでしょう?」
軽く小瓶を振りながら訊ねる奥様に、やはりレミアは消え入りそうな声で、絞り出すように『はい……』と返事をしました。
それから、途切れ途切れではありましたが、レミアは己の仕出かしたこと、合わせてその動機を語り始めたのです。
要約すると、決してお嬢様を排除しようと考えてこの苦味調味料を料理に混入したわけではないこと。
お腹を壊して暫くの間だけでも寝込んでくれれば、それだけロイアス坊ちゃまに近づく自分の邪魔をされずに済むと考えたこと。
最初はきつい言葉で跳ね除けられたらそれでよかった。
けれどもそれだけでは効果がいまいち望めなくて、段々と力尽くで引き剥がすという実力行使へと手段を変えざるを得なかったということ。
それほどまでに、お嬢様は幼いながらも気丈であったということなのでしょう。
さすがに力尽くの実力行使の前では為す術もなく、それらを繰り返されるうちに段々と恐怖を植え付けられたお嬢様からは笑顔が消えてしまいました。
更には感情のコントロールがままならなくなり、行き場を失くした感情を持て余し癇癪を起こすようになりました。
ちょうどその頃だったと思います。
私がメリダさんに次いでフローレンお嬢様の専属侍女の任を承ったのは。
「目的はあくまでもロイアスだけだったということね?」
「はい、その通りです……」
「フローレンが邪魔をしなければ、フローレンに危害を加えることは決してしなかった。それは間違いないのね?」
「はい……」
懇々と詰めていって、最終的には『ロイアス坊ちゃまに取り入ること』が目的だったとレミアは白状しました。
けれど。
どうにも腑に落ちないのです。
目的が、ではなく、その手段と言いますか、行動と言いますか。
正直に言ってしまいますとお粗末すぎるのです、何もかもが。
実際に下位貴族が己の娘を使って高位貴族の子息に取り入り関係を持とうとすることは決して珍しいことではありません。
それこそ相手を骨抜きにするために、あらゆる手練手管を用いて接触するのです。
今回のケースですと、ロイアス坊ちゃまはまだ成人前ですので手持ちのカードは限られてくるでしょうが、それでも怪しまれずに取り入る術はあると言えばあるのです。
ですが、レミアの場合はやることなすこと全てが裏目に出ていると言いますか、警戒されて逆に『近づけるな』という指示がロイアス坊ちゃまご自身から出されたほどでした。
本気でロイアス坊ちゃまに取り入るつもりでいるのであれば、警戒されては本末転倒です。
だからこそ、妙だなと思ったわけです。
「……奥様。発言をお許しいただけますか」
「ええ。構わないわ、エルナ」
「それでは。私から、レミアに質問をさせていただきたく思います」
『気が済むまで質問なさい』とでも言うかのように奥様が一つ頷きました。
奥様からの了承を得たことで、私は改めてレミアと目を合わせ向き合うこととなりました。
「レミア。今回の、いえ……今までのロイアス坊ちゃまへの接触はあなた自身の意思でやったこと? それとも、誰かから『そうしろ』という指示を受けていたの?」
「……『誰か』からって、どういう意味よ」
相手が奥様から私へと変わったことで途端にレミアは攻撃的になりました。
ですが、今の発言で分かったことがあります。
あまりにも一瞬すぎですが、見事に語るに落ちた、といった感じでしょうか。
ただし、あくまでも『そう予想される』だけであり、決して確実だとは言えないのが正直なところです。
恐らくは、誰かから指示されたことではあっても、その手段までは指示されていないといったところでしょう。
それがあのお粗末すぎる結果に繋がっているのであれば充分に納得できるからです。
「あなたは事ある毎に、同僚の皆さんに向かって、声高に生家の『カナッツ子爵家』のことを主張して、自分自身に歯向かうことのないよう、牽制していたわね。恰も『カナッツ子爵のやることに文句があるのか』と言わんばかりに」
「……それが何」
「あなたのその態度が答えそのものを白状しているようなものだわ。ロイアス坊ちゃまに取り入るよう指示したのはカナッツ子爵で間違いなさそうね」
「!!」
カマをかけるつもりで、わざと断定した言い方をすると、分かりやすいほどにレミアの顔色が変わりました。
先ほどまでの蒼白なものではなく、一瞬にして熱を持ったかの如くカッと真っ赤に染まったのです。
もちろんそれは私に対する怒りからきたものでしょうが。
「カナッツ子爵からロイアス坊ちゃまに取り入るよう指示があった。けれど、そのやり方までは指示されていなかった。結果、自分自身で判断して行動するしかなかった。だから、何をやっても裏目に出てロイアス坊ちゃまから警戒されてしまったのよね。やり方を指示されてさえいれば、あんなにお粗末な結果になんてならなかったはずだもの。もっと上手く取り入ることができたはずだわ」
そう言葉を重ねていきながら、段々と己の表情が無に近づいていくのが自分でもよく分かりました。
本当に……本当に腹立たしくて仕方がないのです。
目の前にいるこの女の愚かな行動のせいで、どれだけフローレンお嬢様が傷ついたことか。
考えるだけで腸が煮えくり返ります。
その影響もあってか、声も冷たく淡々としたものへと変わっていき、とうとう私は蔑むようにこう言い放ってしまいました。
「カナッツ子爵はさぞがっかりしたことでしょうね。何度も何度も失敗ばかり繰り返して。ちっとも使えない役立たずな娘だと見放されるのも時間の問題ではないかしら」
勢いに任せて、つい余計なことまで言ってしまいました。
ですが。
私のこの余計な言葉が新たな疑惑を生み出すことになるとは、この時は一欠片も思っていませんでした。
なぜなら。
私が発したこの余計な言葉で、レミアが今までとはまるで違う怯えを見せ始めたからです。
「う、そ……」
怒りで顔を真っ赤にしながら私をきつく睨みつけていたレミアが、ふいに震えながら己を守るように小さく蹲ったのです。
震えでカチカチと歯を鳴らすような音が微かに聞こえ、その合間合間で、まるで譫言のような『う、そ……嘘よ…………』という呟きが繰り返し繰り返し吐き出されていきます。
ある意味、異常とも言える変化でした。
これは怯えるというよりも、恐慌状態に陥っているといった方が正しいのかもしれません。
突然のレミアの変化に、奥様は目を眇めつつ慎重に彼女の様子を覗っていました。
私の言葉を聞いたことでのこの変化に、奥様もまたある種の疑問を抱いたようでした。
「そんな……お父様…………」
呆然とカナッツ子爵を呼ぶその声は、助けを求めているそれとは違い、どうも『見捨てないで』と懇願しているような響きがあります。
「……褒めて、もらえるはず、だったのに…………」
その一言で、僅かに奥様の表情が険のあるものへと変わりました。
軽く眉を寄せながらも、言葉を発することはなく、ただただ黙ってレミアの様子を覗い続けています。
どちらかというと、レミアの言葉を聞き逃さないよう注意深く観察しているといったところでしょうか。
何にせよ、レミアのこの変化は見過ごせるものではありません。
「また、叱られる……」
「!」
「………………」
微かに落とされた『叱られる』の一言に、奥様の眉が一瞬だけピクリと動きました。
ですがやはり何も言わずに黙ったままです。
「比べられて、お前はダメだって、何度も何度も叱られて……私は、お姉様みたいにはできないのに……」
震え声が段々と涙声へと変化し、ついにはぐすぐすと幼子のように泣き出してしまいました。
正確には、レミアが『お姉様』と言葉にしたあたりから本格的な泣きの状態に入ったようです。
その後は只管に、何かに取り憑かれたかのように『嫌だ』『叱らないで』『ごめんなさい』『ちゃんとするから』『見捨てないで』といった感じの言葉を泣きながら延々と繰り返すだけになりました。
さすがにこんな状態のレミアからは話を聞けたものではありません。
まさか、私の言い放った余計な一言でこんなことになろうとは。
言い過ぎてしまったことを後悔しても、一度口にした言葉を取り消すことは不可能です。
暫くの間、無言でレミアの様子を覗い続けていた奥様でしたが、これ以上はもう無理だろうと深く息を吐き出しました。
「……これ以上話をさせるのはさすがに酷ね」
きつく眉を寄せ、静かにそう言い放った奥様の表情は厳しいまま。
ですがレミアを見遣るその視線は、どこか憐憫の情が込められているようにも見えました。
「暫くは自室で謹慎なさい、レミア。とてもじゃないけれど、今のあなたの状態は普通ではないわ。時間を置いて、落ち着いた頃にもう一度話を聞かせてもらうことにしましょう。一度、邸にカナッツ子爵を呼んで一緒に話を聞くほうが良さそうな気がしてきたわ」
宥めるような奥様の言葉に、レミアは泣き止むことができないままゆっくりと頷きました。
その姿は、まるで酷く叱られた子どものようなそれです。
「おとなしくしていられるわね?」
その問いかけにもレミアはゆっくりと頷きました。
ここまで憔悴しきっている様子から、もうレミアにはロイアス坊ちゃまやフローレンお嬢様に何かをするという気は起こらないでしょう。
それでも念のために、レミアの部屋の前には緩い監視が付けられることになりました。
万が一のことがあってはならないからです。
「では、レミアを部屋へと連れていってちょうだいな」
扉前に控えている護衛の一人にそう告げて、奥様はゆるりと立ち上がりました。
そのままレミアへと近づき、蹲った状態のレミアに奥様自らが手を差し出し、立ち上がる手助けをしています。
「落ち着いた頃に、改めてお話をしましょう。今抱えているもの全てを含め、真実をあなたの口から聞かせてもらえると信じているわ」
そう言って未だ泣き止むことのないレミアの背中をそっと撫で、奥様は護衛の一人へレミアを預けると、そのままレミアを自室へ連れていくよう再度告げて二人に退室を促しました。
二人が部屋から出ていき、扉が閉められたことでこの部屋には奥様と私、それから途中までレミアを抑えていた男性使用人───厨房のシェフの一人です───の三人だけになりました。
今まで一言も声を出すことなく空気に徹していた男性使用人は、二人が出ていったことで疲れたように大きな溜息を吐き出しました。
「なんだか自分、聞いてはいけないことを聞いてしまった気がしてなりません。その……本当に自分がいてよかったんでしょうか……?」
恐る恐るといった体でそう問いかけてきた男性使用人に、奥様は困ったような苦笑を向けて一言『不可抗力よ』とだけ言いました。
途中でレミアが暴れた時のことを考えて控えてもらっていただけのはずが、まさかこのような遣り取りを見る羽目になるとは思いもしなかったのでしょう。
それは奥様も同じでしょうし、私もまた同じです。
ですから『不可抗力』だという奥様の言葉は強ち間違いではありません。
完全な予想外の事態だったと言えます。
「けれどこのことは他言無用でお願いね?」
「もちろんですッ! 口が裂けても言えません!」
『貴族様のお家の事情なんて……』とアワアワしながら男性使用人は苦笑する奥様に正直に告げ、これ以上はもう居心地が悪いとばかりに厨房の仕事が気になるということを理由に退室していきました。
遠ざかっていく背中から滲み出る疲労が、何とも言えない哀愁を漂わせているようにも見えて、本当に申し訳ないことをしてしまったと思いました。
全ては私の余計な一言が招いた事態です。
謝っても今更なのですが。
「……それにしても」
……と、奥様と私の二人だけになったところで奥様が思い出したように言葉を発しました。
「予想外な事態だったからこその幸い、とでも言うべきなのかしら。まさか、あなたの発言から新たな疑惑が出てくるなんて思いもしなかったわ」
真っ直ぐと私を見据えながらの奥様の言葉に、自然と背筋を伸ばし聞きの姿勢に入ります。
「失言だったとあの時は思ったのですが。結果的にはよかったということなのでしょうか」
「そうね。重要な証言をレミアから引き出したも同然だもの」
先ほどの状況を思い返し、奥様は軽く顎に手を当てながら真剣な表情で扉を見つめています。
「けれど……少し困ったことになったわね」
「……はい」
今回の加害者であるレミアが、被害者でもあったかもしれないというまさかの疑惑が先ほどの遣り取りで生まれてしまったわけですから。
「少々、厄介なことになりそうですね」
「そうね。カナッツ子爵がこちらの呼び出しに応じ、ちゃんと事情を聞かせてもらえるかどうかからだもの」
「素直に応じてくれるでしょうか」
「何とも言えないわね」
「独断で調べることはできないのでしょうか?」
「それはダメね。一貴族家の調査に立ち入るとなると、それはわたくしではなく旦那様の領分になってしまうもの。この件で旦那様に動いてもらうことが難しいわけではないけれど、お願いするとなると今回の一連の騒ぎの全容を旦那様にお話ししなければならなくなるわ。そうなると……」
「確か、この件を旦那様に知られてしまうのはロイアス坊ちゃまの本意ではない、ということでしたね?」
「その通りよ。だから、すぐに調査には入れない。カナッツ子爵を呼び出し、レミアを交えて全ての事情を聞いた上での結果どうするか……ということになるでしょうね」
その言葉から察するに、時間がかかることは既に確定のようです。
「レミアが落ち着くための期間も必要でしょうしね」
「そうね。そういう意味での謹慎よ」
咎めるためのそれではなく、落ち着かせるための時間。
突然恐慌状態に陥り、まるで幼子のように泣き出したあの時のレミアを思うと、漠然とではありますが、ある一つの背景が浮かび上がってくるのです。
「疑問に思ったのですが、奥様」
「何かしら?」
「レミアは、カナッツ子爵家で然るべき教育をきちんと受けてきたのでしょうか? 私にはまるで、中身が子どものまま身体だけが今の年齢に合わせたものに成長したように思えてなりません」
「……そうね。確かにレミアのあの様子を見るとそんな風に疑っても仕方がないわね。けれど……」
「それもカナッツ子爵に事情を聞かないと始まらない。そういうことですよね、奥様?」
「そういうことよ、エルナ。長期戦になってしまうけれど、レーンのためにも協力をお願いね?」
「もちろんですわ、奥様。何なりとお申し付けくださいませ」
深々と頭を下げ、最後までこの問題と向き合うことを奥様に誓います。
その後、随分と遅い時間になってしまったこともあり、奥様と共に奥様の私室へと移動しました。
今夜に限っては、フローレンお嬢様には私ではなくヴェーダさんが付いてくれることになっています。
そのため私は今夜は奥様付きとしてお世話をさせていただくことになります。
……さて。
奥様の私室へと戻り、早速お茶の用意を始めた私ですが。
なぜか奥様が『興味津々』といった表情であの小瓶を眺めている様子が目に入りました。
それが非常~~~~に気になって仕方ありません。
まさか……まさかとは思いますが。
『試してみたい』なんて言い出したりはなさいませんわよね、奥様……?
こう言っては何なのですが。
私の嫌な予感、というのは割とよく当たります。
今回も例に漏れず、小瓶を軽く振りつつ興味津々にそれを眺める奥様の様子に嫌な予感がしてなりません。
悪い予感を覚えてのドキドキを隠しつつ、手際よくお茶を淹れる私に奥様が声をかけてきました。
「ねえ、エルナ」
「何でございましょうか?」
「この苦味調味料、どれだけ酷い味だったのか気になるのだけれど」
……ああ、やはり。
嫌な予感とは当たるものなのですね。
毒物のように身体に害があるわけではないと分かってはいても、やはりお嬢様や坊ちゃまが苦しんだ原因となったそれを奥様が口になさるのはどうかと思うのです。
「おすすめはできませんわ、奥様。辛そうなフローレンお嬢様とロイアス坊ちゃまの様子をご覧になられていたでしょう? 相当に酷い味であることは想像に易いですわ」
「だからこそ、よ。エルナ」
「はい?」
「子の苦しみが分からずして、それを恰も分かったように慰めたり宥めたりなどできないでしょう? 苦しみは共に分かち合って和らげていくものよ。それが家族としての在り方だとわたくしは思うのよ」
……という言葉を終えたその時にはもう、奥様の手の中の小瓶の蓋は開けられ、中身が数滴お茶のカップに落とされた後でした。
これにはさすがに頭を抱えました。
ええ、隠しもせず、文字通り、奥様の目の前で頭を抱えましたとも。
……なぜなら。
既に奥様は、自ら苦味調味料を混入したお茶を、飲んでしまった後だったのですから。
そして、固まってしまわれました。
興味津々にしていた時のあの笑顔のままで。
もう、何なのでしょうね。
子煩悩で家族思いなのは分かります。
よ~く分かります。
けれど、これはないと思うのです。
親バカならぬ、バカ親と言われても仕方がないと思います。
好奇心だけでやらかしてしまった奥様を見つめ溜息を一つ。
それと同時に訪問を知らせるノック音が響きました。
当然のことながら笑顔で固まったままの奥様が反応できるはずもありません。
やむを得ず、私が入室を促すことになりました。
「母上はどうされたんだ?」
顔いっぱいに疑問を滲ませながら入ってこられたのはロイアス坊ちゃまでした。
今の奥様の状態を簡単に説明したところ、ロイアス坊ちゃまは呆れの表情を隠しもせずに盛大な溜息をつきました。
「好奇心に殺されてどうするのですか、母上……」
『猫ではないのですから……』と、再び盛大な溜息をついたロイアス坊ちゃまは、レミアの処遇が気になってそれを訊ねにいらしたようでした。
これに関しても簡単にではありますが、要点を纏めて、後日カナッツ子爵を邸に呼び出して再度レミアと共に事情を聞くことで一旦落ち着いたことをお話ししました。
少し時間がかかりそうだということを合わせて伝えると、それに関しては任せるとの返事をいただき、ロイアス坊ちゃまの用事は終了しました。
この間にも、固まってしまった奥様が解凍された様子はありません。
よほど衝撃の味だったのでしょうね。
想像に易いと分かっていらしたはずなのに。
「……全く。母上も迂闊だな。たぶんこの状態じゃ聞こえていないだろうから、エルナが代わりに伝えておいてくれないか。この酷い味を追い出すのに、数回の歯磨きでは追いつかないということを」
「かしこまりました。奥様があの状態から復活なされましたらお伝えいたします」
「ああ、そうだ。手持ちの磨き粉を全て使い切ってしまう可能性があるから、それも一緒に伝えておいてほしい」
……ということは、ロイアス坊ちゃまも手持ちの磨き粉を全て使い切っての今、ということなのでしょう。
続いた言葉に『はい、お任せを』と返事をし、部屋へ戻られるロイアス坊ちゃまを見送りながら、頭の中では備品管理を担当している者への伝言を考えておりました。
『次の仕入れの時、磨き粉を通常の倍の量を発注しておいて』
……っていう感じで大丈夫かしら?
とまぁ、そんなこんなで夜は更けて。
波乱の一日はようやく終わりを見せたのです。
色々な意味で、結構な一日でございました。
関係者の皆々様、本当に、本当にお疲れさまでした……─────
……シリアスだけでは終わらないのです ♪~(´ε` )




