僕とレーンと変化の二年 2(ロイアス視点)
~僕とレーンと変化の二年 2~
部屋へ行く旨を促され、僕は先を歩く母上の後ろ姿を無言で追いかけた。
訊きたいことは多々ある。
それと同じくらいに言いたいことも。
けれど、道中でそれをやるにはあまりにも不用心だ。
いくら母上が人払いをしているとはいえ、僕と母上の行く先全てでそれが為されているわけではない。
現に今も、僕たちが通りかかった傍から使用人と出会い、頭を下げられている。
しばらくの間ずっと無言で歩き続け、母上の部屋に辿り着いた時には膨大な時間を消費してしまったような、そんな感覚に囚われていた。
それほどまでに、無言の状態を維持することをもどかしく感じていたのだ。
「「お帰りなさいませ、奥様」」
母上の部屋の前には二人の護衛。
扉の両端にそれぞれ立っている。
「ご苦労さま。あなたたち、しばらくこの部屋から離れていてもらえるかしら? これからロイアスと大事な話があるの」
「畏まりました」
「では話が終わり次第、我らを呼び戻してください」
「ええ。それから離れるついでにお願いがあるのだけれど、食堂の仕事の手伝いに入っているメリダとエルナを至急こちらへ呼んでほしいの」
「メリダとエルナを奥様の部屋に、ですか?」
「ええ、そうよ」
「フローレンお嬢様のところへ戻らせるのではなく、奥様の部屋に呼ぶのですか?」
「ええ。ロイアスだけでなく、メリダとエルナの二人にも話を聞いてもらう必要があるのよ」
「!」
「奥様、まさか……?」
「気付いてくれたようね。察しがよくて助かるわ。だからあなたたちは頼りになるのよ」
「「勿体なきお言葉」」
深く腰を折った護衛二人に、母上はいつもと変わらない穏やかな笑みを向けた。
そしてこう言葉を続ける。
「では二人ともお願いね? もちろん今ここで話していることは他言無用よ」
「承知しております」
「では我らはこれにて下がらせていただきます」
「ええ」
護衛二人は再び母上に頭を下げ、それから命じられたままにこの場から辞するべく背を向けた。
その背に向けて、再び母上の言葉が投げかけられる。
「そうそう。大事なことがもう一つあったのだったわ」
「奥様?」
「大事なこととは?」
二人同時に振り返り、僅かに疑問を滲ませた表情で軽く首を傾げるその仕草を見たことで母上の顔からスッと笑みが消えた。
「食堂へと赴き、メリダとエルナをこちらへ呼ぶと同時に、あなたたちはそこで待機を」
静かにそう言い放ち、母上は護衛二人の反応を窺う。
軽く唇を引き結び、真剣な目で母上を見つめながら次の言葉を待っているのが僕の目でも分かった。
「やるべき事は、監視。あの者の仕事ぶりをその目で見て余すことなくわたくしに報告なさい」
「承知いたしました」
「フローレンお嬢様のためにも必ず」
そうして。
今度こそ二人の護衛はこの場を辞して去っていった。
「頼もしいことね」
ふっと小さく笑みを零しながら、母上は扉の取っ手に手をかけた。
そのまま静かに扉を開くと、僕に先に部屋へ入るよう促す。
さすがに部屋の主を差し置いて僕が先に入るわけにはいかずに戸惑っていると、『関係ない』と言わんばかりに背中を押され、無理やり押し込められる形で部屋に入れられてしまった。
これにはさすがに物申さないわけにはいかない。
「……母上」
「親子の会話に遠慮は無用よ」
「ですが」
これから僕たちがやろうとしていることは、確かに親子の会話であることに間違いはない。
けれど……
内容的には、どう考えても親子の会話というより、当主夫人と当主跡取りとしての会話なのではないかと思うのだ。
「ロイアス」
「はい」
「わたくしは、当主夫人です」
「はい」
「けれど。当主夫人であると同時に二人の子を持つ母でもある」
「……はい」
「今のわたくしは、子を持つ母親としてあなたとレーンを守りたい。そのために、あなたとは母と子として話をしたい。当主夫人としての話ならば、我がオンディールに仕える他の者がいる時にいくらでもできる。もっと言うならば、こうして親子だけで持てる時間には限りがあるの」
「母上……」
「あなたが言い出してくれたことで持つことができている貴重な時間よ。わたくしは、当主夫人としてではなく、子を持つ母として、あなたと向き合いじっくりと話したいわ。分かってくれるかしら?」
そう言って、母上は微笑んだ。
いつも以上に穏やかに、そして柔らかく。
そんな母上の笑んだ顔に見入ったのとほぼ同時に、僕は広げられた腕に気付けば抱き締められていた。
「母上……?」
抱き締められたその事実に戸惑った。
そうされるべきなのは、僕ではなくレーンだと思っていたから。
「時々報告に上がってきていたとはいえ……何も言わずによく耐えてきたわね、ロイアス」
その言葉と同時に、抱き締めてくる母上の腕に力が込められたのが分かった。
「本当に、あなたたちときたら……!」
抑えようにも悲痛な思いが滲み出るのは止められなかったのだろう。
抱き締めてくる母上の腕の力がますます強くなる。
「兄妹揃って口を噤んで、何も話してくれないのですもの……! ガルドやリーシェ、それからマリエラ。メリダからも、エルナからも。確実と言うには今一つ足りない報告を上げられる度に、どれだけわたくしが心配していたかちゃんと分かっていて? その度に、すぐにでもあなたちの元へと飛んでいって、洗い浚い全てを吐かせてしまおうと何度考えたことか……」
「……母上」
心の底から心配していると分かるほどに強く込められた腕の力に、最早抗う気持ちなど微塵も起きなかった。
この上ないほどに母上を心配させているというその事実が申し訳なくて。
それでも謝ることはできなくて。
ただただ、されるがままの状態で、僕は母上の言葉を聞いていることしかできない。
「こういうところばかり二人よく似て。本当に変なところばかり似た仲良しさんなんだから……」
「……知られたくなかったんです」
「レーンに、でしょう?」
「…………はい」
「分かってはいたのよ、何となく。おそらくだけれど、レーンもあなたと全く同じ気持ちでいたのでしょうね。ロイアスに知られたくないという思いから何も言わなかった。あなたがレーンに知られたくなかったと考えたように」
「………………」
そうかもしれない。
僕に知られたくないという一心で、レーンもまた誰にも言わずに黙っていたのかもしれない。
そう、最初の頃こそは。
……だが。
あの幼い小さな身体でずっと耐え続けるには無理がある。
どんなに知られたくないと思っていても、言わなければ耐えられないことは多々あったはずだ。
そして、それを正直に告げようと思ったこともまた同じくらいに。
だから僕は疑っている。
言いたくても言えない状態にされていたのでは、ということを。
それは、恐怖による精神的支配。
『このことを誰かに話そうものなら、自分がどんなに恐ろしい目に遭うか分からない』
幼い子どもに、簡単にそう思わせてしまうような抑圧をかけた。
手法なんて、ただ一つ。
痛めつければいい。
何かをする毎に痛みを与える。
あの女は躾の一環だとかいうふざけたことを言っていた。
レーンのことを、我儘だとか聞き分けがないだとか言って、更には何度も僕の側から『邪魔をするな』とレーンを引き剥がした。
そしてその後、同じ日の間にレーンが僕の側に寄ってくることはなかった。
もしその間に、レーンが身体的に痛めつけられていたとしたら……?
例えば、僕の邪魔をするなという理由で一度目。
痛めつけられることから逃げようとして捕まり二度目。
その後は僕の側に近寄れば同じことをすると脅された……が、妥当か。
そして、されたことを誰かに漏らせば『これ以上に酷いことをしてやる』とでも立て続けに言われた可能性もある。
これは想像の域に過ぎないが、強ち間違いでもないと僕は思っている。
段々とレーンが僕に近付くことがなくなり、離れたところから顔色を窺うように見ていたことを考えると、間違いだとは到底思えなかった。
『物事は常に最悪を想定して考え、それから行動に移しなさい』
いつか聞かされた父上の言葉を今頃になって思い出す。
────最悪を想定する前に、最悪の事態は起きてしまっていたようです、父上……
そこまで思い至ることができなかった自分を本当に不甲斐ないと思う。
『まさか……』と思い至ったのがつい先ほどだ。
まさか、雇い主たる当主の娘にそのようなことをする使用人などいないだろう。
ましてや幼子を傷つけるなど……と。
どこかでそう疑いながらも、違うと、そんなはずはないだろうと思いたかった自分がいたのかもしれない。
そんな希望を抱くことこそが、その甘さが、命取りになるという危険性を大いに孕んでいたというのに。
一度でも疑ったそれを『そうでなければいい』と思う心が最悪の事態を招いた。
レーンが傷ついたのは、他でもない僕のせいだ。
精神的な苦痛は味わったものの、まだ耐えていられると思える程度のものだったのならば、少しでもその余裕をレーンへと向けてあげられればよかった。
僕が受けていた以上のものに、レーンはずっと耐えていたのだろうから。
幼いあの小さな身体で、いっぱいいっぱいに抱え込んで、限界になるまで抑え込んでは、堪えきれずに泣き叫んだことも多々あった。
それでも、レーンは話してはくれなかった。
つい先ほど、初めてレーンの油彩画の件を知った時。
『何でも僕に話してくれていたのに……?』と訊いたのは嘘だ。
レーンが本当にそうしてくれていたのは、二年前のあの時が最後だからだ。
昨夜レーンが食堂で倒れて頭を打ってから。
一部記憶喪失らしいという話を聞かされて、僕が真っ先に感じたのは『今度は何を失ってしまうのか』という恐怖だった。
漠然とした、けれど、決して受け入れたくなどない大きな恐怖心に囚われてしまった。
レーンから笑顔が失われ。
年相応の子どもらしさも失われ。
そして今度は記憶さえも失ってしまうのか、と。
生まれてきてからずっと重ねて続けてきた日々の思い出までをも失ってしまうのか、と。
純粋に、喪失への恐怖を覚えたのだ、僕は。
咎められるのも構わず、僕はレーンの元へと走った。
少しでも早く、レーンの無事を確かめたくて。
それから、どうか僕との日々を忘れていないことを切に願って。
目覚めて僕と顔を合わせた瞬間のレーンの第一声は『ロイアスにいさま……?』だった。
複雑だった。
僕のことを忘れているわけではない。
ちゃんと僕のことを『兄』だと認識している。
けれど……今までのように『ロイ兄さま』と呼んでもらえないことに酷く落胆したのも事実だった。
存在を忘れられていないことに対する安堵と。
今まで重ねてきた兄妹としての時間を忘れられてしまっていることへの落胆。
その二つが絡み合うように入り交じることで感じた複雑な思いだった。
正直、泣きたくなった。
失うことへの恐怖を覚え、失わずに済んだことへ安堵を覚えた瞬間に、違うものを失ったのだと思い知らされた、その残酷な現実に。
けれど。
レーンの身を思うのならば、忘れてしまった方がある意味幸せなのかもしれないとも思えてきた。
精神的に追い詰められたことも。
身体的に痛めつけられていたかもしれないことも。
この幼く小さな身体で抱えるにはあまりにも残酷すぎる。
忘れてしまったのなら、その方がレーンにとってはずっといい。
僕の痛みなんて、レーンの痛みに比べれば擦り傷みたいなものだ。
……心は、それ以上に痛んだけれど。
失ってしまったものはどうしようもない。
全てが消え失せてしまったわけではないのだから、取り戻せる分はこれから少しずつでも取り戻していけばいい。
そう思うことにして、僕はレーンに今まで通りの呼び方を強要した。
戸惑うレーンに、念を押すように険しい表情でじっと見てしまったのはある意味やりすぎだったとは思う。
それでも、レーンが今まで通りに僕のことを呼んでくれると分かってホッとした。
嬉しかったくせに、うまく笑うことができなくて歪んだ顔を見せてしまったことだけが唯一の心残りだけど。
そして、その日の午後は全ての予定をキャンセルしてレーンの側にいることに決めた。
突然こうすることに申し訳ないという思いはもちろんあったが、それ以上に、担当する先生が僕の思いを汲んでくれたのだ。
その先生自身もレーンのことをとても心配していて、更には、レーンの状態が気になって勉強どころではないだろうと。
そう言って、今日の分は次回ペースを上げて取り戻すことで免除してもらったのだ。
それから僕は、空いた午後の時間を全てレーンのために使い、先ほどまでずっと一緒にいた。
そこで気付いたことがいくつかある。
言うまでもなく、レーンの変化について、だ。
どういうわけか、レーンは酷く自分自身を卑下する。
自分のことを『ものすごく悪い子』だと思っている節があった。
ことある毎に出てくる言葉は『ごめんなさい』。
特に悪いことをしているわけでもないのに、ほぼ反射的に『ごめんなさい』という言葉が出てくるのだ。
言葉にまでしなくても、目でそう訴えるような部分もあった。
それから『いい子になりたい』と言っては酷くしょんぼりとした顔を見せる。
落ち込むといった方がいいかもしれない。
その前提に『僕に嫌われている』という思い込みがあったと気付いた時には正直頭が痛くなった。
直接そう言われたわけではなかったけれど、レーンの目を見ればそれは一目瞭然だった。
『ごめんなさい』以外にも『嫌いにならないで』という思いがありありと見て取れたのだから。
正直それは要らぬ心配というやつだ。
僕がレーンを嫌うなんてことは有り得ないというのに。
これが潜在的に残った、あの女から浴びせられ続けた『邪魔をするな』の言葉の影響なのか思うと腸が煮えくり返るような思いだった。
悪い変化がある一方で、いい変化ももちろんあった。
それはレーンが笑うようになったことだ。
二年もの間失われていたものが戻ってきた、と言ってもいいかもしれない。
そして、戻ってきたのは笑顔だけではなく、年相応にくるくるとよく変わる表情変化もだ。
興味を持ったことに対し、それを追究していく姿勢も何ら変わりはなかった。
それが僕のやることに対して見せた姿勢だったのだから嬉しくないはずなどなかった。
請われるままに、見せた。
教えた。
危ないこともしたし、逆に危ないことをさせてしまったりもしたけれど。
それでも笑顔で『すごい、すごい』と言われてしまえば、簡単にやめるわけにはいかないし、やめることでレーンに残念な顔をさせたくもなかった。
封印魔術の応用と称して、おもちゃ箱を『ミミック』とかいう魔物か生きものかよく分からないものに変えられた時はさすがに仰天させられた。
それを顔に出すことはなかったけれど、ここで好きにさせていたら後々もっと大変なことをレーンは仕出かすかもしれない。
何せレーンは好奇心が服を着て歩いているような存在だから。
だから、これに関してだけはダメ出しをさせてもらった。
危ないことからは徹底的に遠ざけたい。
でも、楽しいことならたくさん与えてあげる。
だけど、アレに関してだけは本当にゴメン。
簡単に『いいよ』と頷くわけにはいかないんだ。
思いは、願いは……たった一つ。
ただただレーンを喜ばせたい。
それでレーンが笑ってくれるなら。
いくらでも見せてあげるし、教えてあげる。
そんな気持ちで午後からの時間を共有した。
久々に充実した時間を満喫できたと思う。
それほどまでに僕の心は荒んでいたのかと、今更ながらに気付いた自分自身に呆れた。
あの頃とは何一つ変わらない、天真爛漫な満面の笑みがレーンの顔に浮かぶ度、心の底からよかったと思える自分がいた。
頭を強く打つという痛い目には遭ってしまったけれど、それが切っ掛けであの頃のレーンが戻ってきたのならと。
本当はある意味でよくないけれど、別の意味ではよかったと思えた。
そして、あの頃のレーンが戻ってきたことで強く思ったことがある。
それはこれまでの二年のことを全て忘れてほしいということだった。
既に奥深く染み付いてしまった部分はもうどうしようもない。
そこに関しては、僕が常に寄り添うことで徹底的に守り抜き、時間をかけてゆっくりと心の傷を癒しながらその呪縛から解き放っていけばいいと。
けれど。
やっぱり現実はそううまくはいかないもので。
忘れてほしいと願った瞬間、それは打ち砕かれた。
ずっと忘れてくれていればよかったのに。
なのに、なぜ……
『わたしのえを、カンヴァスごとだいなしにした』
『はじめてちょうせんしたゆさいがだったのに、それをだいなしにした』
『しゅうふくもきかないくらいに!』
『ボロボロにした!』
怒りを込めた眼差しとともに、強く言い放たれた言葉を聞いた瞬間。
驚くほど冷静にこう思えた自分がいた。
────……ああ、そうだな……
……って。
自分でも分かっていたはずなのに。
自分でも無理だと思っていたそれを。
なぜ僕は。
レーンに望んでしまったのだろう……
忘れられるわけがないんだ。
自分がされた嫌なことに関する記憶は、どんなに時を重ねても決して薄れることなどない。
簡単に忘れ去れることならば、最初から傷ついたりなどしない。
悲しんだりはしない。
僕がそうであるように。
一生忘れるものかと。
許せるものかと。
そう強く思ったように。
レーンの傷もまた、忘れ、拭い去れるものではなかったということに、どうして僕は気付けずにいたのか。
けれど……
一つ、驚いたことがある。
驚いたと同時にこう思った。
────僕の知らない間に、随分と強くなったね、レーン……
言いたいことを言えずに我慢し続けていたレーンはもういない。
離れたところから顔色を窺うようにじっと見つめていたレーンも、もういない。
僕の腕の中でしっかりと背を伸ばし、堂々とした態度と強い眼差しで、今まで自分を怯えさせていた相手に立ち向かうなんてね。
周りは皆驚いていたよ。
僕だって、あんなに幼い身体のどこに、そんな風に威圧する力を隠していたのかと不思議に思ったほどだ。
母上も言っていたように、幼さゆえの舌っ足らずな言い回しのせいか、迫力はイマイチだったけれど。
それでも、あの時のレーンを思えば、もう理不尽な脅しに怯えたり屈したりすることもなくなるんだろうなという、一種の安心感が生まれた。
だからといって油断はできない。
母上からの命令により、渋々引き下がって持ち場へ向かう際、あの女がレーンを睨みつけていったことを僕は見逃してはいない。
ほぼ確実に、あの女はレーンに何かを仕掛けてくる。
だからこそ、敢えて僕はレーンからのおねだりを断り、母上との話し合いの時間を設けてもらった。
それもまだ、始まってさえもいない。
僕のことを思い、心配してくれている母上の腕を自分から解くのは少し心苦しいものがあるが、いつまでもずっとこのままでいるわけにもいかない。
それに。
今この腕を必要としているのは、僕の方ではなくレーンの方だ。
そう思えたからこそ、僕は心苦しく思いながらも、ゆっくりと母上の腕を解きにかかった。
「母上」
「ロイアス?」
「ありがとうございます。だいぶ、落ち着きました」
決してそれは嘘ではない。
不安定に揺れ動いていた感情の波が漸く安定したのが自分でも分かったから、それだけは絶対に間違いではないと言い切れる。
「もう、大丈夫です。それよりも母上」
「何かしら?」
「僕はもう大丈夫なので、今度はレーンを。今母上の腕を必要としているのは、僕ではなくレーンの方でしょうから」
そう告げると、母上は穏やかに笑んで、それからもう一度僕をギュッと抱き締めた。
「本当にあなたは優しい子ね、ロイアス。大丈夫よ。レーンのことも思い切り抱き締めて存分に甘やかすつもりでいるから。でも今それをやるのは、わたくしではなくロンベルト。きっと今頃、レーンはロンベルトの腕の中で存分に甘やかされていると思うわ。わたくしの役目は、その後、ということになるわね」
「父上が?」
「ええ、そうよ」
そのことを聞いた瞬間、僕の頭の中をある疑問が過った。
父上は、僕らに関するこの件を、一体どこまでご存知なのだろうか……と。
ちなみに、レーンが昨夜頭を打ったことは既に知っている。
母上がハッキリとそう言って、心配しているということも聞かされたのだから。
────この件に関して父上が何もご存知ないというのは、逆に不自然ではないだろうか……?
そう思い当たった瞬間、ザァ……っと全身から血の気が引いた気がした。
反射的に強ばってしまった顔を取り繕う余裕もなかった。
「ロイアス?」
「……父上は」
「ん?」
「父上は、今回の僕たちの件を、ご存知なのですか? ……いえ、ご存知、なのですよね? 一体、どこからどこまでを、把握、されているのですか……?」
レーンの時と同じだ。
知られたくなかったのはレーンにだけじゃない。
父上にだってそうだ。
「……旦那さまへの報告は上げてはいないわ」
「!」
「家の者と使用人との間に関わる事柄は、全てわたくしの責任の下で処理するようになっているの。言うなれば、そこはわたくしの領分であり、そこに旦那さまが立ち入ることはしない。ただ……」
「……ただ?」
「報告が行かずとも、薄々感づいていることでしょうね。わたくしが確証を持てないでいるから、旦那さまもまた動かない、と言ったところかしら」
「そう、ですか……」
それを聞いて安心した。
けれどそれも束の間。
次の母上の言葉で、再び僕は驚愕させられることになる。
「……もし今回の件が最初から確実なものだと分かっていたとしたら。間違いなく、わたくしが動く前に旦那さまは動いていたことでしょうね。あなたがあの者に対して言い放っていたこと以上の重い罰を、カナッツ子爵家に対して言い渡していたはずよ」
静かにそう告げた母上の目に、再び仄暗い冷たい光が宿った。
抑揚の少ない調子で淡々と告げられるそれを聞いていると、なぜか身体の奥から怖気が走り、落ち着かなくなる。
「あの人の生き方は、オンディールの在り方そのもの。誰もが言うわ。あの人は、誰よりもオンディールの当主に相応しいと」
「母上……?」
「誰よりも穏やかでありながら、その実、誰よりも冷酷無比。それが、四大公爵の内の一つを戴く水のオンディール。他の誰よりもそれを体現しているのがあの人。そんな人が、大切な後継者たる子らを手にかけられて、生半可な罰を下すとでも思って?」
ゾッとするほどの冷たい眼差しで告げられる言葉を聞いたことで、僕は何も言えなくなってしまった。
オンディールの在り方自体は、僕もよく知っていた。
当主として、そうでなければならないと。
また、そうあるべきだとずっと教えられてきたから。
けれど。
僕は知らなかった。
父上が、誰よりも穏やかであることは知っていた。
僕もレーンも、いつだって、父上のその部分しか見てこなかったから。
そんな父上が、オンディールの在り方を体現していると言わしめるほどの、穏やかさと対極にある冷酷無比な部分を持っているだなんて。
俄には信じられなかった。
まさか、あの穏やかな父上が……と、逆に疑う気持ちすらある。
「恐れなさい、ロイアス」
「!? 母上……?」
「失うことを恐れなさい。そして知りなさい。喪失の痛みを知ることで、人は誰よりも強くなる」
「!」
「そんなもの、誰も知りたくはないわよね? でもね、ロイアス? 失う悲しみを知ることで、人は誰よりも優しくなれるし、そして、穏やかにもなれる。それと同時に……どこまでも冷酷にだってなれるの。あなたの父が、今、そうであるようにね……」
「母上……」
世界は、様々な多くの事象で溢れている。
その数多くある事象の全てを、知る必要があるのか、否か。
それは、その物事が独自に持つ中身次第だとずっと思ってきた。
失うことの怖さを知れというのなら。
僕はもう既にそれを知っている。
知りたくもなかったそれを、もう既に知ってしまった。
けれど、それとは違う何かを突き付けられているような気がするのはなぜなのか。
母上の言わんとしていることが、今一つ掴みかねる。
一体母上は、僕に何を望んでいる?
何を、僕に言おうとしている……?
────分からない……
「……あの! 母上……」
言われた言葉の真意を問おうと顔を上げたその瞬間。
優しく肩を押さえられ、微笑まれた。
決して不自然ではなかったけれど、明らかに作ったと分かる笑みを向けられたことで、僕は意図せず言いかけた言葉を飲み込むことになってしまった。
「この話はここまで。また後で時間が取れた時にゆっくりとお話ししましょうか」
すぐにでも頷くべきだと分かっていたけれど、結局それは叶わなかった。
部屋の扉をノックする音と、それに応える母上の声に、完全にタイミングを見失ってしまったから。
本当に。
また後で話をする時間は取れるのだろうか。
来訪者を迎えるべく、僕に背を向けた母上の姿を目で追いながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
きちんとした返事ができなかったせいなのか、心の中にモヤモヤとした何かが居座っているのが分かる。
それはまるで、僕が抱いた疑問が形を持って這い出てこようとしているかのようにも感じられて。
少し気持ち悪くもあり、そしてどこか胸騒ぎを覚えさせる。
同時に、僕の中にある複雑な思いを、更に増長させようとしているようでもあった。
ざわざわと……何かが揺れている……
静かな湖面に石を一つ投げ込んだ時に現れる波紋のように。
落ち着いたはずの僕の心が、再び漣を立てようとしていた……─────




