僕とレーンと変化の二年 1(ロイアス視点)
※一部「胸糞悪く」なる表現あり
『あのね! にいさま、あのね!』
『ホントはコレ、だれにもナイショなの!』
『……でもね? ロイにいさまにだけこっそりおしえてあげる』
『あのね! わたしね?』
『あおいおめめで、くろいかみの、くろのまほうつかいのおとこのこにあったの!』
嬉しそうに。
それから。
とても楽しそうに。
大きく身振り手振りを混じえながらそう話してくれたのは、今から約二年前のこと。
向けられた満面の笑顔に『そうなんだ、よかったね』と僕が年相応の笑顔で応えたのも、今から約二年前のこと。
気が付けば、いつでも笑顔を絶やさない可愛い可愛い妹から、その笑顔が消えていた。
それに強く引き摺られていくように、僕からもまた、年相応の表情という表情が、消えていった……─────
~僕とレーンと変化の二年 1~
「……全ての原因は、あの女か」
叱られてもちっともめげず。
満面の笑顔で大きく手を振りながらヴェーダに連れられてこの場を去っていくレーンを見送り。
二人の姿が完全に見えなくなったところで、僕は吐き捨てるようにそう零した。
隠そうにもそう簡単には隠せそうにない怒りの感情が滲むその言葉に我ながら呆れた。
既に使用人たちはそれぞれの持ち場へと戻り、更には母上が人払いを命じたことで、今この場にいるのは僕と母上の二人だけだ。
それをいいことに、やり場のない怒りをぶつけるかの如く、更に言葉は溢れ出す。
「まさか二年もの間ずっと気付かずにいたなんて。己の不甲斐なさに心底嫌気が差す」
ほぼ無意識のうちに『ギリッ……!』と強く噛み締めた唇は意図もあっさりと傷を負い、同時に口の中に血の味が滲み広がっていった。
「ロイアス」
そんな僕の様子に、気遣わしげな視線を向けた母上に対しても、今は真っ直ぐと目を向けられない。
心の中を後ろめたさがいっぱいに占めるこの状態では、さすがに無理だと思った。
「……申し訳ありません、母上」
軽く指で口元を拭ってから深く息をつき、やっとのことで謝罪の言葉を口にした。
本当にこれだけでいっぱいいっぱいだった。
属性魔法のことで苦しんできた以上に、今のこの状態が苦しくて苦しくて。
そして……何よりも痛い。
自分が気付けなかったことで、レーンを傷つけ苦しめたその時間が、二年もの間ずっと続いていたというその事実。
今更ながらに思い知らされたその事実が、胸に重く大きな楔を打ち込んだ。
それゆえに、痛みは尚もじくじくと身体中に浸透していく。
「……気付けなかったのはこの母も同じ。ロイアスが謝ることではないのよ? あなたは何も悪くはない。寧ろ、あなただってレーンと同じ被害者でしょう?」
「! なぜそれを……!?」
「どんなにあなたから口止めされようと、報告は上がってくるものよ。時期当主となる大事な身ですもの。例えそれが些末なことであったとしても、あなたにとって害を成すと判断されれば、あなたの命に背いてでも報告を上げてくる。それが真の主従関係というものでしょう?」
「……ガルド、ですか」
「うふふ。どうかしらね」
母上のその反応からしてガルドで間違いはなさそうだ。
僕の側仕えでもある、優秀な執事。
控えめで出しゃばらず、僕の命には絶対に逆らわないような真面目な男だとずっと思っていたのに。
まさか僕の命に背いてしっかりと母上にまでその報告を上げていたとは。
僕は彼という人物をもう一度一から見直す必要がありそうだ。
「他にも色々よ。それだけ心配事が大きかったのでしょうね、周りの目から見ても。事が事だけに、一歩間違えばとんでもないことになっていたのだから」
軽く眉を寄せた母上の険しい表情を見たことで、僕もまた眉間にきつく皺を寄せる。
込み上げてくるのは二年もの間、日々ずっと付き纏ってきたあの不快感だ。
思い出すと同時に、ほぼ反射的に言葉を吐き出していた。
「……全く以て不愉快だ。反吐が出る」
「ロイアス。言葉遣い」
「申し訳ありません。ですが今だけは聞かなかったことにしてください。さすがにレーンがいる場で言うわけにはいかず、今までずっと抑えていたんです。……これでも」
「できればもう少しだけ抑えていてほしかったわね。ロイアスからそんな言葉を聞くことになるなんて母は悲しいわ」
「……その割には笑っているようですが?」
「気のせいよ」
「……ではそういうことにしておきます」
「うふふ。そうしてちょうだい」
相変わらず掴みどころのない人だ、と思う。
それが母上だ。
フレイヤ・リマ・オンディール。
我がオンディール公爵家の直系にして、当主夫人。
ノーヴァ公爵家の当主夫人と並び社交界の華と称され、花と春、そして豊穣を司る女神を模してフローラの君とも呼ばれている。
それと同時に、穏やかでありながらも、敵に回った者には一切の慈悲を見せない冷酷さを身の内に秘めている。
名は体を表すとはよく言うが、まさに女神フレイヤの司る一部分である残忍な一面を母上はその身に持ち合わせているのだ。
実際にその無慈悲な一面は、滅多なことでは表に出ることはないが。
それが今回ばかりは勝手が違ったらしい。
ほんの僅かだったとはいえ、その片鱗を覗かせたのだ。
どうやら今回の件は、よほど母上の腹に据えかねたようだ。
「娘だけでなく、息子にまで手を出すとは如何なる理由があろうと許されることではないわね。この後、更にどんな報告が上がってくることやら。逆に笑ってしまいそうよ」
そう言いながらも笑っているのは口元だけだ。
目は仄暗い冷酷な光を湛え、一点だけをじっと見据えている。
「ねえ、ロイアス」
「はい」
「この件、わたくしが預かってもよろしくて?」
「いいも悪いも、使用人の雇用に関することは全て母上の管轄ではないですか。僕が口出しする余地など元よりないも同然でしょう」
「……そう。異論がないのなら別にいいの。ただ、後になって『関わらせてほしかった』なんて言っても遅いわよ?」
「言いませんよ」
それ以前に関わりたくなどない、あの女に関係することになど一切。
正式な専属に決まったわけでもないのに、常に僕の近くに張り付いていただけの目障りな存在。
与えられた仕事をきちんとこなすわけでもなく、唯一集中してやっていたことと言えば、僕に媚を売るように散々纏わり付いたことくらいだ。
それも不必要な、過度な接触を混じえながら、だ。
何か呼び止めるようなことがあるならば、一言断りを入れつつ声をかければいいだけのことだ。
他の側仕えの者たちが皆そうしているように。
それがなぜかあの女だけは、声をかけるだけでは飽き足らず、幾度となく僕に触れてきた。
軽く腕を引く───これも立派な不敬だが───だけならまだマシな方だった。
それ以上にあの女は、こともあろうに呼び止めることを口実に僕を背後から抱き締めてきたのだ。
まさか使用人からそのような真似をされるなどと考えもしなかった僕は、この時完全に油断していた。
『離せ』と声を発するよりも先に、媚びるように甘えた声で名前を呼ばれた瞬間、身体中に走ったものは嫌悪からくる一種の寒気だった。
間違いなく、この女は僕に対して『自分が女であること』を強く刻み込もうとしていたのだろう。
僕がまだ子どもであることをいいことに、一種の刷り込みのように、一番身近にいる家族以外の異性が自分であると意識させるために。
何も知らない子どもと高を括って籠絡させるつもりでいたのだろうが、生憎僕は何も分からない無知な子どもなどではない。
僕に限らず、四大公爵家に生まれた子息は誰もがそうだろう。
王家に次ぐ最高権力に肖ろうと、己の娘を送り込んで虜にさせ、あわよくば……と考える野心家は少なくはない。
そういった事態を引き起こさないためにも、高位貴族の子息は、かなり早い段階で簡単に女色に惑わされたりすることがないよう徹底的な教育を施される。
ここにカナッツ子爵の思惑が絡んでいるかどうかまでは僕の知るところではないが、少なくとも十近くも年の離れた子どもを相手に何を考えているのか。
全く以て正気の沙汰ではない。
実際のところ、やろうと思えば力尽くで女を引き剥がすことは可能だった。
また、そうするつもりでもいた。
だが、この時はまだ冷静に『相手を傷つけるようなやり方は懸命だとはいえない』ということを考える余裕があったために、実力行使に至ることはなかった。
だからといって、これは簡単に許していいことでもない。
今回のこれは最初だったこともあり、今後二度とこのような真似はさせないつもりで、瞬時に女を振り払うと同時に『下がれ』と命じた。
……が。
当然のことながら、この女がそれを素直に聞き入れることはなかった。
子ども特有の『照れからくるもの』だと思い込み、実際にそう口にしては、更に纏わり付こうとしてくる始末。
この時は、すぐに駆けつけてきた僕専属の執事であるガルドと、正式な専属侍女であるリーシェとマリエラの二人によって、この女は引き剥がされ、一応の事態の収拾は図れたのだが。
当然この時のことは、即刻母上へと報告が上がったことだろう。
母上が『僕も被害者である』と口にしたことの切っ掛けとも言える部分だ。
これは確か、今から一年ほど前のことだ。
この時から、やたらとこの女は僕の専属侍女になることに異常なほどの執着を見せ始めていた。
結果は言わずもがな……だが。
おそらくだが、この女が僕の専属侍女になりたがった理由の一つは、今現在レーンの専属侍女を務めているエルナの存在によるものだろうと思われる。
あの女が行儀見習いとして我がオンディール公爵家にやってきたのと同時期に、エルナもまたオンディール公爵家に仕えるべくやってきた。
行儀見習いとしてではなく、オンディール公爵家の正式な使用人として仕えるために。
当然ながら、見習いなどではないエルナの仕事に対する姿勢というものは、あの女とは比べるべくもなかった。
同じ時期に邸へと入ったにも関わらず、エルナは僅か半年足らずでレーンの専属侍女となった。
それほどにエルナは優秀だった。
加えて、仕事に励みながら、しっかりとレーンに向き合い、着実にレーンとの信頼関係を築いていった。
この時のレーンからはもう既に、年相応の天真爛漫な笑顔は消えていて。
言いたいこともうまく口に出せず、ただただ周りの顔色を窺いながら、行き場を失った感情を昇華できずに癇癪を起こして泣くことが多くなっていた。
そんな状態のレーンに対し、エルナは本当に、実に根気よく、時間をかけてずっと不安定だったレーンと向き合ってくれたのだ。
実績と為人、そして仕事に対する姿勢への評価から、エルナがレーンの専属の侍女となるのは当然のことと言えた。
全てがエルナの使用人としての総合的な評価での抜擢であったというのに、あの愚か者にはそれが理解できていないようだった。
同じ時期に邸に入ったエルナがレーンの専属侍女になったのだから、当然自分もそうなるべきだと主張し始めた。
『エルナが半年でお嬢様の専属侍女になったのなら、同じ時期に入った私もそれくらいやって当然でしょう? 私をロイアス様の専属侍女にしてよ!』
子爵家出身という立場を振り翳し、声高にそれを強く主張されたことで、貴族階級を持たない平民出身の使用人たちの大半は、権力を前に黙らされることになってしまった。
公爵家に仕える者の身の安全は、仕えているその間中ずっと公爵家が預り守ることになっている。
……とはいえ、さすがに面と向かってそう言われてしまっては、彼らもどうすることもできなかったのかもしれない。
権力を持たない者は、無条件でその権力に怯える。
逆らうと明日はどうなるか分からないのだから。
それから先も、あの愚か者はことある事に生家である子爵家の権力を振り翳し、己の言い分を押し通そうとした。
困り果てた使用人たちは身動きが取れず、いつの間にか僕の側には寄れなくなってしまっていた。
気が付けば、他の使用人が遠ざかると同時に、あの女がどんどん僕に近寄ってくるというとんでもない構図ができあがっていたのだ。
これはさすがに黙っていられる状態ではなかったため、僕は即座に家令のカイエンを呼びつけ、この状態を至急改善するよう言い放った。
しかし、例の如く女は納得せず、譲歩に譲歩を重ねた結果『一定の期間を設け、その間の仕事ぶりと適性を見て、改めて専属にするか否かを判断する』ということで様子見をすることとなった。
やっても無駄な様子見という名のお試し期間というわけだ。
女からの接触は変わらず続き、僕が辟易とした日々を過ごすことになったのは言うまでもない。
自分でも分かるほどに、僕の顔から表情という表情が消えていった。
その原因の一つがレーンとのことだ。
『レーンが笑わなくなった』
この事実が、僕の胸にどれほどの痛みを齎したのか。
計ろうにも計り知れないその痛みが、僕の顔から年相応の表情を奪った。
レーンが笑わなくなればなるほどに、僕からもどんどん表情が消え失せていく。
あれはいつのことだったか。
ガルドが思わず、といった体でこう零したことがあったな。
『この頃のロイアス坊っちゃまは、あまり笑わなくなってしまわれましたね……』
……と。
『…………レーンがああなのに、僕だけがどう笑えと?』
即座にそう返してから気付いた。
酷く冷めた返事だったと。
いや、言葉を発した瞬間にはもう気付いていた、と言った方が正しいのかもしれない。
これは完全なる八つ当たりだ、と。
その自覚も十分すぎるくらいにあった。
分かっていながらも止められなかった。
頭の中でそう考えるくらいの余裕はあっても、意識はどこか冷静にはなれなかった。
『過ぎた発言でした。お許しを』
『……いや。僕の方こそすまなかった。今のは完全なる八つ当たりだ』
『とんでもございません』
『気にしないでくれ。どう考えても非は僕の方にある。しかし……』
『ロイアス坊っちゃま?』
その原因に、あの女が関係していたことに、僕は気付けなかった。
いや、僕に分からないよう、あの女はレーンに手を出していたのだ。
どのような手段を取っていたかまでは分からない。
だが、今までレーンがそれを一度も口にすることがなかったという事実を鑑みると、レーンが『何も言えない』状態にされていたと考えるのが自然だ。
一体レーンは、あの時、いや……この二年もの間、あの女に何をされ続けてきたのか。
先ほどの騒動の中、怒りに任せて吐き出されたレーンの言葉から、レーンが初めて描き始めたという油彩画をボロボロにされたということは分かった。
けど……それだけだ。
他に何をされたのか。
どんな言葉を浴びせられたのか。
思えば僕は殆どと言っていいほど何も知らない。
……いや。
何も、というわけでもないか。
そう何度も目にしたわけではなかったが、やたらとレーンがあの女に邪険に扱われていたことがあった。
それは決まって、レーンの方から僕に構ってもらいにきた時だった。
特に何を言うでもなく無言でぎゅっと抱きついてきたレーンを、僕は好きなようにさせていた。
その時僕が何をしていようと、決して邪魔をするわけでもなく、不必要に話しかけてくるわけでもなく。
ただただ『側にいたい』と言わんばかりにぎゅうぎゅうと抱きついていただけだったから、レーンの気が済むまでそうさせていただけにすぎない。
僕自身、勉強をはじめとした『やるべきこと』が増えたこともあり、レーンにあまり構ってあげられなくなったことを心苦しく思っていたから、せめてもの罪滅ぼしに……という気持ちでそうしていたのだ。
気が済めば、レーンは何も言わずとも離れていく。
無理に引き離すことも、咎める必要もなかったというのに。
なのにあの女は、レーンが僕の側に寄るなり強引に引き剥がした。
言うことは決まって『ロイアス様の邪魔をするな』だ。
一体、僕がいつレーンを『邪魔だ』と言った?
寧ろ邪魔なのはお前の方だ。
レーンと一緒にいられる貴重な時間を『邪魔』されているのは僕の方だろう?
こういった状態が繰り返される度にレーンの笑顔は消え。
そして僕の表情もまた、レーンの感情に引き摺られるように消えていく。
気が付けば、レーンの方から僕に近づくことはなくなり、少し離れたところから僕の顔色を窺うようにじっと見ていることが増えていった。
構ってほしいということが目に見えて分かり、今度は僕の方からレーンへと歩み寄る。
時間の許す限り、レーンをこれでもかと構い倒した。
それでも、今までと比べたら、その時間は圧倒的に足りなかった。
全ての勉強を放り出してでも一緒にいてやりたい。
そう思って、ぽろりとその本音を零したこともある。
けれど、僕のその言葉を聞いたレーンは悲しそうな顔をして緩く首を振った。
『ロイにいさまのじゃまをしたくない』
泣きそうな顔で、そう小さく零した。
じっと耳を澄ませていなければ気付けないほどの小さな声で、確かにレーンは僕にそう言った。
今だからこそ分かる。
あの女に散々言われ続けた『邪魔をするな』という言葉が刷り込まれてしまっていたからだ、と。
そしてある日気が付いた。
レーンから僕の方にやってこようと、僕からレーンに寄っていこうと。
そのどちらであっても、あの女が『邪魔をするな』とレーンを引き剥がすという事実に。
そして、引き剥がした後は、その日レーンが僕の側に近寄れないようどこかへと連れていく。
これに関しては何度もきつく咎め続けたが一向に改善されることはなかった。
このことを引き合いに出し、この女が僕の専属になるなど言語道断、側仕えなど有り得ないと『不適性』であることを強く訴え、僕から遠ざけるように言いつけた。
すぐにでもそれを望んだが、事はそううまくは運ばない。
ようやく完全にあの女を僕から遠ざけることが叶ったのが、昨日の朝のことだ。
あまりにも時間がかかりすぎだろう。
詳しい使用人事情に関しては、僕の預かり知らないことだが、ここでもあの女は生家であるカナッツ子爵家を盾に色々とやったであろうことが推測される。
そうでなければ、ここまで無駄に多くの時間を費やすことはなかったはずだ。
その間も、あの女は僕に近付くことをやめようとはしなかった。
あの女がいる限り、どんな状況であってもレーンは邪魔者扱いだ。
無理やり引き剥がされ、そして無理やりどこかへと引き摺るように連れていく。
どんなに咎めたところでそれは変わらない。
そのため、僕はレーンとの接触を極力避けるしか方法がなくなっていた。
あの女をレーンに近付けさせないことで、少しでもレーンを守ることが叶うのなら……と。
その僕の思いが、全くの無駄だったことを知ったのは、つい先ほど。
レーンの油彩画を壊されたと聞いた、あの瞬間だ。
あの女は、僕が見ていないところでもレーンに手を出していた。
まさか……とは思う。
だが、考えられないことではない。
力尽くで僕からレーンを引き剥がし、無理やり引き摺るようにどこかへと連れていったあの様子から想像するに、身体的な痛みを与えられていてもおかしくはなかったのではないか……と。
そのことに思い当たった瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
強く抱いた、怒りを中心とした負の感情が全身を支配し、同時に身体の内を巡る魔力が一瞬にして増幅したことに気が付く。
抑えようにも抑えられない。
それだけの膨大な魔力が僕の身体から溢れ出そうになった。
感情さえもうまくコントロールできないこの状態で、膨れ上がった魔力を制御するなど不可能だ。
それも散々己の魔力に振り回された後ということもあって、制御するよりも早く、魔力が解放を求めて暴走するのは目に見えていた。
────まずい、このままでは……!
無駄な足掻きだと思いつつ、強く拳を握り込んだ。
その瞬間、聞こえたのはパチンという小さく控えめな音。
「落ち着きなさいな、ロイアス」
「母上……?」
告げられた静かな一言に、反射的に母上を見上げていた。
目に入ったのは、合わせた両の掌を軽く口元に当てながら穏やかな微笑を浮かべる母上の顔。
母上のその表情……というより、合わせられた両の手を見たことで、何をされたのか一瞬にして理解した。
「……あ」
────今のは、魔法排除、か……?
思わず目を見開き、母上を凝視していた。
魔法排除とは、文字通り、全ての魔法効果を無効化させてしまう補助魔法だ。
行使する者の実力と同等以下の威力の魔法は、たとえどんな魔法であっても例外なく無効化される。
その属性は……不明。
謎の多い魔法の一つでもある。
話に聞いたことはあったが、実際に目にするのはこれが初めてだ。
今まさに、僕の目の前で、暴走寸前だった魔力は無効化されてしまった。
掌を軽く打ち合わせるという、何気ない小さな動作一つで。
────まさか……母上がこの魔法の使い手だったとは……
純粋に驚いたと同時に、向けられていた穏やかな笑みを見たことで、僕も幾分か冷静さを取り戻せた気がした。
身体の内であれだけ暴れていた魔力が、今では凪いだ海のようにゆったりと落ち着いているのが分かる。
「あなたの怒りも尤もだけれど。ここで負の感情に振り回されて魔力を暴走させてしまってはダメ。人払いをした意味がなくなってしまうわ。そうでしょう?」
「……はい。浅はかでした。申し訳ありません」
「うふふ。わたくしの力で止められてよかったわ。まだまだ母はあなたには負けていないようよ?」
くすくす笑いながらそう言う母上だったが。
『自分には大した実力はない』とでも言いたげな物言いには引っ掛かりを覚える。
あれだけの魔法を披露しておきながら、実力がないなどという事実はまず有り得ない。
「……さて、と。今の魔力の気配を感じて誰かがここに来てしまう前にわたくしの部屋へ行きましょうか。込み入った話は、そこで存分に、ね……?」
「あ、はい」
表情は崩さないまま、にこやかにそう告げて先に歩き出した母上の後を慌てて追いかけた。
そうだ。
まだ、何も話していないのだ。
これからやること。
……いや、すべきこと。
始まるのは、相談という名の作戦会議だ。
期限は、食事を開始するその直前まで。
間に合うのならば、それでいい。
ただ……
限られた短い時間の中で、話さなければいけないこと、そして、訊かなければいけないことが多すぎる。
────それでも、やるしかないんだ……
レーンを守るために。
それから。
もう二度と、レーンを傷つけないために……─────




