幼心の深い傷痕
※陰険な描写あり
~幼心の深い傷痕~
────ヤバい!
────ヤバい、ヤバい、ヤバい~……!!
兄さまが激おこだ!
視線が冷たい!
凍てつく!
あの『ムダにイイ笑顔』はまだまだ序の口だった。
無表情で静かに怒ってる今のこの状態の方がもっともっと怖い~~~!!
嫌な汗が背中をつう~っと伝い落ちていった。
今の私の顔は、間違いなく軽く青ざめて口元が引き攣っているはずだ。
怖いからこれ以上兄さまを見ていたくないのに、あまりにも怖すぎて逆に目が離せない。
っていうか、目を逸らしたその瞬間に、冷たい視線を浴びて全身が凍りつきそうな気がする。
それくらい、今の兄さまはヤバい。
────……マジで怖いよ、ロイアス兄さま!!
兄さまが一言でも声を発したら全てが壊れる。
そんな空気が肌にビシバシと伝わってくるのだ。
抱き締められているその腕から、密着しているその身体から、これでもかってくらいにビシバシと!
いけない。
このまま兄さまに何かを言わせちゃいけない。
一刻も早く私が何かを言わなければ。
言ってこの不届きなメイドを黙らせなければ、よくない方向に事態が転がっていくような気がしてならない。
迷うヒマなんか、最初からなかったも同然だ。
さっさとこのカードを切って、黙らせて、事態を収拾するべきだったんだ。
例えそれが、使用人たちにとって恐ろしくとんでもない脅しになったとしても、だ。
ぎゅっと拳を握り締め、なんとか兄さまから視線を外し、私が不届きなメイドにトドメを刺すべく口を開こうとしたその時だった。
鋭く険しい声が件のメイドを叱責したのは。
「お黙りなさい、レミアッ!」
「!」
高すぎず、低すぎず。
けれども凛とした響きのその声は、侍女長のものだった。
発した声と同じく険しい表情でレミアと呼ばれた件のメイドを見据えたまま、侍女長は淡々とこう告げた。
「先ほどからフローレンお嬢様に対して働いた無礼の数々。あなたは使用人である自分の立場を分かっているのですか。分を弁えなさい!」
ギロリと鋭い眼光で見咎められ、メイドは竦み上がった。
まぁ、怖いんだろうな。
そしてざまぁみろ。
侍女長のヴェーダはうちの使用人たちの中でもとりわけ一番厳しいとされる侍女の教育係の頂点に立つ人なんだから。
仕える主人の娘に対してこんな態度を取り続ける部下を見て黙ってるわけがない。
とりあえず、兄さまの怒りが発動する前にヴェーダが切り込んできてくれて助かった。
あのまま兄さまが怒ってたとしたら、きっとんでもないことになっていただろうから。
「前々からあなたはそうです。一体フローレンお嬢様があなたに何をしたというのです? 我々使用人の邪魔をしているとあなたは言いましたが、フローレンお嬢様は我々の仕事の邪魔をしたことなど一度たりとてありませんよ」
「そんなの嘘です! 私がロイアス様に付いていた時だって、散々ロイアス様に纏わりついて邪魔をしました!」
「それはあなたの邪魔をしたのではなく、ロイアス坊っちゃまに構ってもらいたくて側にいただけのことでしょう」
「それだけじゃないです! 掃除し終わった廊下に絵の具で汚れた水をぶちまけて、掃除をし直す羽目にもなったんです!」
「それはお嬢様が掃除し終わったばかりの廊下で滑って転ばれてしまったからでしょう。あなたの磨き方が甘かったがゆえに起きた事故ではないですか」
────あ~……
────……そういやあったわ、そんなこと
ロイアス兄さまに構ってほしくてくっついてた時に、何度も何度もコイツに邪険にされて追い払われたっけ。
廊下に絵の具で汚れた水をぶちまけたのも、ヴェーダが言うようにツルツルしすぎてて滑って転んでだったもんな。
あの時は私、転んだ上に絵の具水を頭から被ったから、寧ろ被害が大きかったのは掃除のやり直しをする羽目になったコイツじゃなくて、全身濡れて汚れてお風呂と着替えが必要になった私の方だったんだけど。
「他の人が仕事をしている最中にも、あれやこれやと言いつけては邪魔してたじゃないですか」
「必要だから話しかけていただけです。それ以前に、お嬢様に話しかけられた際にお相手を務めることも我々使用人の仕事のうちです。それと今の言いぶりでは、話しかけられたのはあなたではなく別の者。仮に話しかけられたことを邪魔したものと考えたとして、あなたには何の影響も不利益も出ていないわね。それでもまだフローレンお嬢様を責めますか」
「~~~~ッ!」
そろそろ言い訳も尽きたってところかな。
さすが侍女長ヴェーダ。
使用人の事情は使用人が一番分かっているってことですか。
ヴェーダの言い分は全て正論。
反論のしようがないよね。
何も間違ったことは言ってないし、全て事実なんだから。
『ほわぁ~……』と、感心しつつヴェーダとメイドの遣り取りを見ているうちに、いつの間にか兄さまの怒気が少しだけ緩んでいることに気が付いた。
……でも、ほんのちょっとだけな?
ヴェーダの介入でちょっとは抑えてくれたけど、まだまだ怒りは続行してますよ、ってことですね。
おっけー、分かりました。
下手に刺激しないよう気を付けますよ、私は。
こう見えてもちゃんと空気の読める子ですからね。
あえて読まないこともあるけど、ここはちゃんと空気を読むのであります。
ちらっと兄さまを見遣り、すぐさま視線を二人の方へと戻す。
この調子で場が収まるなら、あのカードはもう切る必要はないな。
既に自分の非を認めて謝ってくれた他の使用人の皆を巻き添えにはしたくないし。
そんなことを考えながら、この件はヴェーダに預かってもらおうと思ったまさにその時、あれだけ正論を突き付けられて黙ったはずのメイド───レミアから思いっきり睨みつけられた。
……おいおい、またかよ。
アンタも懲りないね。
思わず『はぁ~~……』と盛大な溜息が漏れた。
言いたいことは分かっている。
私に直接やられたことがあるとでも言うつもりなんだろう。
まあ実際それは間違ってはいないからな。
ただし、仕掛けたのは私からではない。
あくまでも仕掛けてきたのはコイツの方だ。
それに対する子どもなりの報復だったのだ。
もちろんそれは前世の記憶が戻る前の、正真正銘の幼いフローレンがその時できた精一杯の仕返しだった。
どちらの被害が大きかったか、なんて言うまでもないだろう。
当然被害が大きかったのはフローレンの方だ。
替えが利くか、利かないか。
その二つで考えてみれば、どれだけの被害が私にあったのかくらい、おおよそは予想ができるというものだ。
────さあ
────言いたいなら言えばいい
────私にやられたんだってことを今ここにいる皆の前で言ってしまえ
────それを言うことで、窮地に立たされるのが自分だって分かっているかどうかは知らないけどね
決して目を逸らすことなく、私は無言でレミアを見据えた。
相変わらずの悪意を込めた視線で私を睨みつけたままのレミアは勝ち誇ったように鼻で笑った。
────あ、コイツやっぱ分かってないわ……
どうしようもないバカなんだということがよ~く分かった。
コイツはすくいようのないザルバカだってね。
あ、救うと掬うにかけたダジャレです。
くっそつまらなくてゴメンね?
「私、直接お嬢様にやられて被害こうむってますが。仕事の最中に突然やってきて、絵の具でドロドロに汚れた水を背中に浴びせられましたけど。これって、立派に邪魔ですよね? いきなり背後から汚水を浴びせられた私の気持ち、理解してくれますよね? あなたたちだってその場に一緒にいたんだから、お嬢様が私に汚水を浴びせたところ、見てたでしょう?」
自信満々に侍女長ヴェーダにそう告げ、それから当時一緒に仕事をしていたと思われる二人のメイドへと視線を向けたレミアは尚も勝ち誇ったように『ふふん』と笑った。
視線を向けられた二人のメイドのうちの一人は、先ほど私との間に入ってくれたその人だった。
「ねえ、あなたたちからも証言してよ? お嬢様が私に汚水を浴びせて仕事の邪魔をしたって。あの後私は汚れた身体を清めるために仕事どころじゃなかったんだから」
嘘つけ。
それを理由にして残りの仕事全部サボったんだろうが。
オマエがサボった分の穴をこの二人が埋めてくれてたんだよ。
被害者ヅラして自分は悪くないアピールとかホント厚顔無恥な女だな。
「あなたたち。レミアの言うことは本当なの?」
「……確かにあの時、お嬢様はレミアに絵の具で汚れた水を浴びせました。ですが……あれは決してお嬢様からやったことではありません」
「なッ……!? 何言ってるのよ、あなた!? お嬢様の方からいきなり仕掛けてきたじゃない!!」
「いいえ。いきなりではありませんでした。あの時のお嬢様は、泣くのを必死に堪えながら、悔しそうな表情でレミアに水をかけたんです。文句を言いたくても言えない、そんな表情にも見えました。きっとレミアに何かされて、それが辛くて、やるせなくて。あれは、お嬢様なりにその時にできた精一杯の抵抗だったのだと私は思います」
「……そう。やはりお嬢様からというのは嘘なのね」
「わ……私が何をしたと言うのよ!? 私はいきなり汚水を浴びせられたのよ!? 何もしていないわ! あなたたちもデタラメなこと言わないでよッ!!」
あの時のことを私が誰にも言っていないのをいいことに、何がなんでも自分は悪くないと言い張るつもりなんだだろうか。
確かに私は、あの時のことは誰にも言っていない。
『誰に』されたか、ということに関してだけは。
つまりは『いつ』『どこで』『何を』『どんな風に』されたのかは言ってあるのだ。
私の専属の侍女であるメリダとエルナには。
その二人から侍女長であるヴェーダに報告が行っているかまでは私には分からない。
だけど。
あくまでも自分が被害者だと言い張るコイツの言い分はここで潰しておくべきだろうと漠然と思った。
だからかな?
今まで黙っておいたことを『皆の前で暴露しちゃってもいいよね?』なんて、簡単にスイッチが切り替わっちゃったのは。
「なにをしたかって? ききたいならおしえてあげようか」
腸が煮えくり返るようなあの時の悔しさと怒りを思い出し、私はレミアを鋭く睨みつけた。
くっそう。
前髪を切る前のおデコ全開スタイルだったら、キツめのツリ目が際立ってかなりの目ヂカラで迫力が出ただろうに。
今の前髪下ろしたスタイルじゃそれもちょっとどころか結構なマイルドだわ。
……つまりは。
どんなにキツく睨んでもあんまり怖くないってこと。
ちくせう!
「わたしのえを、カンヴァスごとだいなしにした。はじめてちょうせんしたゆさいがだったのに、それをだいなしにした。しゅうふくもきかないくらいに! ボロボロにした!」
あれは今でも許せない。
三ヶ月後のロイアス兄さまの誕生日にプレゼントしてビックリさせようと思って挑戦した油彩画だった。
それを、カンヴァスごと、修復不可能なまでにボロボロにされたのだ。
不慮の事故を装って、故意に引き倒された。
油絵具を乾かしているその最中だったそれを、掃除と称してわざと動かし、汚れが混じった水と埃の上に、絵を描いた面を下にして力任せに引き倒したのだ。
まだ完全に乾ききれていなかった絵は、汚れた水と埃に塗れ、それによって滲み出した油絵具が、混じり合った汚れと共に下層の塗りに浸食していった。
トドメとばかりに、張られた亜麻布を刃物らしき物で裂かれた形跡も何箇所かあった。
結果、元絵が分からないくらいに、制作過程の油彩画はカンヴァスごとぐちゃぐちゃになってしまったのだ。
結構な大きさがあったカンヴァスは、特別に注文して取り寄せてもらった品で、再度取り寄せるとなると時間がかかる。
おまけに初めて挑戦した油彩画だったため、新しいカンヴァスが届いて一から描き直すとしても、初心者である私の技術では急いで描き上げることは到底無理だった。
兄さまの誕生日に間に合わせることができないと知ったあの時の私の絶望はどれほどのものだったか。
怒りと。
悔しさと。
悲しさと。
様々な感情が綯い交ぜになって、半ば衝動的に起こした仕返しが、絵の具で汚れた水を憎き相手へと浴びせかけることだった。
幼いフローレンがあの時唯一できた、せめてもの精一杯の仕返しがあれだったのだ。
「にたようなものはえがけても! まったくおなじものはもうにどとえがけない! ……このよにふたつとないゆいいつのものを! おまえはこわした! だいなしにしたんだッ!!」
────ロイアス兄さまを思うフローレンの心ごとボロボロに踏み躙りやがったんだ!
最後の方はもう、ほとんど感情的だった。
誰かを思う心ごと踏み躙られた幼い傷を理解できるのは、今はフローレンと一つになった私だけだ。
感情的になったのは、他でもないフローレンのため。
誰も知らないフローレンの思いと傷ついた心を守るためだ。
あの時のことを思い出すだけで涙が滲みそうになるのを必死になって堪えた。
半ばそれは意地からだった。
コイツの、レミアの前でだけは絶対に涙なんて見せるもんかと思った。
弱みなんて、絶対に見せない。
屈してなるものか。
私を悪意の標的とするコイツにだけは、絶対に。
泣いて、弱さを晒して。
コイツが喜ぶような姿を見せるわけにはいかない。
私の大事な。
大事な、フローレンのためにも。
絶対に、弱さを見せるわけにはいかないんだ。
射抜くように私はレミアを睨んだ。
あれだけ言ったにも関わらず、レミアの強気な姿勢は変わらず、私の視線に負けじと睨み返してくる。
周りで見ていた使用人たちの顔には、信じられないと言わんばかりの驚愕の表情が浮かんでいた。
それも当たり前だろう。
絵を描くことが何より大好きで、その情熱の大半を絵へと向けていた雇い主の娘の描いた大事な絵を、自分たちの同僚が台無しにしたと、当の娘の口から聞かされたのだから。
それも事故によるものではなく、故意によるものというのだからその驚きは尚更だろう。
驚いていたのは、何も使用人だけではない。
他の誰よりも私の近くにいる、私を抱き上げた状態でいる兄さまもだ。
「……初耳だな、そんな話は」
静かにぽつりと呟くような兄さまのその言葉を聞いて、私は俯きながらぎゅっと唇を噛み締めた。
「その日あったことや、したこと。いつだって僕に話してくれていたのに。さっきのはいつ頃の話? どうして僕に話してくれなかったの?」
身体ごと向き合うように兄さまから抱え直され、そのまま覗き込むように顔を近づけられた。
額と額がこつんと触れ合った瞬間、私と兄さまの視線が交わる。
至近距離で見た兄さまの目は、さっき見た凍てつくような冷たいものではなく、頼りなげに揺れて、それでいて、どこか痛ましくも感じられた。
それはまるで、今の私を見て傷ついてしまったかのようにも見えて。
私が兄さまにこんな顔をさせているんだと思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。
そんな兄さまを見ていられなくて、また俯く。
このまま兄さまの顔を見ていたら、間違いなく私は泣く。
それだけは嫌だったから。
溢れ出そうになる涙を堪えるために、きつくきつく唇を噛み締めた。
「レーン」
優しく名前を呼ばれても顔は上げない。
兄さまの視線から逃げるように、また俯くだけだ。
「どうして、すぐに話してくれなかったの?」
重ねて問いかけられた。
だけど私はその問いに答えることはせず、逆に『訊かないで』と訴えるように何度も首を振りながら、兄さまから隠れるように更に俯く。
ほぼ無意識のうちに、兄さまのシャツの肩部分を強く握り締めていた手は震えていた。
悔しさとか、悲しさとか。
あの時に強く感じた全ての感情がまた戻ってきた気がして。
その全てに押し潰されてしまいそうになるのを、俯き、唇を噛み締めることで必死に堪えた。
「……レーン」
何度優しく名前を呼ばれても、私は頑なに首を振っては答えることを拒絶した。
その度に、兄さまのシャツを握り締める拳の力が増していく。
これ以上はもう握れない、そこまで強く握り込んだ時には、掴んだシャツごと掌に自身の爪が食い込んでいた。
「レーン?」
……言えない。
兄さまにだけは絶対に。
絶対に、言えるもんか。
兄さまのためのものを台無しにされただなんて。
兄さまのことを思って描いていた絵をボロボロにされただなんて。
兄さまへの思いごと壊されただなんて。
絶対に兄さまには言えない。
兄さまにだけは、絶対にこのことを知られたくなかった。
だからあの時、私は訴えた。
大声で泣いて、上手く言葉にできないもどかしさに苦しみながらも、必死にメリダとエルナに訴えたのだ。
『にいさまにはいわないで!』
『にいさまにはしられたくない!』
そんな私の訴えを聞いてくれたメリダとエルナが、あの後どのような行動に出たのかは分からない。
だけど、きっと私の願う通りにしてくれていた。
今この場で私の口から出た言葉を聞くまで、兄さまはこのことを知らなかった。
それが、二人が私の思いを汲んでくれたという確固たる証だ。
絵を壊されたことは言ったけど。
でも。
その絵が兄さまのためのものだったということは、これから先もずっと兄さまには言うつもりはない。
私が傷ついたことで、兄さままでも傷つけるわけにはいかないのだ。
「……そういうことでしたか」
兄さまのシャツをぎゅっと握り締めたまま、尚も唇を噛み締めていると、ヴェーダの溜息混じりの言葉が耳に入ってきた。
「メリダとエルナの二人から報告は上がっていましたが、そういうことだったのですね」
静かに淡々と告げられたそれを聞いたことで、私は思わず俯いていた顔を上げた。
「上がっていた報告は、描きかけの油彩画を壊されたという事実のみで、それを『誰に』されたかまでは、お嬢様は必死に隠して話してはくださらなかったと。先ほどのお嬢様の言葉で、やっと詳細を知ることができました」
侍女長のヴェーダにはメリダとエルナから報告が上げられていたようだった。
なら、私から仕掛けたというコイツの主張は受け入れられないってことでいいんだよね?
この件に関しては、これ以上私が言うことは何もないよね?
ヴェーダに預けてしまってもいいんだよね?
少しだけホッとしたのか、兄さまのシャツを握り締めていた手の力が僅かに緩んだ。
食い込んでいた爪が離れたことで、じんわりとした痺れのようなものが掌全体へと広がっていく。
俯いていた顔を上げ、その手を目の前へと持っていったことで、私の様子に気付いた兄さまが私の手を優しく包み込んでくれた。
反射的に兄さまを見上げると、ふいに抱き締める腕の力を強められて、その反動で強く兄さまに凭れかかる形となってしまった。
だけど今の兄さまからは、さっきのことを追究してくる様子が見られなかったので、安心してそのまま甘えて凭れかかることにした。
そんな私たちの様子を見て、またもレミアはきつく私を睨みつけてくる。
ヴェーダに叱責されている最中であるにも関わらず、だ。
よほど私が兄さまにくっついて構われているこの状態がお気に召さないらしい。
「……いいえ。悪いのはお嬢様です。何もかもお嬢様が悪いんですよ。確かに私はお嬢様の絵をボロボロにしました。それは認めてもいいです。ただしそれは、お嬢様が私の邪魔ばかりして言うことを聞かないから。あれは躾の一環ですよ」
「……あなたという人は!」
勝気で上から目線の態度を崩さないレミアの口から出た言葉に、さすがのヴェーダも驚愕の表情を隠すことなく声を荒らげる。
一体誰が予想しただろうか。
使用人が雇い主の娘に対して、躾の一環だと称し、数々の嫌がらせを行ってきたなどと。
……そうか。
あれは躾なのか。
コイツがオンディール公爵家にやってきたのは二年ほど前。
その当時、まだ何も分からなかった幼いフローレンに対して『子どもは大人に逆らってはいけない』という気持ちを植え付けた、あの数々の行いは、オマエにとっては躾だったのか。
違うだろう。
あれは、断じて躾などではない。
今の私だからこそ分かる。
『虐待』
真っ先に浮かんだのはその二文字による嫌な単語。
年齢差による、力の差による、身体的な支配。
それから、身体的な支配から、逆らえないという恐怖を植え付けることによって新たに生まれる精神的支配。
フローレンの中に、前世の記憶が現れるまでの約二年の間、フローレンはずっとレミアから与えられるそれに支配されてきた。
なんで今になってそれを思い出した、私。
絶対に、真っ先に思い出すべきことだったのに。
────ああ、違う……
────違うよね、フローレン……
フローレンはきっと、思い出したくなかった。
できることなら、全部忘れてしまいたかったんだ。
だけど、忘れることは許されなかった。
幼い自分が、自分だけの力で自分を守るためには、決してそれは忘れちゃいけないことだったから。
誰にも言わなかったんじゃない。
誰にも言えなかったんだ。
自分の意思で黙っていたわけではなく。
恐怖に支配されて黙っているしかなかった。
口にしたら、今度は何をされてしまうか分からないから。
今まで以上の恐怖を植え付けられるかもしれなかったから。
それが怖くて、幼いフローレンは何も言えなかったんだ。
────許せない……
幼いフローレンをこんなにも痛めつけたレミアが許せない。
今になってそれを思い出した自分自身も同じくらい許せない。
……ごめん。
ごめんね、フローレン。
すぐに思い出せなくて、ごめんね……
ちゃんと決着はつけるから。
幼いフローレンが受けた分だけ、ううん、それ以上のものを、私があのメイドに返してあげるから。
もう迷うもんか。
私は、私のできることをする。
あのメイドには、然るべき罰を受けてもらう。
だから今度こそ迷わずに私はあのカードを切るよ。
他でもないフローレンのために。
怒りの感情が滲み出そうになるのをグッと堪えて、私はレミアを見据えた。
絶対にオマエを後悔させてやる。
そんな思いを込めながら、意識の全てを目の前のレミアだけに傾け、ただひたすらに、キツくキツくレミアを睨みつけた。
だから私は気付けなかった。
私を強く抱き締めてくれている兄さまもまた、レミアを睨み据えていたというその事実に。
あの凍てつくような恐ろしい眼差しが再び現れていたということに……─────




