今の私と、過去の私 2
~今の私と、過去の私 2~
「少しは、自分のことが見えたかい?」
兄さまからの優しい問いかけに、私は肯定も否定もできないまま、じっと兄さまの目を見つめた。
思い出せと言われたわけではない。
強要されているわけでもない。
ただ兄さまは、絵という存在が、私を構成するものの一つだということを教えてくれているだけ。
それだけレーンから絵は切り離せないものなのだろう。
前世の私がそうであったように。
「分からないなら、それでもいいよ」
「にいさま?」
「頭で覚えていなくても、心が、身体が覚えていることもある」
そう言って、優しく頭を撫でられる。
「ほんの一部でも覚えていれば、いずれ思い出すことがあるから。それに……」
「……それに?」
「分からないなら、知っていけばいい。知りたいと思うのなら、求めていけばいい。忘れてしまったことを取り戻したいのなら、もう一度覚えていけばいい。それだけだ」
「ロイにいさま……」
「レーンがやりたいようにやればいいんだ。誰もそれを止めないし、反対はしないから」
「わたしのやりたいように?」
「ああ、けど危ないことは止めるよ? 怪我なんて以ての外だからね」
苦笑しながらそう言って、兄さまは再び私の頭を撫でてくれた。
「さて。そろそろサロンに向かおうか。母上も待ちくたびれているかもしれないし」
「はい。おちゃとおかし、たのしみです」
「レーンの好物ばかりみたいだからね」
「はい! うれしいです!」
そうして再び兄さまに手を引かれ、今度こそサロンへと向かう。
その途中で、私は先ほど兄さまに言われたことについて、あれこれと兄さまに話しかけた。
「さっきロイにいさまにいわれたこと、おかあさまにもいわれました」
「ん?」
「わからないなら、しればいい、というあれです」
「? ああ、それ……」
「にいさまとおかあさまは、そっくりです」
「レーンも似ていると思うけど?」
「え、っと……かおのことじゃなくて、その、かんがえてることとか、いってくれることとか、ふたり、そっくりです」
「親子だからね。レーンもそのうち分かるようになる。僕や母上が言っていたことを、いつかレーンも、誰かに言う日が来るんじゃないかな」
ああ、そういうところもよく似ている。
優しく諭す、心にストンと落ちてくるような、その言葉の選び方。
私もそういう風に言える人に、いつかなれるのだろうか。
高飛車で傲慢で底意地の悪い悪役令嬢フローレンにさえならなければ。
最初から決めている、悪役令嬢にはならないと。
万人に好かれるような人になりたいなんて無茶なことだって思わない。
ただ、私は……ゲームの中のあの彼女のような……
「やさしいひとになりたいです」
「レーン?」
「なれたらいいなとおもいます」
無意識のうちに、兄さまの手をぎゅっと握り締めていたみたいで、それが不安になっていると勘違いされたのだろうか。
ふいに兄さまからも、軽くだけど手を握り返された。
「……なれるといいね」
「がんばります」
「ははっ。頑張れ、レーン」
声を出して笑った兄さまを思わず見上げた。
笑ったところを見ることは叶わないだろうと思っていた兄さまの笑顔を、見上げることでしっかりと目にした私。
年相応の幼さのある笑顔の兄さまは、やっぱりゲームのロイアスとは違って見える。
大人だからとか、子どもだからとかじゃない。
ちゃんと一人の人として生きているから、こんなにも違って見えるんだ。
ゲームのロイアスは、笑わない。
でも現実の兄さまは、表情の変化は少ないけれど、ちゃんと笑ってくれる。
できることなら、これからも笑ってほしいし、その顔を私に見せてほしい。
「がんばります」
「うん」
「ロイにいさまにわらってほしいから。わたし、がんばります」
「レーン……」
「にいさまがだいすきです」
「……ありがとう」
笑ってほしいと願ったそのすぐ直後に、それを返してもらえました。
『ありがとう』と笑ってくれたその顔は、ちょっとだけ照れているようにも見えて、そんな兄さまを見られたことに感動しています。
きっと今までのレーンは『大好き』なんて言わなかった。
だからこその、この反応なのだなと思うのです。
でも……『ありがとう』は噛んだのに、『大好き』は噛まずにすんなり言えるなんて、やっぱりレーンは変わっている。
これも意地っ張りの影響なんだろうか。
なかなかにコントロールは難しそうだ。
……とまぁ、こんな感じで兄さまと他愛のない話をしながらサロンへと向かいました。
今までうるさくして纏わりついていたレーンとは違って、おとなしく手を引かれてついていく私に、所々で兄さまが戸惑っている様子が覗えます。
でも、ウザい妹だとは思われたくないですからね。
これからは適度な距離感を持って、妹らしく可愛く甘えて構ってもらおうと思います。
その方が我儘を言って困らせるよりずっとずっといいと思うのです。
それに、ちゃんと兄さまには『大好き』だって言葉にして伝えましたからね。
もう今までのような破茶滅茶な行動なんてしなくても、レーンが兄さまを好きだという気持ちに変わりはないのだと分かってもらえたと思います。
「レーン」
「なんですか、ロイにいさま?」
「もう、絵は描かないつもり?」
「え……?」
不意にそう問われて、一瞬だけ頭の中が真っ白になりかけた。
「レーンの、絵が好きだという気持ちに変わりがないということは分かったけれど。それは見るだけで終わってしまうのかな? もう一度描いてみようとは思わない?」
「にいさま……」
忘れてしまったものを取り戻すため。
それが、その言葉に込められた意図なのかもしれない。
でも、今の私にとって、それはとてもとても大事なことのように思えた。
私の中のレーンの記憶ではない。
私の中の、前世の私の失ってしまった何か。
それを取り戻すためにも、絵に触れることは必要なことなのだと漠然と思った。
「かきたいです」
だから、何の迷いもなくそう答えた。
「えをかいて、わかることがあるなら、わたしはしりたい。だから、かきます」
「……そうか」
「はい。しりたいなら、もとめればいい。さっき、にいさまがいってくれました」
「うん、そうだね」
「しるために、えをかきます」
今の私が、どういう風にあのタッチの絵を描いてきたのか。
まずはそこを知りたい。
それから、描きながら何を思っていたのかも。
あと……絵を描くことで、前世の私のことが見えてくるかもしれない。
可能性は低いけれど、それでも知れるものなら知りたいし、思い出せるのなら思い出したかった。
絵が好きなこと、学芸員を目指していたこと、その夢半ばで人生を終えてしまったこと。
今分かっているのはそれだけだ。
それ以外のことが、私が再び絵に触れることによって見えてくるのならば、私はいくらでも絵と向き合って、たくさんたくさん描いていこうと思っている。
「れんしゅうもしたいので、スケッチブックがたくさんほしいです」
「ならそうお願いしようか」
「はい。あと……にっきちょうもほしいです」
「日記帳? レーン、日記なんて書いてたっけ?」
「たぶんかいてないです。なのでにっきはかきません」
「それなら何に日記帳を使うつもり?」
「わたしのことをかきます」
「レーンのこと?」
「はい。そのひのこと、いっぱいかいて、あとでよみかえします。わたしのことをしるために、わたしはわたしのことをかきます。ひみつのわたしメモです」
「秘密のメモ?」
「はい」
「それじゃ他の誰にも見られないようにしないといけないね」
「はい。だからかぎつきのにっきちょうがほしいです」
前世でもあったなぁ、オシャレな鍵つきの日記帳。
ちょっとしたハードカバーの本にも似ているデザインの、ずっしりと重いあれが懐かしい。
そういうのがあったら理想的だ。
なんて思いながら、鍵つきの日記帳がほしいと口にしたのだけれど……
「鍵つきの日記帳なんてないよ?」
「え……」
────ないの!?
それじゃ簡単に人に見られちゃうじゃん!
プライバシーの侵害だよ!?
どうやってプライバシーを守ればいいの!?
目を見開きながら顔色を悪くした私を見て、兄さまは苦笑した。
なんかもう結構な頻度で兄さまの苦笑顔を見てるな、私。
「また顔がすごいことになっているよ、レーン」
「だって……だって、にいさま……」
苦笑が崩れ、堪えきれないといった風に、とうとう声を出して笑い出す兄さまを私は恨めしげに睨んだ。
これは笑い事じゃないんだからね!
すんごく切実なんだから!
っていうか、無表情がデフォルトのロイアスはどこにいった!
チェンジか!?
あっさりとキャラチェンジなのか!?
「ああ、ゴメン。まるで世界の終わりが来たと言わんばかりの顔でレーンが僕を見るから」
口では『ゴメン』と言ってるけど、これ、絶対悪いと思ってないよね?
だって言いながら笑ってるもん。
だからピキっと来た。
本来の性格の意地っ張りな部分にスイッチが入ったかのように、瞬時にしてピキっと。
「だいじなことなんですッ!」
私、気付けば反論。
多少は癇癪みたいなものになっていたかもしれない。
封印するってさっき決心したばかりだというのに、なんて脆い決心なんだ。
まぁ大人だった前世の意識があったところで、今の私は所詮は幼女だからな。
反応が幼女のそれになっても別に不思議なことではない。
寧ろ周りから見たらこれが普通なのだから。
「なのにわらうなんてひどいです! ロイアスにいさまのバカ!!」
「!!」
そう叫んだ瞬間、兄さまは固まった。
さて、反応したのは一体どちらの方か。
『ロイ兄さま』と呼んでほしいと言われていたものを敢えて『ロイアス兄さま』と呼んだことに対してなのか。
それとも『バカ』の方になのか。
どっちも、ということも有り得るけれどこの際どうだっていい。
こっちはそれだけ真剣なんだ。
どうして鍵つきの日記帳に私のことを書いて秘密のメモにするのか。
それは私の前世のことについて分かっていることや新たに分かったことを事細かく書き記していくからに決まっている。
念には念を入れて、万が一見られた時の保険のために、この世界では絶対に目にすることはない日本語で書くつもりでもいる。
ひらがな、カタカナ、漢字の三種で書き記したそれらの文章は、見たことがない者の目には意味不明の暗号文にしか見えないだろう。
それでも見られないに越したことはない。
何せ、こんな幼女が意味不明な暗号文を書いているとでも知れ渡れば、また余計な心配をされかねない。
下手したら怪しげな魔術・妖術の類に手を出したとでも思われるだろう。
子ども特有の好奇心からの危険地帯突入みたいな?
とにかく、そうそうに自分以外の誰かには見せられたものじゃないシロモノなわけだから、厳重に管理しておきたいわけだ、私は。
────うぅ~……ムカつく……!
真剣だからこそ、余計に。
「にいさまのバカ! きらい!!」
立て続けにそう言って、私は繋いでいた兄さまの手を振り払うようにして離した。
さっき『大好き』と言った口で『嫌い』とは情緒不安定な子どもか、私は。
いや、合ってるか。
だって今の私、幼女だもんな。
「レーン」
来た道を一人ズンズンと戻っていく私の手を、追いかけてきた兄さまが捕まえる。
歩幅の差だな、あっという間に追いつかれたよ。
さっきの諸々のあれこれと今のこれとで更にムカッときた私は、捕まったことでまた兄さまをギッと睨んだ。
「ゴメン。レーンは真剣に言ってたのに、笑うのはよくなかったね」
そう言った兄さまの顔は今度は笑ってなかった。
だけど、普段のような無表情に近い顔をしているわけでもなかった。
僅かに眉を下げ、困っているような顔で私を見ている。
「鍵つきの日記帳はないけど、自分以外には見られないようにできる方法ならあるよ」
「ほんとう?」
「うん。あとで教えてあげる。だから……」
そこでますます困った顔になって、兄さまは続けた。
「『ロイアス兄さま』と呼ぶのはやめようか?」
「………………」
どうやら『バカ』と言われたことよりも、『ロイアス兄さま』呼びをされた方がショックだったらしい。
「……もうわらってバカにしないってやくそくしてくれるならいいですよ」
う~わ……兄相手にめっちゃ上から目線になった。
やっぱフローレンだわ、私。
「うん。約束する」
でも兄さまはそんな私の上から目線の言葉を一切気にすることなく、困った顔のまま微かに笑うという器用な表情で『約束する』と言ってくれた。
「ゴメンね、レーン」
「……しょうがないからゆるしてあげます」
「ありがとう」
「…………それと。きらいなんてうそです」
「うん、分かってる。ありがとう、レーン」
「ちゃんとだいすきですからね、ロイにいさま」
掴まれていない方の手でギュッと兄さまのシャツの袖を握り締めると、兄さまは身を屈めて私の顔をじっと見つめながら頷いた。
「うん。ちゃんと伝わってる」
そう言って私の手を離すと同時に、兄さまは私の脇下に手を差し入れ、流れるような動きで軽く私を抱き上げた。
突然高くなった視界に驚き、思わずギュッと兄さまの首元にしがみつく。
すると軽くコツンと額を合わせられ、至近距離で兄さまの瞳を覗き込む形となった。
琥珀を溶かし込んだような蜂蜜色の瞳の中に、驚いて目を丸くした私の姿が映り込んでいる。
「へんなかお」
思わずそう言って笑ってしまった。
「にいさまのめのなかのわたし、へんなかお」
額は合わせたままで、ぺたりと兄さまの頬に触れる。
無遠慮にぺたぺたと触れているのに、兄さまが私を咎める様子はない。
ただただ私の好きにさせてくれている。
なんだかんだでやっぱり兄さまもフローレンにはベタ甘だ。
「……でも。にいさまは、きれい」
お母さまに似た顔立ちの兄さまは、キレイだ。
将来は超絶イケメンな美形ですからね。
少年期の今でも十分すぎるくらいの美貌ですよ。
「こら、レーン」
「?」
「男に対して綺麗なんて言うものではないよ」
「でもきれいですよ?」
むっすりとした顔で反論を食らってしまった。
どうやら本意ではなかったらしい。
本心からの褒め言葉だったのになぁ。
ところ変わっても、いつの時代でも、男は『キレイ』という褒め言葉は嬉しくないのか。
つまんないの。
「僕相手だからまだいいけど。他所に行った時に、不用意に男相手にそういうことを言わないように。いいね、レーン?」
「……はい」
笑顔で凄まれてしまったので聞き入れることにしました。
キレイな顔立ちの兄さまに至近距離でこれをやられるとなかなかに迫力があります。
未来のイケメンの笑顔の威力パネェです。
とりあえず他所の相手云々以前に、今後兄さまに対しても『キレイ』なんて褒め言葉は使わないことに決めました。
それにしても、デフォルトだったはずの兄さまの『無表情』が今や完全に迷子ですね。
一体どこに行ってしまったんでしょうか。
いつになっても帰ってくる気がしないと思うのは、単なる私の気のせいなのでしょうか。