第五章18 女神、世界、真実、願い
真っ白な空間だ。
もう何度となく訪れた、女神との対話のための空間。
そして――ここに今、自分が呼ばれたということは。
「優勝おめでとう」
女神が、その事実を静かに告げた。
「浮かない顔ね。今から、どんな願いでも叶えられるというのに」
正に浮かない顔をしている原因そのものを口にする女神は、愉しそうに目を細めてこちらを見ていた。
「さあ。あなたは何を願うのかしら」
そして女神は、問を発する。
その答は、二つに一つ。
「親友の思いを取って、このゲームで失われた命を蘇らせる?」
ミコトに託された、世界を救う願いか。
「それとも、自分の思いを取って、彼女を――大事な大事なあの子を蘇らせる?」
自分の大切な、たった一人の少女を救う願いか。
ユウは、これが嫌だったのだ。
この選択を迫られるのがどうしても嫌で、ユウはミコトと戦った。
ミコトを消して勝っていたなら、迷いはしなかっただろう。
ミコトに消されて負けていたなら、そもそも選ぶ必要は無かった。
そうやって、自分の意志以外の何かに決めてもらいたかったのだ。
そうすれば、逃れられるから。
自分の願いを優先した責任からも。
瑞生を見捨てる悲しみからも。
それは、甘え以外の何物でも無かった。
「くそっ! なんで……! なんでだ! どうしてお前はこんなゲームを始めた!」
その甘えを今ハッキリと突き付けられ、ユウは逃げるようにそう口走る。
そもそも、こんなゲームが始まりさえしなければ。
「いや……そもそも、お前はいったい、何者なんだ――?」
――そもそも、コイツさえ存在しなければ。
愚痴のような、言い訳のような問が、ユウの口からこぼれて落ちた。
「……そうね。優勝した貴方にくらいは、教えてあげましょう」
そんなユウをやはり愉しそうに眺めながら、女神はそう言った。
女神が何者か。ずっと謎だった、この自称女神の正体。
ここまで来れば、彼女の正体が何だって驚きはしない。たとえ美しい女神の皮を被った、恐ろしく、醜い悪魔だったとしても。
むしろ、その方が納得できるくらいだ。今のユウにとって、彼女はこの上ない苦しみを押し付けてくる、悪魔でしかないのだから。
――そして、女神が告げたのは。
「私は、人々の思い描く運命の女神。気まぐれに人の運命を弄ぶ――そのためだけに、生み出された女神よ」
おそらく、悪魔よりも最悪な正体だった。
だって、訳が分からない。
「そんな……そんな神がいてたまるか! 神様っていうのは……っ」
そこまで言って、ユウは気が付く。
神様とは。その定義を、ユウは知らなかった。
世界を創ったとか、何かを司っているとか、そんなのはこの科学の時代に馬鹿らしい定義だ。であれば、神とは何か。何のために生まれて、何を為す存在なのか。
だが、人の運命を弄ぶためだけに生まれた存在だと言われると、感覚がそれを認めるのを拒否する。
何の根拠も無い、ただの感情による否定だ。
「人に信じられ、人の思いが生み出す存在。それが神よ。私もその中の一柱に過ぎない」
思い悩むユウに、やがて神自身から語られたのは、そういう自己定義だった。
「人の思いが……生み出す……?」
神が存在して、人が存在するのではなく。
人が存在するから、神が存在する。
女神は、そう言っているのだった。
なら、この女神は――
「ええ。――私は、人の『ある思い』が生み出した神」
「ある、思い――?」
酷く、不快な感覚があった。
胃の中で何か小さい生き物が蠢くような。
首筋を、何か冷たいものでゆっくり撫で回されるような。
そして――
「『何か、自分の人生を変えてくれる出来事は起こらないだろうか』」
その言葉を聞き、飲み込み、理解して。ユウは、無意識に息を止めていた。
その言葉は。その思いは。
ゲームが始まる、その朝。
――ユウが確かに、思ったことだった。
それはつまり――この女神を生み出したのが。この惨状を引き起こしたのが。
「――俺、なのか……?」
愕然と、声を上げる。手が震え、膝が笑い、脳みそに熱された氷を詰め込まれたような感覚が走る。
――多くの人々を消し去り、傷付けたゲーム。その原因が。
何の気なしに思った、そんな他愛も無い思考だというのか。
「それは、そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるわ」
返ってきた言葉は、ユウに対するフォローでも追い打ちでもなく、ただ曖昧な事実だった。
疑問を表情で物語るユウに、女神は続ける。
「人ひとりの思いの力なんて、高が知れているもの。貴方一人の思いに、神を生み出すような力は無い。それくらい、分かるでしょう?」
言われれば、それは当たり前に納得できた。
もし一人の思いが神を生み出すのなら、この世には八百万どころか、七十五億の神が居ることになる。
つまり、女神が言いたいのは。
「でも、それが集まれば。合わされば。束になれば」
一人の思いの力は小さい――しかし、多くの人間が、同じ思いを持っていたなら。
「それは、世界を変える大きな力になる。……善悪を問わずにね」
――そういうことだ。
「だからこれは、決してあなた一人の思いの結果ではない。でも、あなたの思いの結果ではある」
「そういうことよ」、と女神はユウを一瞥した。
そして、心底愉快そうに、どこまでも愉しそうに、大きな声で笑い出す。
「笑ってしまうわよね。『本当の自分はこんなもんじゃない』なんて、どこまでも傲岸不遜な。そのくせ、肝心な部分は神頼みという、呆れるほど他力本願な。そんな思いを抱いている人間が、世界を変えるくらい――神を生み出すくらい、沢山存在しているなんて」
本当に、笑ってしまう。
傲岸不遜。他力本願。正にその通りだ。みっともなくて、情けなくて、傲慢で憐れで醜くて――そんな。
そんな、ユウと同じような人間が。掃いて捨てるほど居たのだ。
「そのお陰で、私が生まれた。だから私は、その願いを叶えただけ」
ユウの元へ、女神はスルリと歩み寄る。
そして耳元で、囁くように問いかける。「ねえ?」と、親しみを込めて。
「――間違いなく、人生は変わったでしょう?」
否定すべくも無い。ユウの人生は、大きく変わった。
ユウだけではない。ミコトも、アカリも、リョウカも。間違いなく、全ての参加者の人生が。
「……」
言葉はない。ユウが言える事なんて、何一つ存在しなかった。
どうにもならない、耐え難い沈黙が、長い間続いた。
「……さて。そろそろ聞かせてもらえるかしら。――貴方の願いを」
その沈黙を破り。
女神はいよいよ、選択を迫った。
「俺は……」
重すぎる責任と決断に、心が軋む。しかし、ユウは答えなければならない。
それが、ここまで来てしまった――最後の一人になってしまった。
ユウの、替えの利かない役割なのだから。
「……俺は確かに、思ってたよ。『何か、自分の人生を変えてくれる出来事は起こらないだろうか』。そう思ってた」
そしてユウは、訥々と語り出した。
ゆっくりと、自分の思いを確かめながら。
「だって、そうだろ。そんなの、誰だって多かれ少なかれ思ってるようなことだ。しかも俺は……」
逆に、自分の人生に百パーセント満足している人間が、どれだけ居るのだろう。
自分だけではどうにもならない不満を、誰だって抱えているのではないか。
そして、
「俺には、瑞生が居た。瑞生を失った悲しみが、助けられなかった悔しさが。俺の中にはずっとあったんだ」
失われた命は、正に『どうにもならないこと』だ。
自分ではどうにもならない、決して消え去ることのない不満。
「当たり前の日常が幸せ。瑞生はそれを教えてくれた。でも、そこから瑞生が居なくなったら――俺にとって、もうそれは当たり前の日常じゃない。幸せだとは、どうしても思えなかったんだよ」
――何故、瑞生はここに居ないのか。
その疑問は、不満は、切望は、常にユウの中にあった。
穴だ。
永遠に満たされることのない、ぽっかりと胸に空いた穴。
その穴があるかぎり、ユウは永遠に幸せだなんて思えない。
「だから、俺は俺が嫌いだった。瑞生の思いを踏みにじって生きる、そんな自分が」
それではいけないと、分かっていた。
瑞生はユウに、日々を幸せに生きて欲しいと願っていたはずだから。
彼女を愛しているから、幸せだと思いたい。
彼女を愛しているから、幸せだと思えない。
「変われるものなら変わりたかった。でも、それは俺には不可能に思えて。だから、自分を変えてくれるきっかけが欲しかったんだ」
『何か』が起これば、変われるのではないかと思った。
自分で変われなくとも、自分の人生を揺るがす『何か』があれば。
「でも――それは違ったんだな」
そう、それは間違っていた。
このゲームが始まる前と後で、ユウは変わったかもしれない。
しかし、もし変わったとすれば。それは――
「人生を変えるのは――人を変えるのは『何か』じゃない。いつだって、自分じゃない『誰か』なんだよ」
きっと、ゲームのせいじゃない。
ゲームを通して出会った、『誰か』のお陰なのだ。思い浮かべた彼女は、長い黒髪を揺らして笑っていた。
「俺の中で、瑞生への思いは何も薄れちゃいない。ずっと変わらず、胸の中に有り続ける。でも」
それはきっと、これからも変わらない。
瑞生は大切なままで、ユウの心のどこかに、ずっと居続ける。
それでも、
「その思いを抱えたままでも――他の誰かを、大事に思うことができるんだな」
そう言えば、ミコトもそんなことを言っていた。
戦い抜き、そして打ちのめされたツカサに向かって。心が、愛が有限だなんて、そんなことはないのだと。
それは綺麗事だと、ユウは思っていた。
しかし、ツカサと同じように戦い抜き、打ちのめされた今なら。
自分の心を絞り尽くした今、しかし湧き上がってくるこの感情が、はっきりと教えてくれる。
彼の言うことは、間違ってなんかないと。
「だからきっと、これから。これから俺は、幸せだと思える。きっと、当たり前の日常も愛していける。俺の人生を、きっと変えてくれる人が居るから」
今まで出会った、多くの人が。
これから出会う、沢山の人が。
きっと、ユウを変えてくれるから。
「だから、願うよ」
ユウは、堂々と声を発した。
今までずっと、騙り続けてきた願いを。
今は心から、本心として語れる。
「このゲームを通して、失われた命。その全てを、取り戻したい」
それが、ミコトの願いであり、アカリの願いであり、リョウカの願いであり、きっと瑞生の願いでもあり。
嘘のない、ユウ自身の願いだった。
「……本当に、いいのかしら?」
答を出したユウに、女神は静かに問いかける。
だが、問われたところで、もうユウは揺るがなかった。
「ああ。それが事の発端の一人である、俺の責任でもあるからな」
そんな風に、冗談めかして軽口すら叩いてみせる。
だが――
「いえ――そういうことではないのよ」
そう言って、女神は愉しそうな顔で笑った。
*************
「どういうことだ」
女神の表情を見て、ユウは急速に警戒を強める。
彼女の言い草は、その表情は、まだ何かあると物語っていた。
「……そうね。そう言えば貴方は、この世界について面白い表現をしていたわね」
言われ、ユウは思い返す。あれはそう、第三ゲームのこと。
「『消極的に止まっている世界』、だったかしら? それは、半分は正解ね。この世界は止まっている。解釈も、貴方のもので合っているわ」
基本的には止まっている。だが、ユウたちが意志を持って動かせば、世界は動き出す。そんな風に考えていた。
そしてそれは、どうやら合っているらしい。
「でも、まだ分かっていないことがあるでしょう?」
分かっていないこと。
考えるまでもなく、ユウはそれが何を指しているか理解した。
「――参加者以外が、どこに消えたか」
今のこの世界には、参加者しか居ない。
それ以外の人間は、いやそれどころか生き物も全て、世界のどこにも存在していなかった。
「ええ、そうよ。でも、その前提は間違い」
女神はその言葉を肯定しつつ、しかしユウの間違いを指摘する。
「消えたのではなく――増えていたのよ」
「増えていた――?」
そうして口にされた女神の言葉を繰り返し――思い至る。
「まさか、……そういうことなのか?」
参加者以外が消えたのではない。
しかし、ここに参加者以外は居ない。それが意味するところは。
「ええ。最初から、この世界には参加者しか居なかったのよ」
女神のその言が答だ。
「つまり……別の世界では。いや――元の世界では……!」
この世界に居ないなら、別の世界に居るということ。
そしておそらく、それは全く別の世界ではなく。
「そう。貴方が今居るこの世界は『コピー』よ。貴方たちが元居た世界を、ある一時点で正確にコピーしたもう一つの世界。生物以外をね」
ユウの考えは当たっていた。つまり、今ユウが居るのは『コピー』の世界なのだ。
そして、消えたのではなく、増えたというのは。
「そして、誰も居ない空っぽのコピーの世界に、日本の高校生だけをコピーして参加者にした。それがこの世界の真実。つまり――」
ここは最初から、参加者だけが居る世界。
そして、ここに居る参加者は。
「今、ここに居る俺も。他の参加者も、全員。元の世界からコピーされただけの存在」
コピー。複製。偽物。元の世界に居たのとは別の、ただの贋作。
「正解よ。元の世界で、信藤結という人間は今も元気に、平凡な暮らしを送っているわ」
――なるほどな、とユウは思う。
それでようやく、合点がいく。世界の真実にも――女神がさっきからずっと、この上なく愉しそうに笑っていることにも。
「ここは言わば、元の世界から見れば、精巧に造られた模造品に過ぎない。もちろん、貴方自身も。――ただの、複製なのよ」
果たして、女神は問いかけた。
「それでも貴方は、同じ事を願うのかしら。一番大切な人を生き返らせるのを諦めて。どこの誰かも知らない、ただの偽物でしかない、その他大勢の人間を生き返らせる。その決断が、できるのかしら?」
元々存在していなかった複製品。
このゲームのためだけに作られた偽物。
それのために、たった一つの願いを懸けることができるのか、と。
「……」
ユウは黙り、考える。
つまり、ここで願いを変えれば。瑞生を生き返らせれば。
ユウは、再び瑞生に会えるのだ。話をして、笑い合って、手を取ることができるのだ。
「別にいいじゃない。この世界の人間が消えたって、元の世界の、オリジナルの人間たちは元気に暮らしているんだもの。だったら、ここで好き勝手に生きたっていいじゃない。元の世界の自分のぶんも。ね?」
二つの世界で考えれば、収支はプラスになる。
たとえこの世界に、ユウと、ミズキ以外の人間が誰も居なくたって、二人が増えたというだけのことだ。
「さあ、願いを変えるなら今しかないわよ? 最後にもう一度だけ、訊いてあげましょう」
女神は優しく、とろけそうなほど甘い声で囁く。
「貴方は、何を願うのかしら?」
完璧な言い訳で塗り固めた、甘い甘い誘惑を。
ユウは、女神と目を合わせる。
間近でみる彼女は美しく、神と呼ぶに相応しい。ともすればその言葉は、愚かな人間を導く救いの言葉なのかもしれない。
しかし――
「――愉しそうで、何よりだよ」
ユウはそう言って、それを鼻で笑い飛ばした。
「でもな、それは間違ってる」
笑みを消した女神に向かって、更にそう言い切ってみせる。
何故なら、ユウにとってそれは『間違っている』から。自分にとって『間違っている』なら、それは神の言葉だろうと関係ない。
「たとえコピーだろうと、偽物だろうと。この世に存在した時点で、それはもう生きてるってことなんだよ」
瑞生もミコトも、きっとそう言う。
こと『命』に関して、ユウにとっての『正しさ』は二人の『正しさ』だ。ユウに『命』の大切さを教えてくれたのは、あの二人なのだから。
「だから、同じなんだ。コピーだろうが何だろうが。俺たちにとっては、全部同じ『命』なんだよ」
黙り込む女神に向かって、ユウは静かにそう結んだ。
それに――
「それに――思い出したんだ」
ミコトに殴られ、怒鳴られたあの時。
ユウは、思い出したのだ。
「瑞生の最後の言葉。今まで忘れてたなんて、瑞生に怒られるかもしれないけど」
悔しさと悲しさが封じ込めていた、瑞生の言葉を。
ミコトと約束を交わした彼女は、しかしその後――
「『楽しかったよ』。……『二人ともありがとう』、『楽しかった』。アイツは、そう言ったんだ」
最後の最後で、二人の手をしっかりと握って。
ユウがずっと言って欲しかったその言葉を。
ハッキリと、口にしていたのだった。
「俺はずっと、瑞生に何もしてやれなかったと思ってた。――けど、違ったみたいだ」
たとえユウに、その実感が無くても。
本人がそう言ったのだから、認めるしかない。
「楽しかったって人生を終えた人を叩き起こすなんて、それこそ酷い話だ。そう思わないか?」
そう言って、ユウは微笑んだ。
全く、笑ってしまう。たったそれだけのことを理解するのに、どれだけ遠回りをしたことか。
「だから、俺の答は変わらない。最後にもう一度だけ言ってやるから、耳かっぽじってよく聞け」
そしてユウは、ニヤリと笑って。
女神に向かって宣言した。
「このゲームを通して、失われた命。その全てを、取り戻したい。それが、俺の願いだ」
訪れた沈黙の中、ユウの心は静かに、晴れやかに凪いでいた。
考えを尽くし、心を尽くし、言葉を尽くした者だけに許される、満ち足りた静寂。自分がこんな気持ちになれる日が来るなんて、ユウは思っていなかった。
やがて、その沈黙をスルリと抜けて。
「――ふふ。人間って、本当に面白いわね」
女神は楽しそうな――今までとは違い、そこに幸せを含んだ笑顔で。
可笑しそうに、そう言った。
そして、その表情を引き締めて。
「願いは聞き届けられました。女神の力を以て、貴方の願いを叶えましょう」
慈愛に満ちた眼差しで、ユウに向かってそう告げた。
その表情は、その仕草は、頭の上から爪先まで、正真正銘の、女神の風格を備えていた。
しかしすぐ、元の彼女に戻って。
「大人の居ない世界で生きていくのは大変でしょうけどね。まあ精々、頑張るといいわ」
そんなことを宣って、やっぱり愉しそうに笑ったのだった。
「はは、大丈夫だよ」
しかしもう、彼女を恐れたり、苛立ったり、その言葉に怯む必要は無い。
何故なら――
「――皆が居るからな」
ミコトも、アカリも。そしてリョウカも。これから先には、タイジュだって、ユウキだって。
そして最後に、「それに」、と一言置いて。
「俺たちは高校生だ。どうせすぐに、大人になるんだから」
これから先の、未来を思って。
ユウは、曇りの無い笑顔を浮かべた。




